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第36話  崩れない兵


 戦場の熱の中で、別の静けさが歩き出していた。

 後方に控えていた兵たちだった。


 鎧は、通常のルクレール兵と大きく変わらない。


 だが、顔色が悪い。

 目の焦点が薄い。


 盾を握る手に震えはなく、槍を持つ腕にも余計な力は入っていない。


 戦場へ向かう兵なら、通常であれば何かしらの揺れがある。


 恐怖。

 怒り。

 興奮。


 隣の兵へ向ける短い言葉。

 自分を奮い立たせる息遣い。


 だが、その兵たちには、それがなかった。

 命令を待つ間、彼らはまるで石のように動かなかった。


 そして命令が下った瞬間だけ、同じ角度で顔を上げ、同じ歩幅で前へ進み出る。


 プレデリカは、崩れかけた左翼寄りの前線を整えながら、その一団を見た。


 予備兵。

 最初はそう思った。


 だが、違う。

 訓練された兵にしては、静かすぎる。


「隊列を詰めなさい。負傷者の搬送路を塞がないで」


 プレデリカは自分の部隊に命じた。


 声は乱さない。

 自分の隊は、まだ崩れていない。


 負傷者は出ている。

 盾もいくつか割れた。

 槍兵の列も、完全に整っているとは言えない。


 それでも、隊は生きている。

 退く兵の道を空け、敵の踏み込みを止め、負傷者を後方へ送る。


 戦場で人を生かすための形は、まだ残っていた。


 だが、戦場全体が無事なわけではなかった。

 シャルロットが聖剣で立て直した一角では、ルクレール兵が息を吹き返している。


 白銀の光は、確かに乱れた前線を整えた。

 兵たちは再び盾を持ち上げ、倒れた味方を運ぶための道も開き始めている。


 けれど、橋は広い。

 聖剣が届いた場所だけで、戦場全体が支えられるわけではない。


 別の場所では、ベルダイル軍の圧を受け、盾列がじわじわと歪んでいた。


「応援はまだか!」

「このままでは抜かれるぞ!」


 悲鳴に近い声が上がる。

 その声に、フェルナンドは地図から目を離さなかった。


 彼の前には、簡易の戦況図が広げられている。


 シャルロットが立て直した地点。

 ベルダイル軍が距離を取った地点。


 負傷者搬送路。

 下がれば連鎖的に乱れる支点。


 そこに置かれた駒を、彼は冷静に見ていた。

 彼が見ているのは、兵の顔ではない。


 戦線の形だった。


「押し返す必要はない」


 フェルナンドは言った。


「穴が広がる前に止めろ。崩れを塞げ」


 伝令が走る。

 顔色の悪い兵たちは、その命令を受けて、崩れかけた場所へ入った。


 そこは、普通の兵なら足が鈍る場所だった。


 矢が飛ぶ。

 槍が突き込まれる。


 盾列の隙間から、敵兵の怒号が流れ込んでくる。


 下がろうとした兵がいた。

 隣の兵がそれを止めようとして、列がさらに乱れる。


 そこへ、顔色の悪い兵たちが入った。


 彼らは前へ出すぎない。

 下がりすぎない。


 命じられた位置に盾を構え、空いた隙間を埋める。


 一人の膝が沈んだ。

 だが、倒れない。


 すぐに立ち直り、再び盾を構える。

 怯えて踏みとどまったのではない。


 怒りで耐えたのでもない。

 ただ、命令された場所を保っていた。


「助かった……!」

「持ち直したぞ!」

「あの兵たち、崩れない!」


 周囲のルクレール兵から安堵の声が上がる。


 確かに、前線は塞がった。

 ベルダイル軍の槍は、そこで止まった。


 負傷者を運ぶ従兵が、どうにか後方へ抜ける。

 逃げ遅れた兵が、味方に肩を貸されて搬送路へ戻される。


 戦場の形だけを見れば、正しい判断だった。

 あの兵たちが入らなければ、もっと多くが死んでいたかもしれない。


 それは、プレデリカにも分かる。

 分かってしまう。


 だからこそ、胸の奥に冷たいものが残った。


 崩れない。

 けれど、踏みとどまっているようには見えない。


 その時、プレデリカは一人の若い兵の顔に気づいた。


 見覚えがあった。


 訓練場だったか。

 補充兵の列だったか。


 まだ槍の握り方が固く、前線に出すには早いと判断した覚えがある。

 足の置き方を一度だけ直させたこともあった。


 名前を呼ぶほど近くはない。

 けれど、顔を知らないほど遠くもない。


 部隊長にとって、兵とはそういう存在だった。


 全員の人生を知っているわけではない。

 だが、前に立たせていいか、下げるべきか、その程度には見ている。


 その兵が、今、崩れかけた前線の一部として立っていた。

 ベルダイル兵の刃が、彼の肩口をかすめる。


 鎧の隙間に赤が滲んだ。

 普通なら一歩下がる。


 痛みに顔を歪める。

 体勢を整えるために、呼吸も乱れる。


 だが、彼は下がらなかった。

 表情も変わらない。


 プレデリカは、槍を握る手に力を込めた。


 違う。

 これは、勇敢さではない。


「下がりなさい」


 彼女は命じた。

 戦場の音に消されないよう、声を通す。


「貴方はもう前線に立てる状態ではないわ。後方へ下がり、手当てを受けなさい」


 上級騎士として、部隊長として、負傷兵を下げるための正しい指示だった。

 若い兵は、動かなかった。


「聞こえなかったの?」


 プレデリカは一歩近づく。

 その一歩の間にも、周囲を見ていた。


 敵の槍。

 味方の盾列。

 搬送路。


 自分が不用意に前へ出れば、部下がそれを追ってしまう。


 感情だけで動けば、守るべき列を崩す。

 だから、声だけを強くする。


「下がりなさい」


 その時、若い兵の目が、わずかに彼女へ向いた。


 完全な空白ではなかった。

 そこには、かすかな反応があった。


 だが、足は動かない。

 唇だけが、遅れて動いた。


「……前線を、維持、します」


 その声は、細かった。

 意志の言葉ではない。


 命令をなぞっただけのような響きだった。


 プレデリカは、言葉を失った。


 聞こえていないのではない。

 聞こえていて、従えないのだ。


 その間にも、顔色の悪い兵たちは前線を塞ぎ続けた。

 崩れかけていた場所は、確かに保たれていく。


 負傷兵を後方へ下げる道が開き、逃げ遅れた兵が味方に肩を貸されて搬送路へ戻される。


 彼らが入らなければ、もっと多くが死んでいたかもしれない。


 それは分かる。

 分かってしまう。


 だからこそ、プレデリカは苦しかった。


 確かに、前線は塞がった。

 何人かは助かった。


 だが、あの兵たちは、助けられているのか。


「隊長!」


 部下の声が飛んだ。

 プレデリカは振り返る。


 ベルダイル兵が、搬送路を狙って踏み込んでいた。

 考える時間はなかった。


 プレデリカは槍を回した。

 細身の騎士槍が、敵の槍を横へ弾く。


 そのまま石突きを滑らせ、踏み込んできた敵兵の足首を払う。

 敵兵が膝をつく。


 プレデリカは追わない。

 追えば、列が空く。


「盾隊は前へ。槍兵は一歩下げて穂先を揃えなさい」

「はっ!」

「負傷者を運ぶ者は、私の後ろを通りなさい。走らなくていい。転べば二人とも死ぬわ」


 厳しい声だった。

 だが、その厳しさに、部下たちは動けた。


 怖い上官。

 そう思われても構わない。


 戦場で優しい言葉を選ぶ暇があるなら、彼女は兵の足元を見る。


 どこで詰まるか。

 誰が呼吸を乱しているか。


 どの一歩を止めれば、味方が死なずに済むか。

 それを見続けることが、部隊長の務めだった。


 ベルダイル側の圧が、わずかに弱まる。

 前線が完全に戻ったわけではない。


 だが、今すぐ崩れる状態ではなくなった。


 プレデリカは槍を構えたまま、強化兵たちを見る。

 彼らはまだ、立っていた。


 傷を負っても、息が乱れても、命じられた場所から動かない。

 兵としては、理想的な壁だった。


 だからこそ、恐ろしかった。


 前線が一時的に安定したのを確認すると、プレデリカはフェルナンドのいる後方指揮所へ向かった。


 怒鳴り込むつもりはなかった。

 だが、問わずにはいられなかった。


「副騎士長」


 フェルナンドは顔を上げた。


「何だ、アズワール隊長」

「あの兵たちは何ですか」


 彼の表情は変わらない。


「前線維持用の強化兵だ」

「強化兵?」

「紋章魔術を用いた新しい兵だ。痛覚による停止を抑え、命令遂行を優先させている。崩れた場所を塞ぐためのものだ」


 説明は短かった。

 まるで、盾の予備や矢の本数を説明するような口調だった。


「私が後退するよう指示しても、聞き入れませんでした」

「当然だな。私が下がる命令を出していない」


 プレデリカの眉が、わずかに寄る。


「あの状態で?」

「あそこで彼らが下がれば、防衛ラインが崩壊する。後方の兵も死ぬ」


 フェルナンドの言葉は冷たい。

 だが、戦場の理屈として間違っているわけではなかった。


 だから、なおさら苦しい。


「痛みに気を取られ、兵が止まれば、列が崩れる。列が崩れれば、負傷者も搬送路も巻き込まれる」


 フェルナンドは地図へ視線を戻す。


「崩れる場所に、崩れない兵を置く。それだけだ」

「それだけ、ですか」


 プレデリカの声が低くなる。


 怒鳴りはしなかった。

 戦場で感情を爆発させれば、部下が不安を覚える。


 自分は、部隊長だ。

 その自覚が、彼女の声をぎりぎりのところで支えていた。


 その時、横から別の声が入った。


「痛みを消しているわけではありませんよ」


 軽い声だった。

 だが、戦場の熱とは違う、乾いた軽さだった。


 ゲイツが、いつの間にか近くに立っていた。


「反応を鈍らせているだけです。完全に消すと、自分の身体の損傷に気づけませんからね。命令の優先順位を、少し調整しているんです」


 プレデリカは、彼を見た。


「貴方は?」

「いやあ、失礼。ゲイツ・ヴァルグです。あの強化兵の調整を担当しています」


 ゲイツは形式だけの礼をした。

 その目には、戦場への恐怖も、兵への痛みもなかった。


「まだ初期型です。ですが、戦場に適応すれば、彼らはもっと変わります」

「変わる?」

「ええ。生物は環境に合わせて変わるものですから」


 ゲイツは、当然のことのように言った。


「僕は、その速度を少し早めているだけです」


 プレデリカは、彼の言葉の意味を理解した。

 理解したくなかった。


「貴方は、あの状態になった兵を人だと思っているの?」


 ゲイツは、少しだけ首を傾げた。


 質問の意味が分からない、という顔だった。


「人ですよ」


 あっさりと、そう言った。


「だから命令を理解できる。だから、前線に置ける」


 その一言で、プレデリカの中の温度が下がった。


 フェルナンドは、兵を機能として見ている。

 ゲイツは、兵を可能性として見ている。


 だが、どちらの目にも、あの若い兵の顔は映っていないように見えた。


「騎士長は、ご存じなのですか」


 プレデリカは、静かに問うた。

 フェルナンドは短く答える。


「承認は得ている」


 それだけだった。

 けれど、それだけで十分だった。


 現場の暴走ではない。

 ゲイツだけの悪趣味でもない。

 フェルナンドだけの判断でもない。


 騎士長は知っている。

 知ったうえで、必要だと判断している。


 白銀の光を掲げ、兵たちを導く聖騎士。

 その背で、こんなものが前線に立っている。


 橋の先で、白い光がベルダイル側を一閃した。

 シャルロットが振るった聖剣の輝きが、敵陣を大きく押し返す。


 兵たちが歓声を上げる。

 戦場に差すその姿は、あまりにも美しく、あまりにも正しかった。


 ――なのに。


「……そうですか」


 プレデリカは、かろうじてそれだけを言った。

 フェルナンドは続ける。


「この程度の戦場で機能しなければ、いずれ来る本当の戦には耐えられん」

「そのために……彼らを、あのような状態にするのですか」


 プレデリカは、一度だけ息を詰めた。

 それでも、声を荒げることはなかった。


「ああしなければ、ここで死ぬ兵が増える。そして我々が負ければ、この国はベルダイル侯爵のものだ」


 その言葉もまた、間違ってはいない。

 この戦場でルクレールが敗れれば、もっと大きな戦火が広がるかもしれない。


 前線が崩れれば、後方の兵も、民も、守れなくなる。


 分かる。

 プレデリカは、分かってしまう。


 だからこそ、すぐには言い返せなかった。

 彼女は踵を返し、再び前線へ戻った。


 顔色の悪い兵たちは、まだ立っていた。

 いや、もう彼らの正体は分かっている。


 強化兵。

 紋章魔術によって、痛みへの反応を鈍らされ、命令を優先するよう調整された兵。


 その一人が、配置変更の命令を受けた直後、膝をついた。


 倒れたのではない。

 立つための命令が、そこで途切れたように見えた。


 衛生兵が強化兵のもとへ駆け寄る。

 プレデリカも、思わず足を向けかけた。


 だが、前線はまだ完全に終わっていない。

 自分が今、感情だけで動けば、部下がついてくる。


 また別の隙が生まれる。

 プレデリカは一瞬だけ歯を食いしばり、部下へ命じた。


「搬送路を空けなさい。倒れた兵を運ぶ者に、護衛をつけて」

「隊長、あの兵は……」

「兵よ」


 言葉は、ほとんど反射だった。

 だが、言ってから、胸の奥に痛みが走った。


「私たちと何も変わらないわ──普通の兵と同じように運びなさい。踏ませないで」

「はっ!」


 部下が動く。

 衛生兵が強化兵の肩を支え、後方へ運ぼうとする。


 その時、先ほどの若い兵の目が、わずかに動いた。


 彼女を見たのかもしれない。

 見ていなかったのかもしれない。


 けれど、その目は完全な空ではなかった。


 まだ、そこには人がいた。

 だからこそ、痛かった。


 プレデリカは槍を握る。

 気づけば、俯いていた。


 胸に留めた部隊長の徽章が、鎧の上で小さく光っている。

 その重さが、いつもより冷たく感じられた。


 槍を握る指だけが、白くなるほど力を込めている。


「……兵を」


 声は、戦場の音にかき消されそうなほど小さかった。


「人を、何だと思っているの」


 その問いに、返る言葉はなかった。


 プレデリカは、槍の石突を地面に静かに置いた。

 響いた音は小さかった。


 だが、その時、プレデリカの中で。

 従うための理由が一つ、静かに折れた。


 ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


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 良ければ、ポチッとしてくださると嬉しいです。


 次回もよろしくお願いいたします。

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