第40話 出発前夜
夜の屋敷は、昼間よりも広く感じられた。
灯された明かりは少なく、廊下の奥には静かな影が落ちている。
人の気配はあるはずなのに、夜になると屋敷全体が息を潜めているようだった。
その一室では、机の上に地図が広げられていた。
マルム。
グレース渓谷。
ワジュリア。
ベルダイル領。
紙の上に記された地名は、線で結ばれているだけだ。
だが、その線の上を荷馬車が通り、兵が進み、人が逃げ、時には命が失われる。
クランは、地図を見下ろしていた。
少し前の自分なら、そこに描かれた道を逃げ道として見ただけだっただろう。
どこを通れば追手を避けられるか。
どこならアリシアを隠せるか。
どこで戦えば不利にならないか。
それだけを考えていたはずだ。
けれど今は、違うものも見えていた。
橋が止まれば荷が止まる。
荷が止まれば、街の食卓も、薬箱も、馬の飼葉も細る。
地図の線は、逃げ道であると同時に、人の暮らしを繋ぐ道だった。
リアが指先で道筋を追いながら、静かに言った。
「ベルダイル侯爵は、ワジュリアにいると思われます」
クランは、彼女の指が止まった場所を見る。
ワジュリア。
ベルダイル領の西側に記された城塞都市。
領都バルントスよりも、グレース渓谷に近い。
「領都ではないのか」
「はい。グレース渓谷の大橋で軍が動いている以上、戦況を直接見るためにも、侯爵自身が前線に近い場所へ出ている可能性は高いと思います」
リアの声は落ち着いている。
だが、その指先は地図の上を慎重になぞっていた。
「距離を考えれば、二日か三日は見ておいた方がいいでしょう。正面の街道を避ければ、さらに時間はかかります」
「避けるべきだな」
クランは短く答えた。
「大橋に近づけば、ルクレールにもベルダイルにも見つかる」
「ええ」
リアは頷いた。
「使者として堂々と進むべき場面もあります。けれど、今はまだその前です。まずは無事にワジュリアへ近づく必要があります」
使者。
その言葉に、クランはリアを見る。
彼女は革筒に収められた書状を机の端に置いていた。
ワトル伯爵家の封蝋が押された、正式な書状だ。
それを届けるのが、今回の役目。
だが、届ければ終わりではない。
ベルダイル侯爵の言葉を聞き、戦が広がらない道を探る。
リアはそう考えている。
命じられたから進むのではない。
自分で見て、聞いて、選ぼうとしている。
そのことを、クランは少しずつ理解し始めていた。
部屋の隅では、アリシアが長椅子にもたれて眠っていた。
昼間、白い帽子を大事そうに押さえていた少女は、今は小さく膝を抱え、静かな寝息を立てている。
帽子は、枕元に置かれた布の上にあった。
白く、柔らかい帽子。
アリシアにはよく似合っている。
だが、旅の道中では目を引く。
その白さは、森の中でも、街道でも、兵の目に残るだろう。
リアも同じことを考えたらしい。
彼女は帽子を見つめ、小さく呟いた。
「……やはり、用意しておいた方がよさそうですね」
クランは顔を上げた。
「何をだ」
「アリシアの外套です。今のままでも問題はありませんが、街道では少し目立つかもしれません」
リアは眠るアリシアへ視線を向ける。
「ワトル伯爵も仰っていました。ただの子どもとして扱うなら、目立たない方がいいでしょう」
ただの子ども。
その言葉を、クランは胸の中で繰り返した。
アリシアは魔族だ。
人界では、見つかれば討伐される存在だ。
それでも今、リアは彼女をただの子どもとして扱おうとしている。
隠すためだけではない。
守るために。
アリシアが、自分を異物としてではなく、旅をする一人として歩けるように。
クランは黙ってアリシアを見る。
白い帽子。
細い肩。
眠っていても、指先は布を握っていた。
何かを失うことに、慣れてしまった子どもの手だった。
「今なら、まだ開いている店があるかもしれません」
リアが立ち上がろうとした。
クランは短く言う。
「俺が行く」
リアの動きが止まった。
「ですが」
「他の準備を進めておいてくれ」
そう言ってから、クランは少しだけ言葉を足した。
「……アリシアのものなら、俺が見てくる」
リアは、わずかに目を見開いた。
それから、静かに微笑む。
「分かりました。暗い色の外套を。子ども用でなくても構いません。羽織れて、あまり重くないものをお願いします」
「ああ」
「それと」
リアは、少しだけ考えるようにアリシアの帽子を見る。
「帽子を隠すためではなく、寒くないように。そう言ってあげてください」
クランは、すぐには答えなかった。
それがアリシアにとって大事なことなのだと、少し遅れて理解する。
白い帽子は、ただ目立つものではない。
アリシアが受け取った、大切なものだ。
それを隠せと言われれば、きっと彼女は傷つく。
「……分かった」
クランは外套を手に取った。
部屋を出る前に、もう一度アリシアを見る。
眠ったままの少女は、何も知らない。
明日から自分たちがどこへ向かうのかも、その先に何が待っているのかも。
だが、起きた時には歩き出すことになる。
ならばせめて、少しでも寒くないように。
目立ちすぎないように。
それくらいは、自分がしてもいいはずだった。
クランは何も言わず、扉を閉め夜の闇の中に出た。
夜のマルムは、朝とは違う顔をしていた。
昼間は人の声で満ちていた通りも、今は店じまいの音がまばらに響くだけだった。
軒先の灯りが石畳に落ち、そこから少し離れれば、道はすぐに暗くなる。
同じ街のはずなのに、別の場所のように見えた。
クランは通りを歩きながら、周囲に目を配る。
荷車の音が消え、人の声が減ると、残った沈黙の奥に別のものが潜んでいるように思えた。
戦場ではない。
だが、安全でもない。
それは、逃げ続けてきたクランにはよく分かる感覚だった。
開いていた旅道具屋の軒先で、クランは足を止めた。
店主は片づけの途中だった。だが、まだ客を断る様子はない。
「何か探しものか?」
店主が声をかける。
「……外套を」
「旅用か?」
「ああ」
「大人用ならある。子ども用は少ないな」
「小さめで、目立たないものを」
クランがそう言うと、店主は棚の奥から暗い灰色の外套を取り出した。
厚手ではない。
だが、夜風を防ぐには十分で、色も目立たない。少し袖を折れば、アリシアでも羽織れるだろう。
「これなら、子どもでも使えなくはない。少し大きいがな」
「それでいい」
「旅か?」
店主が布を畳みながら問う。
「近ごろは物騒だ。グレース渓谷の方も騒がしいって聞く。子ども連れなら、あまり大きな道は通らん方がいい」
クランは代金を置いた。
「分かっている」
「ならいい。……気をつけろよ」
見知らぬ店主の声に、余計な親切はなかった。
だが、その言葉は軽くなかった。
クランは外套を受け取る。
畳まれた布は、夜気を吸って冷えていた。
「……助かる」
短く言って、店を出る。
屋敷へ戻る道は静かだった。
月は雲に隠れ、灯りの届かない路地は黒く沈んでいる。
クランは歩きながら、ふと足を止めた。
視線。
そう感じた。
背後ではない。
右手の路地。
クランはゆっくりと横を向く。
暗がりの奥に、誰かが立っていた。
黒灰のフード。
小柄な影。
わずかに覗く、淡い灰銀の髪。
薄い灰色の瞳が、こちらを見ている。
クランの手に力が入った。
あの時の光景が、頭の奥で蘇る。
ゲイツ。
歪められた魔物。
再生を続けるキメラ。
そして、そのキメラを一瞬で崩したフードの騎士。
あの時、たしかに自分の名を呼ばれた。
「……あの時の」
声が、かすれた。
影は動かない。
路地の奥で、風が吹く。
その風に紛れるように、声がした。
「クラン」
その呼び方は、初めて名を知った者のものではなかった。
そう思った理由を、クラン自身にも説明できない。
クランは一歩踏み出した。
影の中の瞳が、わずかに揺れた気がした。
「……今度は」
かすかな声。
聞き間違いかもしれない。
風の音だったのかもしれない。
「守るの?」
クランの胸が、静かに冷えた。
言葉の意味を考えるより早く、身体が動きかける。
追うべきか。
捕まえるべきか。
問いただすべきか。
だが、腕の中にはアリシアの外套があった。
屋敷には、眠っているアリシアがいる。
書状を抱え、出発の準備をしているリアがいる。
今、自分が追えば、その二人を置いていくことになる。
クランは息を吐いた。
以前の自分なら、追ったかもしれない。
答えを得るために。
不安を消すために。
危険を先に潰すために。
だが、それは本当に守ることなのか。
今、戻るべき場所を置いてまで追うことなのか。
「……誰だ」
クランは低く問う。
返事はない。
次の瞬間には、もうそこには誰もいなかった。
路地の奥に残っていたのは、湿った石畳と、壁に落ちた薄い影だけだった。
クランはしばらく、そこを見ていた。
追えば、何か分かったかもしれない。
だが、外套を抱え直す。
今は違う。
今の自分には、戻る場所がある。
クランは路地の奥をもう一度だけ見た。
そして、足早に屋敷へ戻った。
「おかえりなさい、クラン」
扉を開けると、リアが顔を上げた。
机の上には荷が整えられている。
水袋。
携帯食。
簡易の薬包。
包帯。
火打ち道具。
使者として持つ書状は、革の筒に収められていた。
アリシアはまだ眠っている。
小さな寝息が、夜の静けさの中に混じっていた。
「……ああ」
クランは買ってきた外套を差し出した。
「これでいいか」
リアは受け取り、布地を確かめる。
「はい。ちょうど良いと思います。ありがとうございます」
そう言ってから、リアはクランの顔を見た。
「何かありましたか?」
クランはすぐには答えなかった。
リアの視線は静かだった。
責めるものではない。
ただ、気づいている目だった。
クランは一瞬、いつものように「何でもない」と言いかけた。
けれど、その言葉は喉で止まった。
何でもなくはない。
今の影を、自分だけで抱えるべきではない。
少なくとも、リアは同行者だ。
アリシアを預ける相手でもある。
「……路地に、誰かいた」
リアの表情が、わずかに変わる。
「誰か、ですか」
「黒灰のフード。灰銀の髪。薄い灰色の目」
リアはすぐに悟ったようだった。
「キメラの時に現れた方ですか?」
「たぶん、そうだ」
「接触は?」
「名を呼ばれた」
クランは窓の外を見る。
「それと……守るのか、と」
リアは何も言わなかった。
その沈黙は、答えを急がせないものだった。
「追わなかったのですね」
「ああ」
「なぜですか?」
責める声ではない。
ただ、理由を確かめる声だった。
クランは、眠っているアリシアを見る。
白い帽子の隣に、目立たない灰色の外套が置かれている。
「今は、戻る方が先だと思った」
それだけだった。
リアは少しだけ目を伏せた。
そして、静かに言った。
「それを聞けて、よかったです」
クランは答えなかった。
褒められるようなことではない。
ただ、追わなかっただけだ。
けれど、以前の自分なら追っていたかもしれない。
そう思った時、胸の奥に小さな違和感が残った。
変わったのか。
それとも、変わらざるを得なくなっただけなのか。
まだ分からない。
リアは外套を丁寧に畳み、アリシアの白い帽子のそばへ置いた。
「明日、アリシアに渡しましょう。きっと、自分のためのものだと分かれば、大切にしてくれます」
「……暗い色だと言うかもしれない」
「言うと思います」
リアは小さく笑った。
「その時は、寒くないように、と伝えてください」
「ああ」
クランは窓の外を見た。
夜の街のどこかに、あの影がまだいるような気がした。
──今度は、守るの?
問いのような声が、耳の奥に残っている。
あの女は、何を知っている。
なぜ、自分の名を呼ぶ。
なぜ、そんなことを問う。
答えはない。
だが、今夜追うべきものではなかった。
クランは、眠るアリシアのそばに置かれた灰色の外套を見た。
明日、これを着せる。
それだけは、今の自分にできることだった。
◇
翌朝、三人は日が高くなる前にマルムを出た。
門を抜けると、朝の空気は冷たかった。
街の中にはまだ眠っている家も多く、荷車の音も少ない。
パン屋の煙突からは細い煙が上がり、石畳には夜露が残っていた。
アリシアは、昨夜買った外套を羽織っていた。
白い帽子はそのままだ。
だが、灰色の外套の陰に少し隠れるだけで、昨日ほど目立ちはしない。
アリシアは袖を見下ろし、小さく首を傾げた。
「くらん、これ、くらい」
「……そうだな」
「でも、さむくない」
「ならいい」
そう答えてから、クランは少し言葉を足した。
「帽子は、そのままでいい」
アリシアが顔を上げる。
「いい?」
「ああ。落とさなければいい」
アリシアは帽子のつばに触れた。
それから、外套の前をぎゅっと握る。
「これ、くらんが、かった?」
「ああ」
「りあじゃなくて?」
「俺が買った」
アリシアは少しだけ考えた。
そして、小さく頷く。
「じゃあ、きる」
「嫌なら言え」
「いやじゃない」
アリシアは、もう一度外套を見る。
「ちょっと、くらいだけ」
「そうか」
「でも、あったかい」
「なら、よかった」
そのやり取りを、リアが前方で聞いていた。
彼女は何も言わなかったが、ほんの少しだけ笑っていた。
クランは、その笑みに気づかないふりをした。
リアは地図を確認し、道の先を示す。
「正面の街道は避けます」
彼女の声が、出発の空気へ戻る。
「グレース渓谷の大橋に近づきすぎれば、ルクレール軍にもベルダイル軍にも見つかる可能性があります」
クランは道の先を見る。
マルムから東へ伸びる街道は、やがて大きな道へ合流する。
だが、リアはそこへは向かわなかった。
少し外れた林の方へ進む。
「少し遠回りになりますが、この林道なら人目は少ないはずです」
「使われている道なのか」
「昔は、周辺の開拓村を結ぶ道の一つだったそうです。今は通る者も多くありません」
道は、確かに残っていた。
だが、草に半ば埋もれ、車輪の跡も古い。
木々が左右から覆いかぶさるように伸び、先の見通しは悪かった。
風が通るたび、葉が擦れ合う。
鳥の声が、遠くで聞こえた。
クランは一行の少し前、道の端を歩いた。
リアは中央を進み、アリシアはその近くにいる。
時折、アリシアは白い帽子を押さえ、灰色の外套の裾を気にしていた。
大きすぎる外套は、歩くたびに膝のあたりで揺れる。
それでも、彼女は脱ごうとはしなかった。
クランは、歩く速度を少しだけ落とす。
アリシアの歩幅に合わせるためだった。
以前の自分なら、ただ「遅れるな」と言ったかもしれない。
あるいは、黙って抱き上げたかもしれない。
だが今は、そのどちらでもなかった。
歩けるなら、歩かせる。
疲れたなら、止まる。
怖いなら、怖いと言わせる。
守るとは、全部を取り上げることではない。
クランは、アリシアの足元を見る。
小さな靴が、湿った土を踏んでいる。
少し危なっかしい。
それでも、自分で歩いている。
「くらん」
アリシアの声で、意識が戻る。
「しずか」
「……ああ」
確かに、静かだった。
人通りが少ないからだけではない。
森そのものが息を潜めているような静けさだった。
リアも周囲を見た。
「人の少ない道です。怖くなったら、すぐに言ってください」
アリシアは頷く。
「……いま、すこし」
小さな声だった。
クランはアリシアを見る。
アリシアは、外套の前を握ったまま、森の奥を見ていた。
「少し、怖いのか」
「うん」
「そうか」
クランは短く答え、自分の立つ位置を変えた。
アリシアから見て、森の奥が直接見えにくい場所へ。
彼が立つと、アリシアの視線の前に黒い外套が入る。
リアもそれを見て、アリシアの反対側へ自然に回った。
アリシアは二人を見上げる。
少しだけ、指の力が緩んだ。
「……だいじょうぶ」
「無理するな」
「うん。でも、だいじょうぶ」
クランは頷き、前を見る。
昨夜の影が、頭から離れない。
灰銀の髪。
薄い灰色の瞳。
自分の名を呼んだ声。
今度は、守るの?
なぜ、あの女はそんなことを言った。
クランは答えを持っていなかった。
ただ一つだけ、分かることがある。
あの影は、こちらを見ている。
自分だけではない。
自分が何を守ろうとしているかを。
そう考えた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
だが、足は止めない。
今は、前を見る。
リアが、ふとこちらへ視線を向けた。
「昨夜の方のことを考えていますか」
「……ああ」
「気になりますか」
「なる」
「それでも、今は前を見ているのですね」
クランはリアを見た。
彼女は穏やかな顔をしている。
だが、その言葉はただの確認ではなかった。
クラン自身が選んだことを、静かに言葉へ変えている。
「……そうだな」
クランは短く答えた。
「今は、前を見る」
リアは頷いた。
「はい」
その時だった。
鳥の声が、ふと途切れた。
クランは足を止める。
風ではない。
獣でもない。
枝が折れる音。
土を蹴る音。
その奥に、金属の擦れるような音が混じっていた。
リアが振り向く。
「クラン?」
クランは答えない。
身体が先に動いた。
リアとアリシアの前へ出る。
腰の剣に手をかけ、低く告げた。
「伏せろ」
リアは即座にアリシアの肩を抱き寄せた。
アリシアは息を呑んだが、声は上げなかった。
次の瞬間、林道の奥から土を蹴る音が一気に近づいた。
木々の間で、鳥が一斉に飛び立つ。
金属音。
荒い息。
そして、誰かが低く命令を飛ばす声。
クランは剣の柄を握り直した。
目の前の森が、ただの森ではなくなる。
人が逃げ、人が追い、人が刃を向ける場所へ変わる。
その奥で、一瞬だけ深い蒼が見えた。
クランの目が細くなる。
蒼い外套。
泥に濡れた銀鎧。
そして、槍。
声より先に、身体が理解した。
追われているのは、敵ではない。
クランは低く息を吐いた。
「……隊長」
林道の奥から、戦いの音が近づいていた。
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