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第2話 捨てられた者たち

 聖騎士の演説から一夜明けても、ルクレール城下の熱は消えていなかった。


 王家への忠義。

 ベルダイル侯爵への怒り。

 自分たちは正しい側に立っているのだという、硬く熱を帯びた空気。

 それは城下の大通りだけでなく、城の内側にまで染み込んでいるようだった。


 だが、ルクレール城の片隅に設けられた鍛錬場では、別の熱が渦巻いていた。

 木剣が肉を打つ鈍い音が、まだ空気の奥に残っていた。


 倒れた従騎士に、誰も手を貸さなかった。

 笑う者はいた。

 目を逸らす者もいた。

 だが、止める者はいなかった。

 ここでは、それが珍しいことではなかったからだ。


 鍛錬場は、騎士たちにとって日常の場所だった。

 腕試し。

 後進の指導。

 力の誇示。

 そして時には、騎士同士の揉め事に決着をつける場所にもなる。


 今日もまた、人垣ができていた。

 その中心に立っているのは、二人の騎士。


 一人は、華美な鎧をまとった赤茶の髪の騎士。

 ラッセル。

 貴族出身の騎士であり、周囲に従う者も多い男だった。


 もう一人は、黒髪の青年。

 クラン。

 支給された騎士装は整っているが、装飾は少ない。目立つ家紋も、身分を誇る飾りもない。

 平民出身の騎士である彼は、ただ木剣を手に、静かに立っていた。


 少し前まで、ラッセルたちは平民出身の従騎士を相手に、訓練と称して木剣を振るっていた。

 倒れても立たせる。

 声を上げれば、根性が足りないと笑う。

 守るための技術ではなく、痛めつけるための稽古だった。


 クランが間に入った。

 その結果が、模擬戦が始まろうとしている理由だった。


 鍛錬場の端では、先ほどまで打たれていた従騎士が、別の若い兵に肩を貸されて下がっている。顔には腫れがあり、腕は震えていた。

 その震える腕を見た時、胸の奥に、古い記憶がわずかにかすめた。


 声を上げても、誰も出てこなかった村。

 手を伸ばしても、届かなかった少女。

 クランは、その記憶を表情には出さなかった。

 木剣の握りを、ただ一度だけ確かめる。


 人垣の奥に、腕を組んだ女性騎士がいた。

 深い蒼の髪を首元で切り揃えた女だった。銀の鎧に乱れはなく、灰青の瞳だけが、鍛錬場の熱から少し離れた場所で冷静に動いている。


 プレデリカ・ヴァン・アズワール。

 上級騎士であり、部隊長を任されるだけの実力と規律を持つ女性だった。


 彼女は感情を交えず、二人の騎士を見ている。

 ラッセルの足運び。

 クランの構え。

 周囲の騎士たちの空気。

 そして、下がっていく従騎士の怪我。


 止めるべきか。

 見届けるべきか。

 木剣を手に双方が向かい合った以上、形式上は模擬戦だった。

 私闘ではない。

 少なくとも、まだ規律の外には出ていない。

 だが、越えてはならない線を越えれば、その時は止める。

 プレデリカはそう判断し、静かに見ていた。


「覚悟はできているな、平民騎士」


 ラッセルが口を開いた。

 嘲りを隠そうともしない声だった。

 平民、という言葉に、わざと穢れを混ぜるような言い方をする。

 クランは答えない。


「本来なら、お前のような者がこの鍛錬場に立つことすら許されん」


 ラッセルは木剣の切っ先を、クランの胸元へ向けた。


「トライアス王の改革とやらで騎士になれたからといって、我々と同じ立場になったと思うなよ」


 周囲から、低い笑いが漏れる。

 誰も止めない。

 それが、この場の答えだった。


 トライアス王の改革により、騎士の身分は必ずしも貴族だけの特権ではなくなった。

 だが、現実は違う。

 多くの貴族は未だに、騎士は貴族の身分だという意識を捨てていない。


 家紋を持たない騎士など、異物でしかない。

 改革は、彼らを騎士団へ入れた。


 だが、騎士団が彼らを受け入れたわけではなかった。

 クランは肩をわずかにすくめた。


 くだらない、と思った。

 だが、怒りはなかった。


 剣を握った以上、見るべきものは相手の立場ではない。

 踏み込み。

 間合い。

 呼吸。

 重心。

 それだけで十分だった。


「制度が変われば、血まで変わると思ったか?」


 ラッセルの口元が歪む。


「騎士の名が、誰にでも背負えるものではないと教えてやる」


 クランは返事をしない。

 構えだけを、わずかに低くした。

 それが合図になった。


「行くぞッ!」


 ラッセルが踏み込む。

 力任せの上段。

 踏み込みは、決して遅くはなかった。


 華美な鎧に身を包んでいても、騎士として最低限の鍛錬は積んでいる。腕力もある。木剣の軌道には、相手を黙らせるだけの重さがあった。

 だが、重いだけだ。


 怒りが先に立ち、剣筋が真っ直ぐすぎる。

 クランは退かなかった。

 半歩だけ位置をずらし、木剣を正面から受ける。

 ただし、真正面からではない。

 ラッセルの木剣の腹に自分の剣を添え、落ちてくる力を横へ逃がす。

 押し返されたと思ったラッセルの身体が、わずかに前へ流れた。


「なっ――」


 声が漏れた時には、クランはもう踏み込んでいる。

 間合いは、剣の距離ではない。

 肩が、鎧の継ぎ目に入る。


 剣で勝つ必要はなかった。

 立っていられなくすれば、それで終わる。

 鈍い音が、鍛錬場に響いた。


「がっ……!」


 ラッセルの息が詰まる。

 クランはさらに一歩、足を入れた。

 力ではなく、体勢を崩すための一歩だった。

 ラッセルの膝が折れる。

 木剣が手から離れ、乾いた音を立てて地面に転がった。


 勝負は、一瞬で終わった。

 静寂。

 先ほどまで漏れていた笑いは止まり、誰もが言葉を失っている。


 ラッセルが倒れている。

 平民騎士を相手に。

 その事実を、誰もすぐには受け入れられなかった。

 クランは木剣を下ろした。


「……お相手、ありがとうございました」


 淡々とした声だった。

 勝ち誇るでもなく、見下すでもない。

 ただ、終わったものとして礼を告げる。

 その態度が、ラッセルには何よりも耐え難かった。


「ふざけるなぁッ!」


 怒声。

 背後で、地面を蹴る音がした。

 振り下ろされる木剣。

 完全な不意打ち。


 だが、クランは振り返らなかった。

 来ると分かっていたからだ。

 避けることもできた。

 受け止めることもできた。


 それでも、クランは動かなかった。

 ここでラッセルが何をするのか。

 誰が見ても分かる形で、残す必要があった。


 次の瞬間。

 乾いた音が響いた。

 横から差し込まれた槍の柄が、ラッセルの木剣を止めていた。

 ただ、完全には止まりきらなかった木剣の端が、クランの口元をかすめる。

 わずかに血が滲んだ。


「――勝負は、もう決まっていたでしょう?」


 静かな声。

 プレデリカが、冷えた目でラッセルを見ていた。

 彼女は槍を構えたまま、少しも声を荒げていない。

 だが、その場の空気は変わった。


「……プレデリカ隊長」


 ラッセルは顔を歪める。


「失礼しました。模擬戦の興奮で――」

「言い訳は結構」


 遮る。

 その声に、余計な熱はなかった。


「背を向けた相手を打つのは、騎士ではなく、ただの卑怯者よ」


 言葉は冷たい。

 だが、正確だった。


 人垣の中で、誰かが息を呑む。

 ラッセルの顔が赤くなる。

 怒りか。

 羞恥か。

 おそらく、その両方だった。


「私は……」

「まだ続けるの?」


 プレデリカは槍を下ろさない。


「この場にいる全員が見ていたわ。勝負は終わっていた。貴方はその後、背を向けた相手を打とうとした」


 淡々とした言葉が、ラッセルの逃げ道を塞いでいく。


「騎士として、それ以上の説明が必要?」


 ラッセルは何も言い返せなかった。

 怒りに満ちた表情でクランを一睨みし、その場を去っていく。

 取り巻きの騎士たちも、慌てて後に続いた。

 先ほどまでの威勢は、もうなかった。


 人垣が、ゆっくりと崩れていく。

 鍛錬場には、気まずい静けさだけが残った。

 クランは、地面に落ちた木剣を拾い上げる。

 それを元の場所へ戻そうとした時だった。


「クラン」


 プレデリカの声に、彼は足を止めた。


「はい」


 短く返す。

 プレデリカは、クランの口元に滲んだ血を見た。

 次に、先ほどまで従騎士がいた鍛錬場の端を見る。

 そして、最後にクランの目を見る。

 そこに勝ち誇った色はなかった。

 怒りも薄い。

 ただ、何かを見過ごせなかった者の目だった。


「話を聞かせてもらうわ」


 プレデリカは槍を下ろした。


「今の件も。その前に、何があったのかも」


 クランは少しだけ沈黙した。

 言い訳を考えている沈黙ではない。

 ただ、どこまで話すべきかを測っている沈黙だった。


「……分かりました」


 やがて、そう答える。

 鍛錬場に残っていた熱が、すっと冷えていく。

 周囲の騎士たちは、二人から視線を逸らした。

 誰も口を挟まない。


 上級騎士である、プレデリカ・ヴァン・アズワールが、話を聞くと言った。

 ならば、この場は終わりだった。

 クランは木剣を戻し、プレデリカの後に続く。

 その背中を見ながら、鍛錬場の隅にいた従騎士が、小さく頭を下げた。


 クランは振り返らなかった。

 礼を受けるために動いたわけではない。

 ただ、見過ごせなかった。

 それだけだった。


 捨てられた者たちの側に立つことが、騎士として正しいのか。

 まだ、答えは分からない。

 それでも。

 背を向けて見過ごすことだけは、できなかった。


ここまで読んでくださりありがとうございます。

続きが気になりましたら、作品フォローや応援をいただけると励みになります。

次回もよろしくお願いいたします。

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