第0話 聖騎士に救われた日
その日、クランは一度死んだはずだった。
少なくとも、自分ではそう思った。
黒い霧が、大地の裂け目から絶え間なく溢れている。
裂け目の向こうには、空ではないものが見えていた。夜よりも暗く、泥よりも重く、吸い込めば肺の奥から腐っていくような、異界の空気。
人界と魔界を繋ぐ唯一の通路。
ゲート。
そこから、魔族の軍勢が押し寄せていた。
人に近い姿を持つ者もいる。獣とも虫ともつかない異形の魔物もいる。刃と爪がぶつかり、悲鳴と怒号が混ざり、折れた旗が泥の中へ倒れ込んでいく。
戦場一帯は――否。
そこはもう、戦場と呼ぶには整いすぎた言葉だった。
地獄だった。
人界と魔界の大戦が、何年続いているのか。
正確に答えられる者は、もう少ない。
父が戦い、子が戦い、その子がまた剣を持つ。そんな時代が、当たり前のように続いていた。
ほんの数か月前、その戦争は終わるはずだった。
人界を治めるザイファール王国、国王トライアス。
魔界を統べる魔王メルデーネス。
長きにわたり争い続けてきた両者は、ついに剣ではなく、言葉によって戦いを終わらせようとした。
だが、講和の場で二人は命を落とした。
何が起きたのか。
誰かが裏切ったのか。
はっきりと知る者は、誰もいなかった。
残ったのは、破れた講和と、閉じられなかったゲートだけだった。
そこが開いたままである限り、魔界の者たちは尽きることなく現れ続ける。
人界の連合軍は、最後の賭けに出た。
多大な犠牲を覚悟し、ゲートそのものを封じる。
そのための戦いだった。
だが、戦況は崩れかけていた。
「術師隊はまだか!」
「駄目です! 前線が保ちません!」
「引くな! ここで退けば、王都まで押し込まれるぞ!」
怒号が飛ぶ。
その声を聞きながら、クランは泥の中で剣を握り直した。
彼は騎士ではない。
名のある家の生まれでもない。
もちろん勇者でもない。
国境戦線に流れ着いた、若い志願兵の一人にすぎなかった。
黒髪は泥と血で張りつき、手の中の剣は刃こぼれしている。鎧と呼べるほど立派なものもない。支給された胸当ては歪み、肩の革紐は半分切れていた。
それでも、クランは退かなかった。
退けなかった。
数年前、目の前で連れて行かれる少女を助けられなかった。
手を伸ばすことすらできなかった。
金もなかった。
力もなかった。
立場もなかった。
その時、自分には何もなかった。
だから村を出た。
もう二度と、目の前で誰かを失わないために。
力を得るために。
だが、戦場はそんな決意を簡単に踏み潰す。
目の前の魔物が跳んだ。
クランは剣を上げる。
受けきれない。
そう判断した瞬間、身体を横へ投げ出した。
爪が頬をかすめ、熱いものが流れる。倒れた兵の盾を掴み、次の一撃を防ぐ。衝撃が腕の骨まで響き、指先の感覚が鈍った。
隣にいた兵士が、叫びもなく倒れた。
クランは見ない。
見れば足が止まる。
足が止まれば死ぬ。
魔族の兵が踏み込んでくる。
クランは剣で受けず、身を沈めて相手の足を払った。倒れたところへ盾を押しつける。綺麗な戦い方ではない。騎士の型でもない。
ただ、生き残るための動きだった。
それでも、限界は近かった。
一体を押し返した先に、さらに三体。
背後にも足音。
右手は痺れ、左足は泥に沈んで重い。
呼吸が、喉の奥で擦れる。
クランは欠けた剣を構えた。
もう、動けない。
ああ――ここまでか。
その呟きは、戦場の音に呑まれた。
次の瞬間だった。
白銀の光が、クランの視界を横切った。
音はなかった。
ただ、迫っていた魔族の兵が崩れ落ちた。
さらに一体。
異形の魔物が、黒い血を散らして倒れる。
何が起きたのか、分からなかった。
クランは荒い息のまま顔を上げる。
血煙の向こうに、一人の女性騎士が立っていた。
白銀の髪。
月光を溶かしたようなその髪は、肩口で軽く揺れている。長すぎず、まだ少女の面影を残す輪郭を包みながらも、泥と血の戦場には似つかわしくないほど清らかだった。
澄んだ紫の瞳。
怯えも、昂りも、憎しみもない。
ただ、目の前で起きている地獄を見つめ、それでも決して逃げない者の瞳だった。
白銀の軽装鎧は戦場の煤を浴びても輝きを失わず、胸元や肩を守る装甲には細やかな金の意匠が刻まれている。背に流れる白いマントの裏地には、淡い紫が差していた。
血と泥にまみれた戦場でありながら、彼女の周囲だけが静かだった。
まだ少女の面影を残す年頃に見えた。
だが、その姿が目に入った瞬間、戦場の空気が変わった。
彼女だけが、喧騒から切り離されている。
そんな錯覚を覚えた。
右手には剣。
細身の両刃。白銀の刀身に、淡い紫の光が走っている。鍔に抱かれた神晶が、静かに脈打つように輝き、刃に刻まれた古い紋様へ光を送っていた。
眩いはずなのに、目は灼かれない。
むしろ、濁った空気が少しずつ澄んでいく。
女性騎士は、クランの方へ歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
静かな声だった。
だが、不思議なほどよく通った。
クランは一瞬、答え方を忘れた。
「……はい」
かすれた声で、どうにかそう返す。
女性騎士は小さく微笑んだ。
「──良かった」
作られた笑顔ではない。
その一言だけで、張り詰めていた恐怖がわずかにほどけた。
クランだけではない。
近くにいた兵たちも、息を呑んで彼女を見ていた。
「きみは、一体……」
兵の一人が震える声で問う。
女性騎士は右手を胸に当て、静かに名乗った。
「私の名は、シャルロット・ロア・エクスレイ」
そして、穏やかに続ける。
「勇者の血と、聖剣ルクス・エクスレイを継ぐ者です」
聖剣ルクス・エクスレイ。
その言葉が、兵たちの間に落ちた。
伝承の中でしか語られなかった剣。
かつて魔界へ渡った勇者とともに失われたはずの剣。
誰も、本物を見たことなどなかった。
それでも、誰もが理解した。
あれは、人の手に余るものだ。
シャルロットは、ゆっくりと視線を上げた。
その先にあるのは、黒き霧に覆われたゲート。
「あれを封じればよろしいのですね?」
「無理だ……!」
指揮官らしき男が叫んだ。
「連合軍の上級魔術師が集まってさえ、目途が立っていない! 剣一本でどうにかなるものでは――」
「大丈夫です」
シャルロットは即答した。
迷いがない。
「私が必ず封印します」
なぜか、誰も反論できなかった。
彼女の声が強かったからではない。
怒鳴ったからでも、命じたからでもない。
ただ、その一言があまりに自然に、そこにあるべき結論のように響いたからだ。
シャルロットは一歩、前へ出る。
魔族の兵が彼女へ向かう。
魔物が咆哮を上げる。
だが、彼女の足は止まらない。
聖剣ルクス・エクスレイが静かに輝きを増した。
刃に刻まれた光の紋様が、呼吸するように明滅する。
シャルロットは剣を構えた。
戦場にありながら、その所作は不思議なほど美しく、静かだった。
斬り伏せるための構えではない。
何かを終わらせるための構えだった。
そして――剣が振るわれる。
一筋の閃光が、黒い霧を裂いた。
轟音はない。
大地が爆ぜたわけでもない。
ただ、ゲートを覆っていた黒き霧が、静かにほどけていく。
裂け目の輪郭が揺らぎ、魔界の空気が光の粒となって崩れる。濁った風が止み、戦場に満ちていた圧が少しずつ薄れていった。
誰も動けなかった。
国中の術師が束になっても届かなかったものへ。
たった一人の剣が、触れた。
「……封印、された……?」
誰かの声が漏れた。
歓声ではなかった。
理解を超えた奇跡を前にした、深い畏敬だった。
膝をつく者がいた。
泣き崩れる者がいた。
空を仰ぎ、声もなく祈る者がいた。
自分たちは救われたのだと、誰もが理解した。
シャルロットは聖剣を収める。
そして兵たちへ向き直り、柔らかく微笑んだ。
「もう大丈夫ですよ」
その一言で、戦場にいた者たちはようやく息をした。
クランもまた、泥の中に膝をついたまま、白銀の光を見ていた。
死を覚悟した場所で、自分は救われた。
何も守れなかった自分の前に、本物の英雄が現れた。
あれほど遠かったものが、手の届かない空の星のように、けれど確かに目の前にあった。
その光を、クランは忘れなかった。
やがて、その名は王国中へ広がっていく。
シャルロット・ロア・エクスレイ。
勇者の血を継ぐ者。
聖剣ルクス・エクスレイの担い手。
ゲートを封じ、人界を救った白銀の聖騎士。
誰もが、彼女を人界の新たな英雄と信じた。
クランもまた、その一人だった。
あの光の下へ行きたい。
そうすれば、今度こそ何かを守れるかもしれない。
今は何も持たない若い志願兵は、そう信じた。
白銀の光は、戦場にいた者たちの胸に焼きついた。
そして、クランという一人の若者の進む道を、確かに変えた。
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