第34話 グレース渓谷の戦い
グレース渓谷には、古くから一つの大橋が架かっていた。
幾度も修繕と補強を重ねてきた橋である。
渓谷を渡る主要街道。
ルクレール領とベルダイル領を繋ぐ交易路。
平時であれば、商人や旅人の荷馬車が行き交い、両領の物資が流れる道だった。
だが今、その橋へ向かう街道には、荷馬車ではなく兵が並んでいる。
橋を壊せば、敵の足は止まる。
だが、止まるのは敵だけではない。
物資も、人も、遠回りを強いられる。
周囲に迂回路はあるが、軍が隊列を維持したまま通るには遠すぎた。
だからこそ、両軍は橋を壊すのではなく、橋を押さえようとしていた。
ルクレール軍は、領境へ向けて進んでいる。
鎧の擦れる音。
馬のいななき。
乾いた土を踏む、無数の足音。
兵たちの顔には、緊張だけではないものがあった。
怒り。
エラール村で起きた惨劇。
それがベルダイルの仕業であると、彼らは信じている。
自分たちは民を守るために進む。
奪われた命のために戦う。
王家への忠義を踏みにじる者を、許してはならない。
その思いが、隊列全体を前へ押していた。
そして何より、彼らの後方には白銀の聖騎士がいる。
シャルロット・ロア・エクスレイ。
勇者の血を継ぐ聖騎士。
聖剣ルクス・エクスレイの担い手。
彼女がいる。
その事実だけで、兵たちは勝利を疑わなかった。
「各自、己の役目を果たしてください」
出陣前、シャルロットは兵たちを前にそう告げた。
長い言葉ではなかった。
「この戦いは、怒りを晴らすためのものではありません。守るために、進みます」
声は穏やかだった。
怒鳴らない。
煽らない。
それでも、兵たちは自然と背筋を伸ばした。
シャルロットの言葉は、命令というより結論に近い。
彼女がそう言うのなら、それが正しいのだと、誰もが思ってしまう。
プレデリカ・ヴァン・アズワールは、その空気を前線の一角から見ていた。
深い蒼の髪を首元で揃え、銀鎧に身を包んだ上級騎士。
胸には、部隊長を示す小さな蒼い徽章が留められている。
彼女が率いる部隊もまた、グレース渓谷へ向かう列の一部に組み込まれていた。
士気は高い。
それ自体は悪いことではない。
怯えた兵より、目的を持つ兵の方が動ける。
恐怖に飲まれた隊より、怒りを持つ隊の方が前に出られる。
だが、怒りは視界を狭める。
プレデリカは、槍の柄を軽く握り直した。
「歩調を乱さないで。一人で突出する兵から死ぬわ」
前へ出かけていた若い兵が、はっとして足を戻す。
「申し訳ありません、隊長」
「謝罪は後でいい。盾の列を見なさい。貴方の半歩が、隣の兵の隙になる」
「はっ」
「それと、肩に力が入りすぎよ。怒りで槍は伸びない。息を吐いて、穂先を見る」
兵は言われた通りに息を吐いた。
わずかに槍の震えが収まる。
プレデリカは次に、槍兵の列へ目を向けた。
「間隔が狭いわ。橋の手前で詰まれば、味方同士で動けなくなる。一歩空けなさい」
指示は短い。
だが、届く。
伝令の位置。
負傷兵を下げる道。
盾兵と槍兵の間隔。
後続部隊との距離。
どれも派手なものではない。
だが、戦場で兵を生かすのは、そういう小さな整え方だった。
正義を掲げることはできる。
けれど、戦場で人を生かすのは、正義ではなく規律だ。
プレデリカは、そう考えている。
「隊長、敵は橋の向こうで待ち構えているのでしょうか?」
若い兵の一人が問う。
「可能性は高いわね。橋は決して広くない。大軍を一度に通すには向かない。こちらの勢いだけで押し切れる場所ではないわ」
「ですが、聖騎士様がいらっしゃいます」
兵の声に、迷いはなかった。
プレデリカはわずかに眉を寄せる。
「騎士長がいることと、貴方が隊列を崩してよいことは別でしょう」
「……はい」
「剣を振るうのは命令を受けてから。勝手に自分の正義を始めないこと」
兵は息を呑み、頭を下げた。
その背後で、別の兵が小さく拳を握っている。
怒りを抑えようとしているのか。
恐怖を隠そうとしているのか。
どちらでもいい。
抑えられるなら、それでいい。
抑えきれなくなった瞬間、その兵だけでなく隣の兵まで死ぬ。
プレデリカは前方を見る。
グレース渓谷の大橋が、遠くに姿を現し始めていた。
渓谷の底は深い。
風が下から吹き上げ、橋の石欄干にぶつかって音を立てている。
橋の向こうには、ベルダイル軍がいた。
深赤と黒鉄の布地。
整えられた盾列。
前に出すぎず、後ろへ下がりすぎず、ただ橋の先で待っている。
押し返すのではなく、受けるための布陣だった。
◇
ルクレール軍後方。
フェルナンドは、地図と伝令を見比べていた。
「予備隊はまだ動かすな」
彼の声は冷たいほど平坦だった。
「左翼の伝令を二重にしろ。負傷兵の搬送路は橋の手前で分ける。混雑させるな」
部下が頷き、走る。
その少し後ろに、妙に静かな一団が並んでいた。
顔色の悪い兵たち。
目の焦点が薄く、命令を待つ姿勢だけが異様に整っている。
鎧の隙間には布が巻かれていた。
その下には、淡い紋様のようなものが見える。
まだ前へ出されてはいない。
だが、そこにいるだけで、普通の兵とは違う重さがあった。
フェルナンドの傍らで、ゲイツが楽しげに目を細めている。
「僕の試作品です。長くは保ちませんが、一度崩れた前線を支える程度なら十分かと」
「まだ出すな」
フェルナンドは即座に言った。
「本隊が崩れるまで、不安定なものを使う必要はない」
「相変わらず、つまらないほど堅実ですね」
「必要なことだ」
ゲイツは肩をすくめた。
そのやり取りを、少し離れた場所からシャルロットが聞いていた。
白銀の軽装鎧。
裏地に淡い紫を含んだ白いマント。
腰には聖剣ルクス・エクスレイ。
彼女はまだ、剣を抜いていない。
戦場を見ている。
兵の動きも、敵の布陣も、味方の熱も、冷静に見ている。
焦りはない。
彼女がそこにいるだけで、後方の兵たちは安心していた。
橋の向こう側。
ベルダイル軍の前線で、セネルは盾列を見ていた。
「押し返す必要はない。止めろ」
黒鉄の鎧に深赤の布地をまとった若き上級騎士は、声を張りすぎないよう意識していた。
焦りは伝わる。
恐怖も伝わる。
だからこそ、自分が乱れてはならない。
セネルの脳裏に、アルゼオスの言葉が残っている。
恐れることは恥ではない。
聖剣を前にして恐れぬ者がいるなら、それは勇者ではなく愚者だ。
セネルは息を吸った。
怖くないわけではない。
橋の向こうには、聖騎士がいる。
勇者の聖剣を継ぐとされる者が、前線にいる。
それでも、立つ場所は決められている。
「相手の怒りに付き合うな。隊列を守れ」
兵たちが盾を構え直す。
「相手は聖騎士だけではない。目の前の敵を見るんだ」
渓谷の高所では、アンジェが弓を手に戦場を見下ろしていた。
短い外套が風に揺れる。
背には矢筒。緑がかった灰色の瞳は、橋の上の兵ではなく、列の伸び方、伝令の走る位置、旗の揺れ方を追っている。
「ルクレールの兵は足が速い」
彼女は近くの伝令に言った。
「怒りで前に出ている。セネルに伝えて。深追いしない方がいい。あれは勝手に崩れる」
伝令が走る。
それを見届け、アンジェは矢を一本抜いた。
狙うのは、兵の喉ではない。
橋の上で振られている、小さな指揮旗だった。
弦が鳴る。
矢は風を切り、旗を留めていた紐を断った。
旗が落ちる。
それだけで、一瞬、ルクレール側の前列に迷いが生まれた。
その隙に、ベルダイルの盾列が間を詰める。
アンジェは次の矢を番えず、戦場を見続けた。
「聖騎士はまだ動いていない」
小さく呟く。
「動くなら、崩れた場所に来るはず」
やがて、両軍が激しくぶつかりあった。
最初に響いたのは、剣の音ではない。
盾と盾がぶつかる重い音。
槍の柄が石橋を叩く音。
兵たちの息。
踏み込む足が、橋の石畳を鳴らす音。
ルクレール軍は勢いよく押した。
怒りと信念が、兵の足を前へ進ませる。
ベルダイル軍は受けた。
押されている。
だが、崩れてはいない。
後ろへ下がりながら盾を並べ、槍の穂先を揃え、突撃を流す。
深追いはしない。
倒れた兵を無理に拾いに行かず、次の列が隙間を埋める。
ルクレールは押している。
だが、勝っているとは言い切れない。
ベルダイルは退いている。
だが、崩れてはいない。
プレデリカはその違和感を、前線の肌で感じ取っていた。
「出すぎないで。優勢な時ほど、地に足のついた戦いをしなさい」
若い兵の肩を掴み、後ろへ引く。
直後、先ほどまでその兵が踏み込もうとしていた場所を、ベルダイル側の槍が薙いだ。
兵の顔から血の気が引く。
「隊長……」
「敵が退いたからといって、崩れたとは限らないわ」
プレデリカは視線を前に向けたまま言う。
「貴方が見たのは、敵の背中ではない。誘いよ」
兵は言葉を失った。
橋の中央付近で、ルクレールの別部隊が前へ出る。
怒りに駆られた兵たちだった。
エラール村の名を叫ぶ者がいる。
ベルダイルを罵る声がある。
敵が下がったのを勝機と見て、さらに一歩踏み込む。
プレデリカはすぐに気づいた。
「止まりなさい。それ以上は――」
しかし、その部隊は彼女の指揮下にない。
命令は届く前に、橋の先へ流れていく。
高所のアンジェが、わずかに目を細めた。
「出た。右側が伸びた」
伝令に短く告げる。
「今なら、切れる」
その報せは、すぐにセネルへ届いた。
セネルは一瞬、橋の向こうを見る。
押し返したい衝動があった。
ここで強く出れば、ルクレールの前線を大きく削れるかもしれない。
だが、アルゼオスの命令が脳裏に残っている。
勝ち急ぐな。
深追いは許さない。
セネルは、剣の柄に置いた手を離した。
「深追いするな。相手を孤立させろ」
命令が飛ぶ。
ベルダイル軍は一斉に押し返さなかった。
代わりに、下がった盾列の隙間から別の槍列が差し込まれる。
突出したルクレール兵の側面が、静かに削られていく。
戦場は、一瞬で表情を変えた。
怒りで前に出た兵たちは、そこで初めて自分たちが孤立していることに気づく。
血が跳ねる。
誰かが倒れる。
命令が届かない。
助けを呼ぶ声と、前へ進めという声が重なる。
「後退する兵を責めないで。道を空けなさい」
プレデリカは自分の部隊へ命じた。
「槍を前へ。盾は少し下げる。崩れた場所を塞ぐわ」
彼女の隊は動いた。
早すぎず、遅すぎず。
退く兵の道を潰さず、敵の押し込みだけを止める。
プレデリカの槍が、橋の上で閃いた。
突き出されたベルダイル兵の槍を払い、踏み込もうとした敵の膝元へ柄を打ち込む。
倒すためではない。
前へ出させないための一撃。
その横を、負傷したルクレール兵が下がっていく。
別のベルダイル兵が、退路を塞ごうと槍を突き出した。
プレデリカは前へ出た。
一歩だけ。
それで十分だった。
細身の騎士槍が、相手の穂先を下からすくう。
金属が跳ねる。
敵兵の腕が浮いた瞬間、槍の石突きが鎧の脇へ沈んだ。
「っ……!」
敵兵の息が詰まる。
プレデリカは追わない。
空いた場所へ、味方の盾兵を滑り込ませる。
「そこ。盾を立てなさい」
「はっ!」
「槍兵、二歩下がって穂先を揃える。追わなくていい。ここを抜かせなければ勝ちよ」
命令は冷静だった。
だが、その冷静さの中に、兵を見捨てない意思があった。
橋の上で転びかけた若い兵が、地面に倒れた味方を見て足を止めかける。
「止まらないで」
プレデリカは言った。
「今見るべきは、前よ」
「しかし――」
「仲間を助けたいなら、まず隊を崩さないこと。貴方が倒れれば、助ける手が一つ減る」
兵は唇を噛み、前を向いた。
その直後、敵の槍が盾列の隙間を突いてくる。
プレデリカは、ほとんど振り返らずに槍を差し込んだ。
穂先ではなく柄で受ける。
石橋の上に鋭い音が鳴った。
力任せに押し返せば、味方の列を乱す。
だから彼女は、力を横へ逃がした。
敵の槍がずれる。
その一瞬の隙に、負傷兵を引きずっていた従兵が後ろへ抜けた。
「行きなさい」
短い声。
従兵は一礼する余裕もなく走る。
プレデリカはそれを見届けず、すでに次の敵を見ていた。
彼女の戦いは、派手ではない。
だが、確実だった。
誰を前に出すか。
誰を下げるか。
どの敵を倒すかではなく、どの一歩を止めれば味方が生き残るか。
それを、槍の先で選び続けている。
混乱は広がりかけていた。
プレデリカの隊は持ちこたえている。
だが、戦場は彼女の隊だけではない。
別の場所で、声が上がった。
「騎士長に報告を――!」
その声が、プレデリカの耳に刺さる。
早すぎる。
彼女はそう思った。
一度は崩れかけた。
確かに危険ではある。
だが、まだ立て直せる。
各部隊が本来の役目を果たせば、前線は保てる。
部隊長が部隊を支え、伝令が命令を繋ぎ、兵が自分の足元を守れば、まだ崩れない。
それなのに、もう騎士長の名が出る。
今のルクレール騎士団は――
そこまで考えた時、戦場の空気が変わった。
ざわめきが、奥から静かに割れていく。
シャルロットが歩いていた。
走らない。
焦らない。
声を荒げない。
白銀の鎧が、橋の上に差す光を受ける。
白いマントの裾が、渓谷から吹き上げる風に揺れた。
兵たちの視線が、自然と彼女へ集まっていく。
倒れかけていた者が顔を上げる。
震えていた手が、盾を握り直す。
敵兵でさえ、一瞬、動きを鈍らせた。
シャルロットは、崩れかけた前線の少し手前で足を止めた。
深い紫の瞳が、戦場を見る。
そして、穏やかに告げた。
「大丈夫です。まだ崩れてはいません」
その言葉だけで、兵たちの呼吸が揃う。
プレデリカは、槍を構えたままその光景を見ていた。
頼もしい。
疑いようもなく、頼もしい。
騎士長の言葉は、今まさに崩れかけた兵を救っている。
それは事実だった。
だが同時に、プレデリカの胸の奥で、小さな違和感が刃のように残る。
自分たちは、まだ戦えた。
少なくとも、彼女の隊はまだ戦っていた。
それでも兵は、騎士長の名を呼んだ。
自分たちで立つ前に、光を求めた。
そのことが、なぜかひどく冷たく感じられた。
シャルロットの指が、聖剣の柄に触れた。
風の音が、遠のく。
戦場に、白い静けさが落ちた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
次回、プロローグ以来の聖騎士シャルロットの戦闘です。
もしよろしければ、ブックマークや応援をいただけると、今後の執筆の大きな励みになります。
次回もよろしくお願いいたします。




