第4話 不公平な最善
数日後。
クランは、騎士長室の重い扉の前に立っていた。
処分の話だろうとは、伝令を受けた時点で分かっていた。
扉の向こうにいるのは、シャルロット・ロア・エクスレイ。
騎士長。
聖騎士。
そして、五年前の戦場で自分の命を救った白銀の光。
クランはわずかに息を整える。
ラッセルとの模擬戦。
その後の不意打ち。
平民出身の従騎士をめぐる一件。
あの場で何をすべきだったのか。
答えは、まだ出ていなかった。
見過ごすべきだったのか。
黙って耐えるべきだったのか。
それとも、もっと別のやり方があったのか。
考えようとするたびに、あの従騎士の顔が浮かぶ。
倒れても立たされ、何も言えず、ただ耐えていた顔。
声を上げても、誰も出てこなかった故郷の空気に、どこか似ていた。
「……失礼します」
ノックの後、入室する。
「どうぞ」
返ってきたのは、穏やかな声だった。
扉を開けると、机に向かうシャルロットの姿があった。
彼女は書類から目を離し、ゆっくりと顔を上げる。
白銀の髪。
澄んだ紫の瞳。
白を基調とした騎士装。
机上の書類も、羽ペンも、窓辺に差し込む光さえも、そこにあるべき形で収まっているように見えた。
その中心にいる彼女は、いつも通り穏やかだった。
ただ労わるだけの目ではない。
こちらが何を受け入れ、何を呑み込めないのか。
それを、静かに確かめている目だった。
「来ていただいてありがとうございます、騎士クラン」
「いえ……」
クランは軽く頭を下げた。
「その後の体調はいかがですか?」
「問題ありません」
「そうですか」
シャルロットは小さく頷いた。
それだけのやり取りだった。
クランは、知らず詰めていた息を少しだけ吐いた。
そのわずかな緩みを待っていたかのように、シャルロットは本題へ入る。
「今回の件ですが」
机の上の書類に、彼女の指がそっと触れた。
「関係者への聞き取りの結果、双方に問題があったと判断しました」
クランは何も言わなかった。
予想していなかったわけではない。
むしろ、そうなるだろうと思っていた。
「処分としては、貴方には軽い謹慎処分。そしてラッセルにも同様の措置を取ります」
「……承知しました」
短く答える。
それ以上は言わない。
言えないのではない。
言うべきではないと、理解しているからだ。
騎士長の判断は下った。
ならば、騎士は従う。
そう教えられてきた。
だが、胸の奥に残るものは消えなかった。
シャルロットは、その沈黙を見ていた。
「納得できていませんね」
不意に言われ、クランは言葉に詰まる。
「……いえ」
「構いません。遠慮なく話してください」
柔らかな声音だった。
責めているわけではない。
問い詰めているわけでもない。
それなのに、逃げ道だけが静かに消えていく。
クランは短く息を吐いた。
「……正しい処分だとは、思えません」
「理由をお聞かせいただけますか?」
「明らかに問題があったのは、ラッセル側です」
言葉を選びながら、それでもはっきりと言う。
「あいつらは、平民出身の従騎士を痛めつけていた。模擬戦の後に背後から打とうとしたのも、ラッセルです」
シャルロットは口を挟まない。
ただ、静かに聞いている。
「それを同列に扱うのは……不公平だと感じます」
僅かに沈黙が起きる。
シャルロットは、ゆっくりと頷いた。
「そうでしょうね」
あっさりとした肯定だった。
クランは思わず顔を上げる。
「貴方の行動は、間違っていないと思います」
真っ直ぐな視線だった。
否定はされなかった。
それだけで、胸の奥がわずかに軽くなる。
だが――。
「ですが」
シャルロットは、机上の書類に指を添えた。
「この判断は変わりません」
声は荒れなかった。
だからこそ、断言だけが残った。
クランの中で、何かが引っかかる。
「……どうしてですか」
思わず、言葉が漏れた。
シャルロットは少しだけ視線を落とす。
「騎士団は、組織です」
ゆっくりと言う。
「正しいことを、そのまま通せば済む場所ではありません」
その言葉は、責めるものではなかった。
ただ、事実を告げていた。
「ラッセルを重く処分すれば、貴族騎士たちの反発は避けられません。逆に、貴方だけを処分すれば、平民出身者たちの不満が残るでしょう」
穏やかな声だった。
けれど、その内容はどこまでも冷静だった。
「どちらか一方だけを勝たせれば、騎士団全体に亀裂が入ります」
クランは言葉を失う。
「それでも、ラッセルの行動が正しかったとは思いません」
シャルロットは続けた。
「貴方の行動も、間違いではありませんでした」
「では、なぜ……」
「正しい者だけを救えるほど、組織は単純ではないからです」
静かな声だった。
その場所の現実を、クランの前に置いている。
そんな声だった。
「今回の処分は、貴方にとって不公平に見えるでしょう」
「……はい」
「実際、不公平です」
クランは息を呑んだ。
不公平だと、彼女は分かっている。
分かったうえで、その処分を選んでいる。
「ですが、それが今の騎士団を保つための最善です」
逃げ場のない言葉だった。
それでも、声は優しかった。
優しい声で、不公平を告げる。
それが、余計に重かった。
「貴方は、守ろうとしたのですね」
クランは顔を上げる。
「弱い立場の者を見捨てられなかった。そのことまで、私は否定しません」
「……騎士長」
「ですが、守ろうとする意思だけでは足りない場面があります」
シャルロットは、机上の書類から手を離した。
「守るためには、時に呑み込まなければならないものもある。正しさをそのまま振るえば、別のものを壊してしまうこともある」
その言葉は、クランの胸に重く沈んだ。
間違っていない。
そう言われた。
けれど、処分は変わらない。
正しさだけでは届かないものがある。
それを、初めて目の前に突きつけられた気がした。
「……俺は」
言いかけて、言葉が止まる。
何を言えばいいのか分からなかった。
怒ればいいのか。
納得すればいいのか。
それとも、黙って従えばいいのか。
シャルロットは、そんなクランを急かさなかった。
ただ静かに待っている。
まるで、答えを自分で選ぶことを許しているように。
だが同時に、その選択が結論を変えることはないのだと、最初から分かっているようでもあった。
「……承知しました」
クランは、もう一度そう答えた。
先ほどより、少しだけ低い声だった。
「処分に従います」
「ありがとうございます」
シャルロットは柔らかく微笑む。
その笑みは、安心を与えるものだった。
少なくとも、そう見えた。
「謹慎期間は数日です。その間、通常任務からは外れてください。傷の治療と、今後の行動について考える時間にあてるとよいでしょう」
「はい」
クランは頭を下げた。
それ以上、何かを言う資格があるとは思えなかった。
退室しようとした時、再び名を呼ばれる。
「騎士クラン」
足が止まる。
「貴方のような騎士は、必要です」
静かな一言だった。
クランの指先が、わずかに動いた。
「ただし、必要だからこそ、その正しさの向け方を誤ってはいけません」
シャルロットは穏やかに続けた。
「どうか、折れないでください」
「……はい」
それだけを返す。
深く一礼し、クランは騎士長室を後にした。
廊下に出ると、空気が少し冷たく感じられた。
扉の向こうには、まだあの穏やかな声が残っているような気がした。
処分は不公平だった。
だが、自分の行動は否定されなかった。
怒りは残っている。
納得もしていない。
それでも、胸の奥には奇妙な熱があった。
あの人は、自分を見てくれた。
そう思えてしまった。
だからこそ、余計に分からなくなる。
正しさとは何か。
守るとは、どこまでを呑み込むことなのか。
そして、呑み込めないものを前にした時、自分はどうするのか。
答えは、まだ出ない。
だが、その答えを選ばされる日は、すぐそこまで来ていた。
クランは静かな廊下を歩き出した。




