第38話 白い帽子の朝
朝の光が、薄い布越しに部屋へ差し込んでいた。
グローリーの屋敷は、静かだった。
貴族の屋敷と呼ぶには小さく、騎士の住まいと呼ぶには整いすぎている。
けれど、そこに人の出入りはほとんどない。使用人の足音も、朝の支度を急かす声も聞こえなかった。
食卓には、焼いたパンと薄いスープ、切り分けられた果物が置かれている。
派手な料理ではない。
だが、温かかった。
クランは壁際に立ったまま、その光景を見ていた。
リアは皿を並べている。
アリシアは椅子に腰かけ、白い帽子のつばに両手を添えていた。
ずれていないかを確かめるように、何度も触れる。指先は慎重で、布を汚さないようにしているのが分かった。
リアがくれたものだ。
だから、落としたくないのだろう。
白い髪の上に乗った帽子は、まだ少し大きく見えた。
それでもアリシアは、どこか誇らしげだった。
クランは、それを見ていた。
表情を緩めたつもりはない。
だが、アリシアがこちらを見上げた時、赤い瞳が少しだけ丸くなる。
「くらん?」
「……何でもない」
クランは視線を逸らした。
リアが食卓に最後の皿を置き、穏やかに言う。
「今日は、少し街へ出ようと思います。必要なものを買いに行きたいので」
アリシアが、帽子のつばを押さえたまま顔を上げた。
「まち?」
「はい。無理に来なくても大丈夫ですよ」
そう言われると、アリシアは帽子を押さえる手に少しだけ力を込めた。
行きたいのだろう。
クランにも、それくらいは分かった。
「……いく」
アリシアが小さく答えると、リアが微笑んだ。
「では、三人で行きましょう」
朝食は静かに進んだ。
アリシアはパンを小さくちぎって食べていた。
時々、帽子のつばを触っては、まだそこにあることを確かめている。
リアは急かさない。
クランも何も言わなかった。
ただ、アリシアの手が皿へ伸びるたび、こぼれそうなスープの椀へ視線だけを向ける。
食事を終え、リアが食器を片付けようとした時だった。
アリシアが急に椅子から降りた。
「わたしも、はたらく」
リアの手が止まる。
クランも、わずかに視線を向けた。
アリシアは真剣だった。
小さな手を胸の前で握り、リアを見ている。
ただ手伝いたいだけではない。
ここにいていい理由を探している。
そう見えた。
リアは否定しなかった。
「では、一緒にしましょうか」
「うん」
「ただし、重いものは無理をしないこと。いいですね?」
アリシアは頷き、水差しへ手を伸ばした。
水の入った陶器は、見た目より重い。
持ち上げようとした瞬間、アリシアの腕が少し沈んだ。
クランは黙って手を伸ばし、水差しの下を支える。
アリシアが頬を膨らませた。
「できるよ」
「……重い物は持つな」
「できる」
「軽い物にしろ」
短いやり取りだった。
リアは、それを見て小さく笑う。
「では、アリシアにはこの布巾をお願いします」
「ふきん?」
「はい。濡れたところを拭くものです。これも大切な仕事ですよ」
アリシアは布巾を受け取り、少し考えてから頷いた。
「わかった」
それから、慎重に机の端を拭き始める。
綺麗に拭けているかどうか、何度もリアの顔を見た。
リアは一度も急かさなかった。
失敗を探すのではなく、できたところを見つけるような目で見ていた。
「上手ですね。そこもお願いします」
「うん」
アリシアは、ほんの少しだけ胸を張った。
クランは水差しを台所へ運びながら、ふと自分が自然に動いていたことに気づいた。
誰かに命じられたわけではない。
守るために剣を抜いたわけでもない。
ただ、重そうだったから手を貸した。
それだけのことだった。
支度を終え、クランは外套を羽織った。
その時、無意識に腰へ手をやる。
そこにあるはずの重さがなかった。
剣がない。
それだけのことが、思った以上に落ち着かなかった。
剣を持たずに歩くことなど、昔なら珍しくはなかったはずだ。
けれど今は、何かを置き忘れたような感覚が残る。
リアが、その動きに気づいた。
「剣の用意は、もう少しだけ待ってください」
「……急がなくていい」
「いいえ。約束したことですから」
リアは静かに答えた。
その言葉に、クランは少しだけ目を伏せる。
約束。
それを、軽く扱わない人間がいる。
まだ、そのことに慣れなかった。
◇
マルムの街は、朝の匂いに満ちていた。
クランは通りへ出ると、まず人の流れを見た。
逃げ道。
死角。
リアとアリシアの位置。
通りの端に止まる荷車。
建物の間にある細い路地。
それらを確かめてから、ようやく街の匂いが意識に入った。
焼きたてのパンの香り。
並べられた野菜の青い匂い。
荷車の車輪が石畳を転がる音。
店先の布を広げる音。
遠い戦場の気配は、まだここには薄い。
だが、まったくないわけではなかった。
商人たちの声は普段より少し低く、荷の到着を気にする者もいる。
街道の話をする男たちの顔には、晴れない影があった。
「グレース渓谷の方で、また荷が止まったらしい」
「橋がどうとか言っていたぞ」
「声を落とせ。まだ確かな話じゃない」
そんな囁きが、人の流れの隙間から聞こえてくる。
それでも、日常は続いている。
店は開き、子どもは走り、パンは焼かれている。
リアが通りへ出ると、すぐに声がかかった。
「グローリー卿、今日は珍しい連れだね」
パン屋の男が、焼き上がったばかりの籠を抱えて笑った。
「ええ。少し、街を見てもらおうと思いまして」
「そっちの子は、ずいぶん帽子が似合ってるじゃないか」
アリシアは帽子のつばを押さえ、クランの外套の端に半分隠れた。
リアが穏やかに言う。
「この子はアリシアです」
「そうかい。アリシアちゃんか」
男は笑い、焼き立ての丸パンが並ぶ籠を軽く持ち上げた。
「今朝の丸パンは焼き立てだ。ひとつどうだい?」
アリシアはパンを見た。
それからクランを見る。
「くらん、パン」
「……朝、食べただろ」
「でも、パン」
真剣な顔だった。
リアがくすりと笑う。
「ひとつだけですよ」
そう言って、リアは代金を払い、小さな丸パンを一つ受け取った。
アリシアは両手で受け取り、少しだけ目を輝かせる。
「りあ、ありがとう」
「どういたしまして」
クランは小さく息を吐いた。
「……すまん」
リアがクランにもパンを渡しながら、こちらを見る。
「すまん、より、ありがとうの方が嬉しいです」
クランは黙った。
アリシアはパンを両手で持ったまま、二人を見比べている。
クランはしばらくして、短く言った。
「……ありがとう」
リアは、満足したように微笑んだ。
街を歩く間、何人もの領民がリアへ声をかけた。
「グローリー卿、この前はうちの孫が世話になったよ」
「もう走り回っても大丈夫ですか?」
「ええ。昨日も転んで泣いてた」
「それは、もう少し大丈夫ではなさそうですね」
老人が笑う。
別の店主が、荷を運びながら頭を下げる。
「このあたりの巡回、来てくれて助かってるよ。最近、見慣れない連中も増えてるからね」
「気になることがあれば、すぐ騎士団へ伝えてください」
「騎士団より、グローリー卿に言うのが一番早い」
リアは、誰かを従わせているわけではなかった。
だが、街の者たちは自然に彼女へ声をかける。
リアも、その顔と名前を知っている。
子どもの怪我も。
商人の荷の遅れも。
店主が何に困っているかも。
大きな声で命じるのではなく、問い、聞き、必要な場所へ手を伸ばしている。
その距離の近さを、クランは黙って見ていた。
騎士は命じるものだと思っていた。
上に立つ者は、守る代わりに従わせるものだと思っていた。
けれどリアの周りには、そういう硬さがない。
彼女が立っている場所へ、人が勝手に近づいてくる。
それは、クランが知っている騎士団の空気とは違っていた。
リアが買った布や薬草を抱え直そうとする。
クランは無言で、重い方の袋を取った。
「あ、クラン。私なら大丈夫ですよ」
「……重い方だけだ」
「ありがとうございます」
クランは答えず、目を逸らした。
アリシアが横から小さな袋を持ち上げる。
「わたしも、もつ」
「軽い方だ」
「うん」
アリシアは頷き、胸の前で小さな袋を抱えた。
白い帽子が、朝の光を受けて柔らかく見えた。
その時、通りの向こうから子どもが走ってくる。
「リアさまー!」
「走ると危ないですよ」
リアが言うより早く、子どもは石畳の段差につまずいた。
クランは反射的に腕を伸ばした。
倒れる寸前の体を支える。
子どもは目を丸くした。
クランも、少し困った。
「ありがと」
「……走るな」
「うん」
子どもは素直に頷く。
リアが隣で微笑んだ。
「私が言おうと思っていました」
クランは何も言わなかった。
アリシアが、そっとクランの袖をつかむ。
強く握るのではなく、確かめるように。
クランは、その手を振り払わなかった。
市場の奥から、少し荒い声が聞こえたのは、その直後だった。
男が二人、店先で言い争っている。
木箱が倒れ、野菜がいくつか石畳に転がっていた。
店主が困ったように二人の間へ入ろうとしているが、どちらも引く様子がない。
声が一段大きくなった。
クランは袋を持ち替える。
リアの視線も、すぐにそちらへ向いた。
その時、低い声が割って入った。
「喧嘩するなら外でやれ」
男二人の襟首が、同時につかまれた。
引き離したのは、黒鉄の鎧を着た大男だった。
背が高い。
ただ大きいだけではない。
分厚い肩、傷のある顔、黒い鎧の上からでも分かる鍛えられた体。
背には、普通の兵なら持て余しそうな大剣を背負っている。
片目の近くに走る古傷が、男の顔をいっそう厳つく見せていた。
だが、周囲の町民は怯えて逃げるというより、また始まったとでも言いたげな顔をしていた。
「店の棚を壊した分は二人で払え。払えねえなら、騎士団の厩舎掃除だ」
「だ、団長、俺は――」
「文句があるなら、俺が聞いてやる。これ以上暴れるんなら、両方まとめて転がす」
男たちはすぐに黙った。
大男は二人を放すと、転がった野菜を一つ拾って店主へ渡した。
「悪いな。後でこいつらに払わせる」
「あ、ありがとうございます、団長」
リアが近づく。
「ガイゼル団長、どうされたのですか」
大男――ガイゼル・グランチェスターは、リアを見ると口元を緩めた。
「おお、何だ。嬢ちゃんか」
「その呼び方は、外では控えてください」
「分かったよ、グローリー卿」
言い方は雑だった。
だが、リアを軽んじているわけではないらしい。
リアも本気で怒ってはいなかった。
ガイゼルの視線が、クランとアリシアへ向く。
「で、そっちが例の剣士か」
クランは袋を下ろさず、ガイゼルを見た。
相手の間合い。
足の置き方。
背の大剣。
鎧の傷。
喧嘩を止めた時の動き。
ただの大男ではない。
それだけは、すぐに分かった。
「……クランだ」
「聞いてる。ルクレールから流れてきた、面倒な元騎士だろ」
「ガイゼル団長」
リアの声が少しだけ低くなる。
ガイゼルは片手を振った。
「悪い悪い。言葉が悪かったな」
そう言いながらも、目はクランから離さない。
「だが、目は死んでねえ。荷物の持ち方も悪くない。丸腰なのだけが気に入らんが」
クランは何も返さなかった。
腰に剣がないことは、今さら隠しようがない。
ガイゼルの視線が、次にアリシアへ向く。
アリシアはクランの外套の陰に隠れ、白い帽子のつばを両手で押さえていた。
ガイゼルは、わずかに目を細める。
怖がらせたことに気づいたのだろう。
声を少しだけ落とした。
「その帽子、似合ってるじゃねえか」
アリシアは答えない。
ただ、帽子のつばをさらに押さえる。
リアが静かに言った。
「アリシアです」
「そうか」
ガイゼルはそれ以上、踏み込まなかった。
何者だ、と問わない。
どこから来た、とも聞かない。
今のクランには、その方がありがたかった。
乱暴そうに見えて、線を越えない男だと思う。
少なくとも、この街の者たちが逃げない理由は分かった。
その時、通りの向こうから騎士が走ってきた。
「団長!」
ガイゼルの表情が変わる。
先ほどまでの雑な笑みが消え、黒鉄の鎧をまとった男の顔になる。
「どうした」
騎士は周囲を見て、一瞬だけ言葉を選んだ。
「伯爵閣下がお呼びです。至急、とのことです」
「じじいが?」
ガイゼルは眉をひそめる。
「内容は」
「グレース渓谷方面から急報が入りました。詳細は、執務室で直接と」
リアの表情が、わずかに硬くなった。
クランも、無意識にアリシアの位置を確かめる。
アリシアはパンの入った小袋を抱いたまま、クランの外套を握っていた。
市場の声は、まだ続いている。
パン屋の呼び声も、荷車の軋む音も、子どもの笑い声もある。
けれど、その上に、薄い刃のような緊張が落ちた。
ガイゼルはリアを見た。
「嬢……グローリー卿。あんたも来い」
「私も、ですか」
「ああ。たぶん、あんたも聞いといた方が早い」
ガイゼルの視線が、クランへ移る。
「そこの元騎士もだ」
クランは短く答えた。
「……俺も?」
「今のあんたは、嬢ちゃんの預かりみたいなもんだろ。なら、黙って後ろにいろ」
言い方は雑だった。
だが、拒む余地はあまりなかった。
リアは一度だけ、街の方を見る。
先ほどまで声をかけてきた人々。
パンをくれた店主。
転びかけた子ども。
店先で倒れた木箱を直す男たち。
それらを確かめるように見てから、静かに頷いた。
「分かりました」
その横顔を、クランは見た。
穏やかな表情は崩れていない。
だが、街の誰かを置いていく顔ではなかった。
何が起きているのか分からない。
それでも彼女は、ただ命じられたから動くのではなく、この街の明日を考えて歩き出そうとしている。
クランは、言葉にできない違和感を覚えた。
いや、違和感ではない。
ほんの少しだけ、納得に近いものだった。
「アリシア」
「……うん」
「離れるな」
「うん」
アリシアは白い帽子を押さえ、クランの外套を握り直した。
ガイゼルはそれ以上何も言わず、ワトル伯爵邸の方へ歩き出す。
先ほどまでの喧騒は背後に残った。
朝の匂いも、焼き立てのパンの温かさも、まだ街にはある。
だが、その先で何かが動き始めている。
クランは重い袋を片手に持ち替え、もう片方の手でアリシアが外套を握る感触を確かめた。
白い帽子の朝は、まだ終わっていない。
けれど、その先に差し込む光は、少しずつ別の色を帯び始めていた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
もしよろしければ、ブックマークや応援をいただけると、今後の執筆の大きな励みになります。
次回もよろしくお願いいたします。




