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第3話 騎士の資格

 口元に滲んだ血は、まだ完全には止まっていなかった。


 鍛錬場の騒ぎが収まってから、しばらく後。

 クランは、プレデリカ・ヴァン・アズワールの執務室に立っていた。

 机の向こう側では、プレデリカが姿勢よく椅子に腰を下ろしている。

 深い蒼の髪は乱れていない。銀の鎧も、鍛錬場にいた時と変わらず整っている。だが、その灰青の瞳は、誤魔化しを許すものではなかった。


「何か言い訳があるのなら、最初に聞くけれど?」


 淡々とした声だった。

 怒鳴られるよりも、逃げ場がない。

 クランは机の前で、わずかに視線を落とす。


「言い訳……と言いますと?」

「決まっているでしょう」


 プレデリカは指折り数えるように、順に言葉を並べた。


「ベルダイル侯爵との衝突が避けられないこの時期に、怪我の危険がある模擬戦をしたこと」


 一本。


「貴族騎士たちを、わざわざ刺激するような振る舞いをしたこと」


 二本。


「そして最後に、ラッセルの背後からの一撃」


 そこで言葉を切り、クランをまっすぐ見る。


「貴方、気づいていたわよね?」


 クランの肩が、わずかに動いた。


「避けることも、受け止めることもできたはずでしょう。それをしなかった理由も含めて、説明しなさい。そう言っているのよ」


 声を荒げているわけではない。

 その方が、かえって重かった。


 プレデリカ・ヴァン・アズワール。

 若くして部隊を任される上級騎士であり、クランにとっては、平民出身の自分を騎士として扱ってくれた数少ない上官だった。

 だからこそ、ここで適当な嘘をつく気にはなれなかった。

 クランは短く息を吐いた。


「……ラッセルたちは、従騎士を痛めつけていました」


 必要なことだけを、短く言う。


「訓練だと言っていましたが、あれは違います。数人がかりで、平民出身の従騎士をいたぶっていた」


 プレデリカは口を挟まない。

 ただ黙って、続きを待つ。


「止めたら、俺に模擬戦を持ちかけてきた。それだけです」

「貴族騎士を煽るつもりはなかったのね?」

「ありません」


 即答だった。


「では、ラッセルの一撃を避けなかった理由は?」


 クランは、少しだけ言葉を探した。


「……証拠になると思いました」

「証拠?」

「模擬戦が終わった後に不意打ちしたとなれば、連中が何をしたのか、騎士長にも伝わる。そう思いました」


 プレデリカの眉が、わずかに動く。


「自分が打たれる可能性まで含めて?」

「はい」

「馬鹿ね」


 短い一言だった。

 だが、そこに侮蔑はなかった。


「貴方が怪我をすれば、それを見た平民出身者たちは余計に萎縮する。ラッセルたちは、貴方が問題を起こしたと言い張るでしょう」

「……はい」

「それは理解していたの?」

「分かっていました」

「それでも、動かなかったのね」

「はい」


 プレデリカは小さく息を吐いた。

 彼女は途中から鍛錬場の一件を見ていた。

 もちろん大まかな事情は把握している。


 クランが何を止めようとしたのかも、ラッセルが最後に何をしたのかも。

 それでも本人の口から説明させたのは、クランの行動が私怨か、気まぐれか、それとも別の理由によるものか。

 そこを確かめる必要があったからだ。

 そして今、答えは出た。


 やり方は危うい。

 判断も強引だ。

 だが、弱い者を庇った末の行動だというなら、切り捨てる理由にはならない。


「分かったわ」


 プレデリカは静かに告げた。


「この件は、従騎士と目撃者にも再度確認する。そのうえで、騎士長へ報告しておく」

「……ありがとうございます」

「ただし、期待はしないで」


 クランが顔を上げる。

 プレデリカは、感情を交えず続けた。


「ラッセルたちが訓練中の指導だと言い張れば、重い処分を下すのは難しいでしょう。まして、今はベルダイル侯爵との開戦が迫っている。騎士団内部に余計な亀裂を入れたくない者も多い」

「……分かっています」

「本当に?」


 クランは黙った。

 分かっている。

 そう答えようとして、言葉が喉で止まった。


 分かっているつもりだった。

 けれど、納得しているわけではなかった。

 その沈黙だけで、プレデリカには十分だった。


「分かっていない顔ね」

「……すみません」

「謝る必要はないけど覚えておきなさい。正しいことをしたからといって、正しい結果が返ってくるとは限らない」


 冷たい言葉だった。

 だが、突き放すためのものではなかった。


「だからこそ、行動には責任が伴う。貴方が何かを庇うなら、その後に何が起きるのか最後まで見届けなさい」

「……はい」


 クランは頭を下げた。

 その拍子に、唇の端からにじんでいた血が、わずかに落ちた。

 プレデリカは見逃さなかった。


「口元」

「問題ありません」

「それは私が決めるわ」


 プレデリカは机の横に置いていた布を取り、クランの前へ差し出した。


「押さえなさい」

「……ありがとうございます」


 クランは布を受け取り、口元に当てる。

 薄い布に、赤が少しだけ移った。

 それを見て、プレデリカは短く息を吐く。


「貴方は、怪我を軽く見すぎよ」

「慣れています」

「慣れるべきものではないわ」


 短く返され、クランは黙った。

 その沈黙が、わずかに部屋の空気を緩めた。

 だが、長くは続かなかった。


「貴方とラッセルの衝突など、この騎士団では珍しくもない」


 プレデリカは低く言った。


「問題なのは、それが珍しくないことね」


 クランは何も返せなかった。

 その言葉は、あまりにも正しかった。

 プレデリカが思考を切り替えた時、控えめなノックが響いた。


「どうぞ」


 入室を許可する。

 扉が開いた。


 現れたのは、騎士長シャルロット・ロア・エクスレイだった。

 白銀の髪。

 澄んだ紫の瞳。

 白を基調とした騎士装は、華美ではない。けれど、布の揺れや鎧の光の返し方ひとつまで、どこか整いすぎている。


 室内へ入ってきただけで、空気が静かになった。

 冷たくなったのではない。

 乱れていたものが、自然と形を取り戻すような静けさだった。

 シャルロットはクランの姿を見て、少し申し訳なさそうに微笑んだ。


「ごめんなさい。お話し中でしたか」

「いえ、ちょうど終わったところです」


 プレデリカは椅子から立ち上がり、姿勢を正す。

 クランも布を口元から離し、一礼した。


「クラン。貴方はもう下がっていいわ」

「はい」


 クランが退室しようとした、その時だった。


「待ってください」


 シャルロットの声が、背中を止めた。


「貴方が、騎士クランなのですか?」


 クランは振り返る。

 騎士長である彼女が、一介の平民騎士を把握していなくても不思議ではない。

 ルクレール侯爵家に属する騎士や衛兵は、あまりにも多い。


「……はい。そうです」

「なるほど」


 シャルロットは指を顎に添え、少し考え込む。


「そうでしたか。貴方が」


 クランとプレデリカは、わずかに顔を見合わせた。

 やがて、シャルロットは顔を上げる。


「順番に説明しましょう。私がここへ来た理由には、貴方も関係しています」

「俺が……ですか?」


 戸惑うクランの横で、プレデリカは察したように小さく息を吐いた。


「ラッセルの件ですね?」


 シャルロットは静かに頷いた。


「ええ。先ほど、騎士ラッセルが副騎士長フェルナンドを伴って私のもとへ来ました」


 フェルナンド。

 その名を聞いた瞬間、プレデリカの目がわずかに細くなる。


 ただの訴えではない。

 副騎士長が同席した時点で、話は個人間の揉め事では済まなくなる。

 シャルロットは、微笑みを消さないまま続けた。


「騎士クランが、訓練中の指導を妨害し、多数の騎士の前で侮辱的な発言を行った。よって厳正な処分を求める――そう訴えていました」


 プレデリカの眉が寄る。

 クランから聞いた話とは、まるで違う。

 自己保身と報復を兼ねた訴えだった。

 事実とは、あまりに違う。


 しかも副騎士長フェルナンドまで、向こう側についている。

 このままでは、弁明の機会すらなく処分されかねない。

 そうプレデリカが危惧した時だった。


「……騎士長は」


 低い声で、クランが問う。


「ラッセルの話を聞いて、俺をどうするつもりなんですか」


 その声には、押し殺した怒りがあった。

 平民の言葉など、どうせ軽く扱われる。

 そう知っている者の声だった。

 シャルロットは、穏やかに微笑んだ。


「それを決めるには、貴方の話も聞かなければなりません」


 澄んだ声だった。


「事実を確かめるには、当事者の話を聞く必要があります。だから、直接来ました」


 クランは言葉を失う。

 シャルロットは続けた。


「今回の件について、貴方が見たこと、考えたことを話してください」


 少しだけ、声がやわらぐ。


「判断は、それからです」

「……俺は、平民出身ですが」


 思わず、クランはそう口にしていた。

 それが何かを変えるとは思っていない。

 だが、これまで何度も、それを理由に言葉を軽く扱われてきた。

 シャルロットは、不思議そうに首を傾げる。


「先ほど聞きました」

「……」

「それが、何か関係あるのでしょうか?」


 クランは目を見開いた。

 シャルロットは、当然のように続ける。


「騎士に必要なのは、出自や身分ではありません」


 穏やかに首を振る。


「何を思い、どう行動するか」


 そして、まっすぐにクランを見据えた。


「そして、守るべきものを守れる強さです」


 その言葉は、クランの胸の奥に、まっすぐ落ちた。

 ずっと、聞きたかった言葉だった。

 自分のような者でも、騎士でいていいのだと。

 そう、言われた気がした。


 五年前の戦場で見た白銀の光が、ほんの一瞬、胸の奥に重なる。

 あの時も、この人は絶望の中に立っていた。

 今もまた、クランの前で、身分という壁を何でもないもののように扱っている。

 それが、どれほど救いに聞こえたか。

 クラン自身にも、すぐには分からなかった。


「……それは、俺もそう思います」


 気づけば、クランは話し始めていた。

 ラッセルたちが従騎士へ暴力を振るっていたこと。

 止めた自分へ模擬戦を挑んできたこと。

 そして、終わった後に背後から不意打ちしたこと。


 言葉は多くなかった。

 だが、必要なことだけは話した。

 シャルロットは時折小さく頷きながら、最後まで静かに聞いていた。


 否定もしない。

 感情的に肩入れもしない。

 ただ、こぼれ落ちる事実を一つずつ受け止めているようだった。


 その姿は優しい。

 だが、近すぎる優しさではない。

 人を救いながらも、判断を誤らない者の距離があった。

 やがて話が終わると、シャルロットは透き通った声で告げる。


「分かりました。双方の主張に食い違いがあります。ここで即断はしません」


 声音は変わらず穏やかだった。


「この件は一度、私に預けてください。従騎士や目撃者にも話を聞き、そのうえで判断します」

「……分かりました」


 もとより、選択権などない。

 騎士長の判断に委ねるしかなかった。

 それでも、クランは不思議と息がしやすくなっていた。


 話を聞かれた。

 それだけのことが、こんなにも胸を軽くするとは思っていなかった。

 シャルロットは静かに頷いた。


「では、騎士クラン。貴方は通常業務へ戻って結構です。私はプレデリカ隊長と少し話がありますので」

「はい。失礼します」


 クランは一礼し、部屋を後にした。

 扉を閉める。

 廊下に出ると、ようやく大きく息を吐いた。


 状況が好転したとは言えない。

 ラッセルの訴えは副騎士長を伴っている。

 自分の言葉が、どこまで届くかも分からない。


 それでも。

 騎士長シャルロットの言葉を聞けたことで、胸の奥にはわずかな光が差していた。


 騎士に必要なのは、出自や身分ではない。

 何を思い、どう行動するか。

 そして、守るべきものを守れる強さ。


 その言葉が、まだ胸の奥に残っていた。

 あの人の下で剣を振るい続ければ。

 いつか、自分も理想の騎士に近づけるかもしれない。

 少なくともこの時のクランは、そう信じていた。

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