第44話 蒼き騎士の選択
追手の声が、少しずつ遠ざかっていく。
林道の奥へ入り、木々の重なりが背後の道を隠したところで、リアはようやく足を緩めた。
「少しだけ、休みましょう。長くは留まれませんが」
そう言いながらも、リアの目は周囲を見ている。
安全な場所とは言えない。
ただ、ここなら追手が来るまでに気づける。
クランは剣を納めず、後方の林道へ視線を向けた。
アリシアは灰色の外套の裾を握り、リアのそばに立っている。
白い帽子のつばの下から、不安そうにクランを見上げていた。
プレデリカは槍を手放さなかった。
息は乱れている。
それでも背筋は伸び、すぐにでも動けるように足場を確かめている。
だが、肩口の鎧の縁に血が滲んでいた。
「隊長。傷を」
クランが言った。
プレデリカは、クランを見ずに返す。
「大したことはないわ」
「血が出ています」
「浅いと言ったでしょう」
そう言いながら、プレデリカの足がわずかに揺れた。
クランは咄嗟に腕を伸ばし、その肩を支える。
「隊長」
「……平気よ」
答えは早かった。
けれど、プレデリカはすぐには離れなかった。
ほんの一瞬だけ、クランの腕に体重が預けられる。
それだけで、彼女がどれほど無理をしていたのか分かった。
プレデリカは視線を逸らす。
「……近いわ」
「すみません」
「謝る必要はない。けれど、少し近すぎるの」
言い方は硬かった。
だが、拒む声ではなかった。
わずかに頬を赤くし、誤魔化すように視線を外している。
「謝るより、離れなさい」
クランはすぐに腕を引いた。
プレデリカは何事もなかったように立ち直す。
だが、先ほどより呼吸は浅くなっていた。
リアは荷の中から薬包と包帯を取り出した。
「応急手当をさせてください」
「必要ないわ」
「血を流したままでは、追手が来た時に不利です」
リアの声は柔らかかった。
だが、譲るつもりのない声でもあった。
プレデリカはリアを見る。
金髪の若い騎士。
まだ名も知らない相手。
それでも、状況を見る目は落ち着いている。
「……ごめんなさい」
短い言葉だった。
弱音ではない。自分の傷のために足を止めさせていると、理解している声だった。
リアは小さく頷く。
「大丈夫。すぐに済ませます」
鎧の隙間から布をずらし、傷を確認する。
深くはない。
だが、追われながら放っておけば厄介な傷だった。
リアが薬を当てる間、プレデリカは顔をしかめることもなく、ただ黙っていた。
その沈黙を破ったのは、プレデリカだった。
「まず確認させて。クラン、なぜ貴方がここにいるの」
クランは後方を警戒したまま答える。
「今は、リアの護衛です」
「リア?」
プレデリカの視線が、手当てをしている騎士へ向いた。
リアは包帯を巻く手を止めずに、静かに名乗る。
「リア・グローリーです。ワトル伯爵より書状を託され、使者としてベルダイル侯爵のもとへ向かっています」
「……グローリー卿、ね」
プレデリカはその名を口にしてから、わずかに姿勢を正した。
「プレデリカ・ヴァン・アズワールよ。先ほどは助力に感謝します」
「こちらこそ、アズワール卿。無事で何よりです」
次に、プレデリカの視線はアリシアへ向く。
灰色の外套。
白い髪。
赤い瞳。
エラール村で、クランのそばにいた少女。
「白い髪……やはり、あの時エラール村で貴方のそばにいた少女なのね」
クランは短く答える。
「はい」
アリシアはリアの袖を握ったまま、小さく口を開いた。
「……ありしあ」
それだけだった。
プレデリカは、少女を見つめる。
普通の子どもではない。
そのことだけは分かった。
けれど、今のプレデリカには、それを問い詰める資格があるのか分からなかった。
エラール村で殺されたのは、人だった。
強化兵として前線に立たされていたのも、人だった。
人であることは、正しさの証ではなかった。
ならば、人ではないかもしれないことは、悪ということになるのか。
今のプレデリカには、それを即答できない。
「その子についても、聞きたいことはあるわ」
プレデリカは言った。
「けれど、今ここで問い詰めるつもりはない」
クランの表情が僅かに硬くなる。
「貴方が守ろうとしている子だということは、分かったから」
クランは何も言わなかった。
ただ、剣を握る手から少しだけ力を抜いた。
プレデリカはクランへ向き直る。
「それで、クラン。なぜ私を助けたのかしら」
「助けたかったからです」
返答は短かった。
プレデリカは小さく息を吐く。
「それだけ?」
「……隊長には、借りがあります」
「私は、あの時、貴方を見逃したとは言っていないわ」
「分かっています」
クランの声は変わらない。
だが、その短い返事の奥に、エラール村の夜があった。
プレデリカが道を閉ざさなかったこと。
アリシアを連れて逃げる余地を残したこと。
それを、クランは忘れていない。
プレデリカもまた、忘れていなかった。
クランは後方から視線を戻し、低く問う。
「……隊長。エラール村の件を、どこまで知っていますか」
風が止まった。
葉の擦れる音さえ、遠くなる。
プレデリカはすぐには答えなかった。
まずリアを見た。
次に、アリシアを見る。
そして、クランへ視線を戻す。
「……貴方に伝えるには、残酷な話になるわ」
「俺の村です」
クランの声は低かった。
「知らないと、何も納得できません」
プレデリカは目を伏せる。
「……そうね」
それから、静かに告げた。
「全容を知っているとは言えないわ」
クランは動かない。
リアも、包帯をしまう手を止めていた。
「けれど、騎士長が把握していたことは確認した」
プレデリカの声は揺れなかった。
揺れないようにしていた。
「村は、偶然焼かれたのではないわ」
クランの指が、わずかに動いた。
拳を握ろうとし、そこで止まる。
息が、うまく入らなかった。
偶然ではない。
その言葉だけが、胸の奥で形を持った。
焼けた家。
崩れた梁。
焦げた匂い。
何度も夢に見た光景が、泥のついた林道の上へ重なる。
守れなかった。
そう思っていた。
自分が弱かったから。
間に合わなかったから。
騎士になりきれなかったから。
けれど、もし初めから奪うために選ばれていたのだとしたら。
あの村は、守る前から壊される場所にされていたのだとしたら。
喉の奥が、ひどく乾いた。
アリシアが、リアの袖を握る手に力を込める。
「エラール村は、ベルダイルとの戦いに向けて、領内をまとめる大義を作るために犠牲にされた」
リアの表情が強張った。
「村を……大義のために?」
「ええ」
プレデリカは頷く。
「少なくとも、私はそう聞いたわ」
クランは黙っていた。
怒鳴らなかった。
責めもしなかった。
責める言葉を探せなかった。
胸の奥で、何かが崩れる音だけがしていた。
ルクレール騎士団。
騎士長。
正義。
守るための剣。
その言葉が、ひとつずつ別の色に変わっていく。
プレデリカは続ける。
「貴方を同行させた理由も確認した」
クランの視線が、ほんの少しだけ上がる。
「地理把握だけではない」
言葉にするたび、自分の中の何かも削れていく。
「貴方が、騎士として何を選ぶ人間かを、騎士長は見たかった」
沈黙が落ちた。
遠くで鳥が鳴いた。
クランは、ようやく息を吐く。
「……そうですか」
それだけだった。
声は、ほとんど変わらない。
変えないようにしていた。
今、怒れば楽かもしれない。
叫べば、少しは息ができるのかもしれない。
だが、怒りを向ける相手はここにはいない。
目の前にいるのは、同じ騎士団の中で、それを止められなかった人だ。
そして、今は追われている人だった。
アリシアがそっとクランの袖を握った。
クランは振りほどかなかった。
小さな指が、震えている。
その震えで、自分がまだここに立っていることを思い出す。
プレデリカは、その小さな手を見てから、目を伏せた。
「……ごめんなさい」
今度の謝罪は、傷の手当てに対するものではなかった。
クランは何も言わない。
リアもまた、何も言わなかった。
今、軽い慰めを置いていい場面ではなかった。
やがて、クランが問う。
「……なぜ、追われていたんですか」
プレデリカは息を整えた。
肩の傷が、包帯の下で鈍く疼いている。
「グレース渓谷の戦いで、私は見たわ」
クランは黙って聞いている。
「恐怖も痛みも、命令の前では意味を失っている強化兵たちを」
リアが僅かに息を呑んだ。
「強化兵、ですか」
「ええ」
プレデリカは頷いた。
「人だった。少なくとも、私にはそう見えた。泣きも、叫びも、迷いもしない。ただ命令に従って前へ出る。倒れても、立てと言われれば立とうとする」
言葉がそこで一度止まる。
森の奥から、かすかに追手の声が聞こえた気がした。
クランがすぐに後方へ目を向ける。
だが、まだ近くはない。
プレデリカは続けた。
「私は、あれを騎士がする事として認めることができなかった」
「それで、離脱を?」
リアが問う。
「最初は、辞めるつもりだったわ」
プレデリカは短く息を吐く。
「けれど、認められなかった。私は騎士団に残され、従えと言われた。だから、書置きを残して出た」
クランは言った。
「隊長らしくないですね」
「ええ」
プレデリカは否定しなかった。
「私らしくないわ」
そして、少しだけ槍を握り直す。
「けれど、今のルクレール騎士団に従い続けることは、もっと私らしくなかった」
リアは静かに聞いていた。
その表情には、同情だけではない。
騎士が規律を破ってでも守ろうとしたものを、見極めようとする目があった。
「アズワール卿」
リアが言った。
「貴女は、これからどうされるつもりですか」
プレデリカはすぐには答えなかった。
答えを持っていなかったからではない。
それを口にすることが、簡単ではなかったからだ。
「ルクレールへは戻れないわ」
彼女は言った。
「戻れば拘束される。少なくとも、今の私は反逆者として扱われるでしょうね」
「ワトル領へ向かう道もあります」
リアが言う。
「伯爵であれば、事情を聞いてくださるはずです」
「そうかもしれない」
プレデリカは頷く。
「けれど、私は逃げ場を探しているわけではないの」
クランが彼女を見る。
プレデリカは、アリシアへ目を向けた。
白い帽子の下で、赤い瞳がこちらを見ている。
怯えている。
それでも、逃げずにそこにいる。
「今、ここで私だけ別れれば、追手は私を追うでしょう。でも、貴方たちに疑いが向かない保証もない。ルクレール側の動きも、ベルダイルとの境にある道も、私はある程度分かる」
プレデリカは言った。
「それに、貴方たちはワジュリアへ向かうのでしょう。使者と護衛だけで敵地に入る。しかも、この子を連れている」
アリシアが、帽子のつばを小さく押さえた。
「私が同行すれば、少なくとも道中の危険は減らせる。門に近づく前に離れれば、私の顔で余計な疑いを招くことも避けられる」
リアは黙って聞いていた。
プレデリカの提案は、感情だけではなかった。
追手。
地理。
顔を知られている危険。
アリシアの存在。
それらを踏まえた、現実的な判断だった。
「エラール村で、私は答えを出せなかった」
プレデリカは言った。
「命令に従うべきか、目の前の違和感に従うべきか。結局、私は何も選ばなかった。ただ、道を塞がなかっただけ」
クランは何も言わなかった。
「けれど、今回は違う」
プレデリカは顔を上げる。
「強化兵を見た時、分かったの。規律を守っているだけでは、守れないものがある」
リアの手が、書状を入れた革筒に触れた。
ベルダイル侯爵への使者。
ワトル伯爵から託された任務。
そして、目の前にいる元ルクレール上級騎士。
この話が、簡単なものではないことを、リアも理解していた。
「貴女は、私たちと来るつもりなのですね」
リアが言う。
「ええ」
プレデリカは答えた。
「ベルダイル侯爵のもとへ向かうというのなら、その任務が終わるまでは同行させてほしい。門の内側までは行けなくても、外で守ることはできる」
少しだけ言葉を探す。
「護衛として、貴方たちを守らせてほしいの」
そこで、アリシアへ視線を向けた。
「……迷惑でなければ、だけれど」
リアは柔らかく頷いた。
「迷惑などではありません。力を貸していただけるなら、心強いです」
クランも短く言う。
「……助かります」
アリシアが、プレデリカを見上げた。
「……いっしょ?」
その小さな声に、プレデリカの表情がほんの少しだけ和らいだ。
「ええ。しばらくはね」
「うん」
アリシアは小さく頷いた。
森の奥で、風が動いた。
追手は、まだ完全に諦めたわけではないはずだ。
けれど、今の四人には進む理由があった。
リアは書状を抱え直し、アリシアの手を取る。
クランは後方を警戒し、プレデリカは槍を握り直した。
深青の外套は泥に汚れ、銀鎧には血の跡が残っている。
それでも、彼女の背筋は折れていなかった。
新たな同行者を加えた一行は、林道の先へ足早に向かった。
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