第1話 聖騎士の演説
正午を告げる鐘が鳴った瞬間、クランの視線は城のバルコニーへ向いていた。
あの人が来る。
そう思っただけで、胸の奥に五年前の戦場が蘇る。
泥と血。
黒い霧。
欠けた剣。
もう動けないと思った瞬間、視界を横切った白銀の光。
クランは、腰の剣に添えた手をわずかに握った。
自分は、あの光の下へ辿り着いた。
あの人の率いる騎士団に入った。
そうすれば、今度こそ何かを守れるかもしれない。
そう信じて。
鐘の音は、都市全体へ広がっていく。
かつての王都ザイファールに次ぐ規模を誇るルクレールの城下は、朝からざわめきに包まれていた。
大通りには商人、子どもを連れた母親、荷運びの男たち、仕事の手を止めた工房の者たちが集まり、誰もが城の方を見上げている。
領主アランス・ルクレール侯爵が、重要な告知を行う。
その触れが出されたのは、昨日の夕刻だった。
王なき国となって、すでに五年。
先王トライアスは、魔族との和平交渉の場で命を落とした。
唯一の正統後継者である王女も、行方知れずのまま戻らない。
各地では小競り合いが絶え、諸侯は互いに牽制し合い、流れてくる噂の一つ一つが民の不安を膨らませていた。
だからこそ、今日の告知に人が集まるのは当然だった。
何かが動く。
誰もが、そう感じていた。
大通りの脇には、ルクレール騎士団の騎士たちが並んでいる。
警備のためだ。
その列の一つに、クランもいた。
黒髪。黒い瞳。
目立つ徽章も、華やかな装飾もない。
ただ、支給された騎士装を身に着け、剣を帯び、群衆の動きを静かに見ていた。
群衆が大きく揺れた。
前へ押し出された子どもが、騎士たちの列の近くで足をもつれさせる。
母親が慌てて手を伸ばしたが、間に合わない。
クランは無言で腕を伸ばし、転びかけた子どもの肩を支えた。
子どもが驚いて見上げる。
クランは何も言わず、そっと母親の方へ戻した。
「あ、ありがとうございます……」
母親が小さく頭を下げる。
クランは短く頷いただけで、すぐに視線を広場へ戻した。
周囲の騎士たちと同じように立っている。
けれど、クランの意識は自然とバルコニーへ向かっていた。
鐘の音が鳴り止む。
ざわめきが広場を満たしたまま、城下を見下ろす高いバルコニーに二つの影が現れた。
一人は、領主アランス・ルクレール侯爵。
堂々とした体躯と、民の前に立つことに慣れた貴族の姿勢。
彼が姿を見せるだけで、商会主たちは背筋を伸ばし、工房の者たちは帽子を取り、兵たちは自然と姿勢を正した。
この地を治める者。
その重みが、広場の空気を引き締める。
だが、その隣に立った人物を見た瞬間、民衆の視線はさらに強く引き寄せられた。
白銀の髪。
澄んだ紫の瞳。
白を基調とした騎士鎧に、淡い紫を帯びたマント。
腰には、伝承の聖剣ルクス・エクスレイ。
シャルロット・ロア・エクスレイ。
ルクレール騎士団騎士長にして、聖騎士。
人界と魔界を繋ぐゲートを封じた英雄。
その名を知らぬ者は、もはやこの国にはいない。
五年前、戦場で見たシャルロットには、まだ微かに少女の面影が残っていた。
だが今、城下を見下ろす彼女の姿からは、その幼さは消えている。
白銀の髪は背へ流れ、澄んだ紫の瞳は静かに城下を見渡していた。
整った面差しは、以前よりはっきりと人目を奪うものになっている。
美しい、という言葉だけでは足りない。
ただそこに立つだけで、人々に膝を折らせてしまうような、清らかで近寄りがたい光を纏っていた。
「聖騎士様だ……」
「なんとお美しい……」
「あの方がいれば、ルクレールは大丈夫だ」
抑えきれない声が、群衆の中から漏れる。
歓声ではない。
祈りに近かった。
シャルロットは、その声に大きく応えようとはしなかった。
手を振ることも、誇ることもない。
ただ静かに立っている。
それだけで、不思議と場が整っていく。
クランは、その光景を見上げていた。
五年前、戦場で見た時もそうだった。
彼女は怒鳴らない。
急がない。
焦らない。
ただ、そこにいるだけで、人々に「もう大丈夫だ」と思わせる。
アランス侯爵が、隣のシャルロットへ小さく何かを告げる。
彼女は柔らかく頷いた。
その仕草には、領主を立てる品があった。
英雄でありながら前に出過ぎず、けれど決して影に隠れない。
その在り方が、かえって彼女の格を際立たせていた。
やがて、シャルロットが一歩前へ出た。
たったそれだけで、広場のざわめきが静まっていく。
命じられたわけではない。
威圧されたわけでもない。
それでも民衆は、自ら口を閉ざした。
シャルロットは胸に右手を当て、ゆっくりと広場を見渡す。
「皆さん、どうぞご静粛に。そして、お聞きください」
拡声魔法に乗った声が、城下へ広がる。
強い声ではなかった。
だが、確実に届く。
耳に心地よく、それでいて聞き逃せない。そんな声だった。
「今、ルクレールに――いえ、このザイファール王国には、重大な危機が迫っています」
母親が子どもの肩を抱く。商人が隣の男と顔を見合わせる。
騎士たちの列にも、わずかな緊張が走る。
それでもシャルロットは、すぐには言葉を重ねなかった。
ざわめきを力で抑えない。
ただ、待つ。
人々が自分から静まるのを。
やがて広場の声が収まる。
シャルロットは、そこで初めて続きを口にした。
「皆さんもご存じの通り、先王トライアス陛下が魔族との和平交渉の場で命を落とされてから、すでに五年が経ちました」
その名が出た瞬間、広場の空気が重くなる。
トライアス王。
王国を一つに保っていた最後の王。
そして、もう戻らない人。
「唯一の正統な後継者でいらっしゃる王女殿下も、未だ行方知れずのままです」
シャルロットは、ゆっくりと目を伏せた。
悲しみを演じているようには見えない。
その仕草は、祈りの形を知っている人のものだった。
民衆は息を呑む。
クランもまた、黙ってその姿を見ていた。
美しい。
そう思った。
そして同時に、どこか遠いとも思った。
「王位は空白のまま。各地では小競り合いが絶えず、領主たちは己が領地を守るため、あるいは広げるために、互いに睨み合っています」
それは、誰もが知っている現実だった。
だが、こうして聖騎士の口から語られると、曖昧だった不安がはっきりと形を持つ。
国は揺れている。
守ってくれるはずの王は、もういない。
その事実が、広場に集まった者たちの胸へ落ちていった。
「しかし――我らルクレールは違います」
不安に傾きかけていた民衆の視線が、再びシャルロットへ集まる。
「我らは常に王家に忠実であり続けてきました。そして今もなお、王女殿下の行方を追い続けています」
小さなどよめきが起きた。
この地には、まだ王家を見捨てていない者がいる。
国を諦めていない者がいる。
民衆の顔に、安堵が浮かんだ。
クランは無意識に拳を握る。
守る。
その言葉は、今でも胸の奥に重く沈んでいる。
かつて、守れなかったものがある。
手を伸ばせなかった少女がいる。
だからクランは村を出た。
戦場へ行き、騎士団へ入り、今ここに立っている。
あの光の下なら、自分も何かを守れるかもしれない。
そう信じていた。
シャルロットは一枚の書状を取り出す。
「ですが昨日、信じがたい知らせが届きました」
広場が静まり返る。
「アルゼオス・ベルダイル侯爵は、王女殿下がすでに死亡していると断定し、自らが王位につくと宣言しました」
どよめきが走った。
「さらに、国内すべての領主に対し、自らへの忠誠を誓うよう求めています」
不安が、怒りへ変わり始める。
誰かが低く唸った。
別の誰かが「そんな馬鹿な」と呟いた。
シャルロットは、広場の変化を見ていた。
止めない。
煽らない。
ただ、人々の中にあった感情が形を得ていくのを、静かに待っている。
そして、問いかけた。
「これは――王家に対する明確な反逆ではないでしょうか?」
その一言が、火種になった。
「許すな!」
「偽物の王など認めるな!」
「王家を見捨てるな!」
怒声が上がる。
広場の熱が、一つの方向へ収束していく。
その瞬間、アランス侯爵が前へ出た。
「聞け、ルクレールの民たちよ!」
力強い声が広場に響く。
シャルロットの声が祈りのように届くものなら、アランスの声は領主として地に根を下ろすものだった。
「我らは王家に忠義を尽くす者である! 王女殿下の死を勝手に断じ、己こそ王だと名乗る者に、膝をつくことなどできぬ!」
歓声が上がった。
「たとえ戦いとなろうとも――この地を偽りの王の支配に委ねることはできぬ!」
熱が高まる。
「示せ、我らの忠義を! ともに立て、ルクレールの民よ!」
広場が揺れた。
拳が上がる。
叫びが重なる。
人々の怒りと不安が、忠義という名を与えられて一つにまとまっていく。
アランスは手を掲げ、その歓声を受け止めた。
その隣で、シャルロットは静かに微笑んでいた。
彼女は叫ばない。
拳も上げない。
怒りを露わにもしない。
ただ、民の意思を受け止める者のように、そこに立っている。
その姿は、戦いを望む者のものではなかった。
守るべきもののために、避けられぬ戦いを受け入れる者。
少なくとも、民衆にはそう見えた。
クランにも、そう見えた。
白銀の髪を揺らし、澄んだ紫の瞳で城下を見渡す聖騎士。
五年前、自分を救った光。
その光が、今も民の前に立っている。
あの人の下なら、自分も守れる。
そう信じた。
信じたかった。
歓声はしばらく続いた。
誰もがベルダイル侯爵への怒りを口にし、王家への忠義を叫び、ルクレールの旗を見上げる。
その熱の中で、クランはただ剣の柄に手を置いていた。
戦いが始まる。
それは分かっていた。
騎士である以上、命令が下れば従う。
領主が戦うと決めれば、騎士団は動く。
それが秩序だ。
それが騎士の役目だ。
クランは、そう教えられてきた。
だが、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
守るとは、何を守ることなのか。
王家か。
領地か。
民か。
命令か。
答えはまだなかった。
ただ、バルコニーの上のシャルロットは、どこまでも正しく見えた。
正しすぎるほどに。
やがて演説が終わり、アランス侯爵とシャルロットはバルコニーの奥へ下がっていく。
広場には、なお熱が残っていた。
人々は語り合い、拳を握り、戦いへの不安と興奮を同じ顔に浮かべている。
クランは警備列の中で、もう一度だけバルコニーを見上げた。
そこにはもう、白銀の聖騎士の姿はない。
だが、光の残像だけが胸に残っていた。
王なき国、ザイファール。
その均衡は、すでに崩れかけていた。
そして今。
新たな戦いの火が、静かに燃え上がろうとしている。
その火がやがてクランの故郷へ向かい、一人の平民騎士に、決して従えない命令を突きつけることを――。
この時のクランは、まだ知らなかった。
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