第41話 蒼き騎士
森の空気は湿っていた。
夜明け前に降った雨が、まだ土の中に残っている。
馬の蹄が柔らかい地面を踏むたび、泥が低く跳ねた。
プレデリカ・ヴァン・アズワールは、手綱を握る指に力を込める。
馬の息が荒い。
無理もなかった。
リュゼル砦を出てから、十分な休息を与えていない。
道を選び、足跡を消し、追手の気配が近づくたびに速度を上げた。
だが、これ以上はもたない。
プレデリカは背後を振り返らなかった。
振り返らなくても分かる。
追手は近い。
ただ、無理に距離を詰めてこない。
音が散っている。
馬蹄。鎧の金具。草を踏む足音。
それらが一方向からではなく、左右へ広がるように聞こえていた。
逃げ道を潰されている。
追われているのではない。
追い込まれている。
プレデリカは手綱を引き、馬を止めた。
馬は首を振り、荒く息を吐く。白い泡が口元に浮かんでいた。
「……ここまででいいわ」
プレデリカは馬から降りると、首筋を軽く撫でた。
「ありがとう。後は好きなようにしなさい」
手綱を外す。
馬は少しだけ迷うように足を動かした後、木々の間へ走っていった。
その背が見えなくなるまで、プレデリカは一瞬だけ目を向ける。
すぐに視線を戻した。
腰には剣。
手には槍。
深青の外套は泥で汚れ、銀鎧の継ぎ目にも土が入り込んでいる。
部隊長の徽章は、もうない。
それでも、槍を構える手は乱れなかった。
プレデリカは森の奥へ走る。
木々の間隔。
足場の柔らかさ。
前方の傾斜。
背後から迫る追跡の圧。
全てを確認しながら進む。
だが、向きを変えられる場所は少なかった。
右へ行けば木の根が張り、左へ行けば足場が沈む。
後方に戻る選択肢はない。
誘導されている。
判断が遅すぎたとは思わない。
相手の手際が良いだけだ。
やがて、木々が途切れた。
狭い林道に出る。
古く、半ば草に埋もれた道だった。
プレデリカはそこで足を止めた。
前方に人影。
左右にも気配。
背後からは、追ってきた兵が静かに距離を詰めている。
完全ではない。
だが、包囲としては十分だった。
「見事な手際ね」
プレデリカは声を落とした。
前方の兵が左右へ分かれる。
その間から、一人の騎士が進み出た。
年は若い。
だが、立ち方に浮ついたものはない。
剣に手を置いたまま、無駄に間合いを詰めようとはしなかった。
シスト卿。
上級騎士ではない。
だが、そろそろその席に届いてもおかしくない騎士だと、プレデリカは以前から見ていた。
隊の配置にも、それが表れている。
前衛を近づけすぎず、弓兵と魔術兵を後ろへ置き、逃げ道だけを少しずつ狭めている。
雑な追跡ではない。
捕らえるための配置だった。
「アズワール隊長」
シストは姿勢を正した。
「騎士長ならびに副騎士長の命です。武器を捨て、同行してください」
「シスト卿。貴方が指揮を執っているのね」
「はい」
「申し訳ないけれど、その命令には従えないわ」
プレデリカの声は乱れなかった。
シストはわずかに眉を寄せる。
「理由を伺っても?」
「言い訳をするつもりはないわ」
槍の穂先を、少しだけ下げる。
降伏ではない。
ただ、話すための姿勢だった。
「ただ、私はもう、今のルクレール騎士団には従えないと思っただけよ」
シストの目がわずかに動いた。
何を指しているのか。
彼には分からないのだろう。
それでよかった。
ここで全てを話すつもりはない。
「……それでも、命令は変わりません」
シストは言った。
「騎士長からの命令は捕縛です。殺害ではありません。ですが、逃がしてもならない」
「そう」
「アズワール隊長。こちらも貴女を傷つけたいわけではありません」
「分かっているわ」
プレデリカは周囲を見る。
兵たちの顔には、戸惑いがあった。
かつて同じ騎士団で、同じ旗の下にいた者たちだ。
彼らにとっても、自分は昨日まで上級騎士であり、部隊長だった。
それでも、命令は命令だった。
その中で、ひときわ落ち着かない声が上がる。
「まさか、あの堅物隊長殿が逃げるとはな」
ラッセルだった。
隊列の後方にいたはずの男が、剣の柄に手をかけながら前へ出てくる。
顔には、緊張よりも妙な高揚が浮かんでいた。
「捕まえりゃ手柄だ。さっさと突っ込めばいいだろ」
「ラッセル、下がれ」
シストの声が低くなる。
「指示があるまで動くな」
「面倒くせえな。こっちは人数がいるんだぞ」
「相手はアズワール隊長だ。正面から押せば、こちらが崩される」
「大げさなんだよ」
ラッセルが剣を抜いた。
シストの表情が硬くなる。
「ラッセル、命令前だ」
「こういうのは早い者勝ちなんだよ!」
ラッセルが踏み込んだ。
プレデリカは小さく息を吐く。
怒鳴る必要はない。
焦る必要もない。
「邪魔よ。退きなさい」
「誰が退くか!」
ラッセルの剣は速くない。
勢いだけはある。
だが、踏み込みが浅く、肩が先に動く。剣筋も読みやすい。
プレデリカは半歩だけ身をずらした。
ラッセルの剣が空を切る。
その腕に、槍の柄を添えるように当てた。
力任せではない。
向きをずらす。
ラッセルの体勢が崩れた瞬間、石突が膝の横を打った。
「ぐっ」
ラッセルの足が落ちる。
それでも剣を振ろうとした。
プレデリカは槍を反転させ、柄で手首を叩く。
剣が地面に落ちた。
最後に、石突が腹を打つ。
息を詰まらせたラッセルが膝をつき、そのまま前のめりに倒れた。
殺してはいない。
骨も折っていない。
だが、しばらく立てない。
プレデリカは倒れたラッセルを一瞥し、シストへ視線を戻す。
「シスト卿。戻ったら、命令違反で処分することを勧めるわ」
「助言に感謝します」
シストは目を細めた。
「ですが、まずは貴女を拘束します」
彼は片手を上げる。
「弓兵、魔術兵。足を止めろ。致命傷は避ける」
弓が引かれる音。
魔力が集まる気配。
「前衛は迂闊に距離を詰めるな。槍の間合いに入るな」
兵たちが動いた。
その動きで、シストが本気で自分を理解していることが分かった。
正面から押してこない。
数で一気に潰しにこない。
槍の届く距離を避け、動ける場所だけを削ってくる。
弓が放たれる。
プレデリカは槍を回した。
一矢を弾き、次の矢を避ける。
足元に小さな魔術の光が走った。
地面がぬかるむ。
踏み込めば足を取られる場所へ、兵が誘導するように圧をかけてくる。
プレデリカは前へ出ない。
右へ半歩。
左へ一歩。
槍の穂先で前衛の剣を止め、柄で別の兵の肩を打つ。
踏み込んできた従騎士の足を払うと、相手は泥の上に倒れた。
殺さない。
倒す。
退かせる。
次の動きを封じる。
それだけに留める。
けれど、倒れた兵の穴はすぐに埋まった。
別の兵が前に出る。
弓兵がその背後から牽制を入れる。
魔術兵は、プレデリカの進みたい場所を先に潰す。
よく訓練されている。
シストの指揮も悪くない。
「無理に打ち込むな。間合いを削れ」
シストの声が飛ぶ。
「相手は上級騎士だ。一人で止めようとするな」
プレデリカは槍を横に払った。
二人分の前進が止まる。
その隙に後ろへ下がろうとしたが、背後から矢が地面に刺さった。
退路を塞がれる。
呼吸が少しだけ浅くなった。
逃げてきた疲労が、ここへ来て重さを持ち始めている。
馬を走らせ、森を抜け、包囲に追い込まれた。
眠っていない。水分補給も十分ではない。
それでも、槍はまだ動く。
プレデリカは踏み込んできた兵の剣を穂先で受け、柄を滑らせるようにして手元を叩いた。
剣が落ちる前に、別の兵の槍が横から伸びる。
浅い。
避ける。
鎧の肩をかすめた。
金属音が耳元で弾ける。
プレデリカは相手の槍を絡め取り、引き倒す。
だが、その動きの終わりを狙って、魔術の光が足元を走った。
地面が弾ける。
泥と小石が跳ねた。
視界が一瞬だけ乱れる。
そこへ、前衛が詰めた。
プレデリカは槍を戻す。
遅い。
そう判断した瞬間、穂先に強い衝撃が走った。
槍が横へ弾かれる。
手から完全に離れたわけではない。
だが、間合いは崩れた。
別の兵が踏み込んでくる。
プレデリカは即座に槍を捨てた。
無理に拾えば、斬られる。
腰の剣を抜く。
刃が短く鳴った。
騎士である以上、もちろんプレデリカも剣は扱える。
だが、槍ほど包囲を制御できない。
距離を詰められれば、数の差がそのまま重さになる。
――まずいわね。
声には出さなかった。
シストが短く命じる。
「詰めろ。ただし殺すな」
兵が前に出る。
プレデリカは剣を構え直した。
その時だった。
乾いた音がした。
前へ出た兵の兜が、横から打たれた。
兵は何が起きたのか分からない顔のまま体勢を崩し、膝を折る。
石だった。
拳より少し小さい石が、泥の上に転がっている。
誰かが投げたのだ。
兵たちの視線が、一斉に林道の横へ向いた。
木々の影の中に、男が立っていた。
黒い髪。
黒い目。
灰と土に馴染む旅装。
剣はまだ抜いていない。
片手には、もう一つ小石を握っている。
その少し後ろで、金髪の騎士が白い帽子の少女を庇うように身を低くしていた。
プレデリカは、目を見開いた。
「──クラン」
そこにいたのは、かつて自分が部隊にいた、平民出身の元騎士だった。
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