第45話 ワジュリアの門
林道を抜けてから、二日が過ぎた。
道中、四人は大きな街道を避けた。
進路を決める時、何度か助言したのはプレデリカだった。
「グレース渓谷の大橋へ近づく道は避けた方がいいわ。ルクレール側もベルダイル側も、まずそこを見る。補給路と伝令の道にも、今は兵の目があるはずよ」
プレデリカは地図の上で、いくつかの街道を指で避けた。
「ベルダイル側の正確な配置までは知らない。けれど、少し前まであの近くで戦っていたから、どこに兵を置くかはある程度読めるわ。正面街道より、古い開拓道と森沿いの小道を使うべきね」
リアはその助言を受け、ワジュリアへ向かう道を選んだ。
道は悪かった。
馬車が通るには狭く、雨の残る土はところどころぬかるんでいる。
人目が少ない代わりに、休める場所も少ない。
それでも、進むしかなかった。
三日目の昼過ぎ。
木々の隙間から、灰色の石壁が見えた。
「あれが、ワジュリアです」
リアが足を止め、低く言った。
ワジュリアは、領都バルントスのような華やかな街ではない。
石壁に囲まれた、前線寄りの拠点。
街というより、軍が留まるための城塞都市に近い。
外壁の内側には低い建物が並び、その奥に小型の城塞が見える。
城壁には、深い赤と黒を基調にした旗が掲げられていた。
獅子の紋章。
ベルダイル侯爵家の旗だ。
旗の下では、弓を持つ兵が城壁を歩いている。
門の近くには荷車が止まり、矢束や水樽を運ぶ者たちの姿もあった。
ここは、街である前に戦場の一部だった。
風に揺れる獅子の紋章を見て、プレデリカが目を細める。
「……ここから先は、私とアリシアは離れた方がいいわ」
クランが振り返った。
「なぜです」
「私は元ルクレールの上級騎士よ。グレース渓谷でベルダイルとは交戦したばかりだし、部隊長として顔を知られている可能性が高い。門で見られれば、余計な疑いを招くわ」
プレデリカは続ける。
「それに、城塞の中でフードを被ったまま通してもらえるとは思えない。顔を隠すなら、最初から近づかない方がいい」
その視線が、アリシアへ向いた。
灰色の外套を羽織った少女は、白い帽子のつばを両手で押さえている。
「こんな幼い子を、侯爵との面会に連れていくのも不自然よ」
プレデリカの言葉は淡々としていた。
「使者と護衛なら通る。けれど、子ども連れの使者となれば、必ず理由を聞かれるわ。まして、この子は白い髪に赤い瞳をしている。余計な目を引く」
リアは静かに頷いた。
「私も、そう考えていました」
クランは何も言わない。
ただ、アリシアを見る。
アリシアはクランを見上げていた。
不安げではある。
けれど、泣き出しはしなかった。
プレデリカは近くの林を示す。
「少し戻ったところに、古い小屋があったわ。狩人か、木こりが使っていたものだと思う。人の気配はない。そこで待つ」
「追手が来たら」
「逃げるわ」
即答だった。
「戦わないんですか」
「この子を連れているのに、無理に戦うわけがないでしょう」
プレデリカは静かに言った。
「守ると決めたなら、勝つことより先に、生かすことを考えるべきよ」
その言葉に、クランは少しだけ目を伏せた。
かつての部隊長の声だった。
だが、今の彼女はもうルクレールの部隊長ではない。
それでも、言葉の芯は変わっていなかった。
「分かりました」
クランは短く答えた。
アリシアが、外套の裾を握ったまま近づいてくる。
「くらん」
「……何だ」
「……まってる」
小さな声だった。
それだけ言うと、アリシアはまた白い帽子のつばを押さえた。
クランは少しだけ黙り、それから頷いた。
「すぐ戻る。隊長と待っていろ」
「うん」
リアはアリシアの前に膝を折った。
「アリシア。アズワール卿の言うことをよく聞いてください」
「うん」
「不安になったら、手を握ってもらっていてください」
アリシアはプレデリカを見た。
プレデリカは少しだけ目を瞬かせる。
「……必要なら、そうしなさい」
「うん」
アリシアは小さく頷いた。
プレデリカはリアへ視線を戻す。
「グローリー卿。無茶はしないで」
「はい」
「それと、クラン」
「はい」
「この人を一人にしないように」
クランは短く答える。
「分かっています」
リアは一瞬だけクランを見た。
何かを言いかけたようにも見えたが、すぐに前を向く。
「行きましょう」
二人はワジュリアへ向かった。
プレデリカとアリシアの気配が、少しずつ後ろへ離れていく。
クランは一度だけ振り返った。
木々の間に、深青の外套と灰色の小さな影が見えた。
すぐに、葉の重なりに隠れる。
リアが隣で言った。
「アズワール卿を信じますか?」
「……信じるしかない」
クランは前を向いたまま答える。
リアは少しだけ首を横に振った。
「いいえ。貴方は、信じることを選んだのだと思います」
クランは黙った。
言い返す言葉はなかった。
信じるしかない。
たしかに、そうだ。
だが、それだけではない。
プレデリカなら、アリシアを守る。
そう判断した。
それを選んだ。
クランは短く息を吐いた。
「……そうかもしれない」
「はい」
リアは小さく頷く。
「選ぶことは、いつも簡単ではありません。ですが、選ばなければ進めない時があります」
その声は穏やかだった。
けれど、揺らがない。
クランは、ワジュリアの門を見上げた。
石造りの外門。
左右には槍を持った兵が立っている。
商人や伝令らしき者が出入りしていたが、その数は多くない。
戦時の拠点らしく、門兵の視線は鋭かった。
二人が近づくと、すぐに槍が交差された。
「止まれ」
門兵の声が響く。
「名と用件を」
リアは一歩前へ出た。
背筋は伸びている。
声は、静かに通った。
「ワトル伯爵家の特務騎士、リア・グローリーです。伯爵より託された書状を、ベルダイル侯爵閣下へお届けするため参りました」
門兵の表情が変わった。
ワトル伯爵家。
特務騎士。
そして、ベルダイル侯爵への書状。
軽く扱える名ではない。
「証明できるものはあるか」
「こちらに」
リアは革筒を差し出す。
門兵は受け取らず、紋章を確認した。
ワトル家の封蝋。
そして、使者であることを示す銀製の小さな紋章。
門兵は隣の兵へ視線を送る。
「上へ確認する。ここで待て」
「承知しました」
リアは静かに答えた。
クランはその半歩後ろに立つ。
門兵の視線がクランへ向いた。
「そちらの男は」
「護衛です」
リアが答える。
「名は」
クランは短く言った。
「クラン」
「姓は」
「……ない」
門兵の眉が動いた。
身分が定かではない平民の護衛。
疑う理由としては十分だった。
だが、リアは表情を変えない。
「彼は私の護衛です。必要であれば、城塞内での指示にも従います」
門兵は少しだけリアを見た。
若い。
だが、軽くはない。
そう判断したのか、門兵はそれ以上を問い詰めなかった。
「確認が取れるまで待て」
二人は門の脇で待つことになった。
ワジュリアの外壁の上では、兵たちが行き交っている。
弓を背負った者も多い。
城壁の上。
そのひとつ高い場所から、弓を背負った女騎士が二人を見下ろしていた。
暗い赤茶の髪が、風に揺れる。
視線は冷静だった。
若い使者。
黒髪の護衛。
門前で無理に声を荒げず、待つ姿勢。
女騎士はしばらく二人を観察すると、それから城塞の奥へ目を向けた。
まるで、すでに報告すべき内容を決めたかのように。
やがて、門の奥から兵が戻ってきた。
「通られよ。侯爵閣下への取次ぎは、城塞で行う」
外門が開く。
ワジュリアの中へ入ると、空気が変わった。
街ではある。
だが、生活の匂いよりも軍の匂いが濃かった。
武具を運ぶ兵。
馬の手綱を引く従者。
積まれた矢束。
壁際に並ぶ水樽。
どこも、戦いに備えている。
リアは周囲を見ながら歩いた。
「前線の拠点ですね」
「……ああ」
クランも同じものを見ていた。
人々の顔に、余裕は少ない。
けれど、混乱しているわけではない。
ここは、戦うための場所として整えられている。
その奥に、小型の城塞があった。
外壁よりさらに厚い石壁。
低く重い門。
門の左右には、獅子の紋章を刻んだ盾を持つ兵が立っている。
リアとクランが近づくと、再び止められた。
「ここから先は侯爵閣下の居城だ。用件を」
リアは先程と同じように名乗る。
「ワトル伯爵家の特務騎士、リア・グローリーです。伯爵より託された書状を、ベルダイル侯爵閣下へお届けに参りました」
城塞の門兵は、外門の兵よりもさらに慎重だった。
リアの名乗りを聞き、革筒の封蝋を確認し、クランの剣へ視線を向ける。
「護衛はここで待機だ」
門兵が言った。
クランの目が、わずかに細くなる。
リアはすぐには返さなかった。
門兵の言葉は当然だった。
だが、クランをここで離すのは危険でもある。
その時、城塞の内側から別の声がした。
「待て。そちらの対応は私がする」
若い騎士が歩いてくる。
栗色の髪。
青灰の瞳。
黒鉄と深赤を基調にした騎士装。
まだ若いが、立ち姿に揺れがない。
門兵が姿勢を正した。
「セネル卿」
セネルは、リアとクランを順に見た。
「侯爵がお会いになるそうです」
リアは静かに頭を下げる。
「お取り次ぎ、感謝いたします」
「感謝は不要です。侯爵の判断ですので」
セネルの視線が、クランの腰の剣へ向く。
「護衛殿については、条件を付けます」
クランは黙ってセネルを見た。
「姓のない帯剣者を居城へ入れるのは、本来なら避けるべきです。ワトル伯爵家の使者の護衛でなければ、ここで武器を預けていただくところでした」
門兵たちの手に、わずかに力が入る。
クランは剣に触れない。
ただ、短く答えた。
「……そうだな」
「否定はしないのですね」
「する理由がない」
セネルの目が鋭くなる。
敵意ではない。
確認する目だった。
リアが一歩前へ出た。
「彼は私の護衛です」
声は静かだった。
けれど、退かなかった。
「城塞内での行動については、使者である私が責任を負います」
セネルはリアを見る。
若い騎士。
けれど、その言葉は軽くない。
しばらく沈黙が落ちた。
やがて、セネルは小さく頷く。
「帯剣は認めます」
門兵がわずかに驚いた顔をした。
セネルは淡々と続ける。
「ただし、城塞内で抜剣すれば、その時点で護衛殿だけでなく、グローリー卿も敵対者と見なします」
リアの表情は変わらなかった。
だが、その言葉の重さは理解していた。
ここでクランが剣を抜けば、自分も使者ではなく敵になる。
セネルは続ける。
「それを承知のうえで、お入りください」
クランは短く答えた。
「……分かった」
リアも静かに頷く。
「承知しました」
「結構」
セネルは次にリアを見た。
「グローリー卿。侯爵は長くは待ちません。こちらへ」
「はい」
城塞の門が開く。
内側から、冷えた石の匂いが流れてきた。
リアは一度だけ、外の方を振り返る。
遠くに、プレデリカとアリシアが待つ林がある。
見えるはずはない。
それでも、そこに確かに残してきたものがあった。
クランが隣へ立つ。
「……行くぞ」
「はい」
二人は城塞の中へ進んだ。
背後で、重い音が響く。
門が閉じていく。
石と鉄が噛み合う音は、ただの扉の音ではなかった。
マルムへ戻る道が、一度断たれたようにも聞こえた。
リアは前を向く。
クランもまた、剣には触れず、ただ隣を歩いた。
その先に、ベルダイル侯爵がいる。
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