第33話 剣の届かぬ場所
ワジュリアは、大きな街ではない。
しかし、ルクレール領とベルダイル領の領境へ向かう街道を押さえるには、十分な城壁と、兵を収めるだけの広場を持っていた。
石造りの城壁は高くない。
それでも手入れは行き届いている。
古い傷を塞ぐように新しい石が積まれ、門の上には見張りの兵が立っていた。
城門の内側では、馬が繋がれ、矢束が運ばれ、兵たちが低い声で命令を交わしている。
戦は、まだ始まっていない。
だが、始まるための準備だけは、すでに街の空気を変えていた。
城塞の奥。
軍議室には、ベルダイル領の騎士たちが集まっていた。
壁には地図が掛けられている。
ルクレール領。
ベルダイル領。
その間に引かれた領境。
街道、補給路、周辺諸侯の領地。
そして、グレース渓谷に架かる大橋。
卓上には、いくつもの駒が置かれていた。
その地図を前に立っているのは、セネルだった。
ベルダイル軍における上級騎士であり、アルゼオス・ベルダイル侯爵の側近の一人である。
栗色の短い髪は乱れなく整えられている。
青灰色の瞳は真面目で、声にも姿勢にも、若さに似合わぬ落ち着きがあった。
黒鉄色の鎧に、深赤の布地。
無駄な飾りは少ないが、どこを見ても手入れは行き届いている。
剣を帯びる姿にも乱れはない。
命令を疑うより先に、果たそうとする騎士の形がそこにあった。
「周辺諸侯の多くは、まだ態度を明確にしていません」
セネルは地図上の駒を一つずつ示しながら言った。
「ルクレールと我らの初戦。その結果を見てから、態度を決めるつもりなのでしょう」
軍議室に、低いざわめきが落ちる。
不満を覚える者。
当然だと受け止める者。
苛立ちを隠しきれない者。
その反応の中央で、ただ一人、動かない男がいた。
アルゼオス・ベルダイル。
ベルダイル家当主にして、ザイファール王国の次なる王を名乗った男である。
軍議室の奥に座る彼は、声を荒げていない。
剣を抜いてもいない。
それでも、その場の誰もが彼を中心として立っていた。
くすんだ金茶の髪は、獅子のたてがみを思わせる。
琥珀色の瞳は静かで、怒りよりも判断の色が濃い。
深い臙脂と黒を基調とした軍装には、金の意匠が走っていた。
胸元の留め具には、ベルダイル家の獅子紋章が刻まれている。
ただ座しているだけで、そこに王者の圧があった。
「当然だろう」
アルゼオスは言った。
「多くの諸侯は、勝つ者に従う」
その声は低く、よく通った。
「彼らにとって重要なのは、何が正しいかではない。自領を失わぬことだ」
誰も口を挟まない。
「責めることはできまい。貴族とは、そういう生き物でもある」
アルゼオスは地図へ視線を落とす。
「だが、その寄せ集めでは国は保てん」
指先が、ザイファール王国の中心へ置かれる。
「王なき国は、やがて誰かの都合で裂かれる。ならば、裂かれる前に束ねる者が必要だ」
その言葉に、室内の騎士たちは静かに頭を垂れた。
そこにあるのは、忠誠だけではない。
野心を隠す者もいる。
混乱した国に一つの形が必要だと信じる者もいる。
ベルダイル家の掲げる旗に、自分の未来を重ねている者もいる。
それでも今、彼らは同じ男の前で頭を垂れていた。
アルゼオス・ベルダイル。
王を名乗った男の前で。
そこへ、扉が叩かれた。
「入れ」
アルゼオスが短く告げる。
扉が開き、一人の女騎士が入ってきた。
金属の音は少ない。
軽い革鎧に短い外套、背には弓と矢筒。腰には細身の騎士剣を帯びている。
暗い赤茶の髪を低い位置で束ね、緑がかった灰色の瞳は、部屋にいる者たちの顔よりも先に、窓と扉の位置を拾っていた。
アンジェ。
ベルダイル軍において、斥候と観察を任される上級騎士である。
彼女は卓の前まで進むと、静かに頭を下げた。
「失礼します。ただいま戻りました」
「報告しろ」
「はい」
アンジェは地図へ視線を向けた。
「ルクレール領都で演説が行われました。エラール村の事件は、完全に私たちベルダイルの仕業として扱われています」
室内の空気が、わずかに揺れた。
「何だと」
誰かが低く呟く。
別の騎士が拳を握る。
「我らが焼いたことにされているのか」
アンジェは反応を待たずに続けた。
「民衆は、かなり強く動いています。恐怖よりも、怒りの方が前に出ている印象でした」
「誰が演説を?」
セネルが問う。
「シャルロット・ロア・エクスレイです」
その名が出た瞬間、軍議室の空気がはっきりと変わった。
怒りよりも先に、緊張が走る。
聖騎士。
勇者の後継。
聖剣ルクス・エクスレイの担い手。
その名を知らぬ者は、この場にいない。
アンジェは、動揺に合わせて声を強めることもなく、淡々と報告を続けた。
「アランス侯は領都に残っています。前線へ出ている様子はありません」
彼女の指が、地図上の領境へ向く。
「現在、ルクレール軍の部隊が領境へ接近しています。指揮官は、シャルロット・ロア・エクスレイと見て間違いありません」
沈黙が落ちた。
先ほどまで冤罪に怒っていた者たちの中に、別の感情が混じる。
聖騎士が来る。
その事実だけで、兵の胸に影は落ちる。
ひとりの騎士が唇を噛んだ。
「勇者の後継が前線に出るのか」
「ただの初戦では済まぬぞ」
「だが、エラール村の件をそのままにしておけるか」
「こちらが何を言っても、民は信じまい」
声が重なる。
その中で、セネルは一歩前に出た。
「侯爵」
彼は一度、言葉を選んだ。
若さゆえの焦りではない。
だが、完全な平静でもなかった。
「エラール村の件は、こちらに覚えのないものです。ですが、ルクレールの民はすでに信じている」
アルゼオスは黙って聞いている。
「その上で、聖騎士のエクスレイ卿が前線に出るとなれば……兵の動揺は避けられません」
セネルの声には、わずかな硬さがあった。
恐れを隠していない。
だが、逃げようとしているわけでもない。
彼はただ、戦場に起こることを正面から見ようとしていた。
アルゼオスは、そんな若い騎士を静かに見た。
「セネル」
「はい」
「恐れることは恥ではない」
セネルの瞳が、わずかに揺れる。
アルゼオスは続けた。
「聖剣を前にして恐れぬ者がいるなら、それは勇者ではなく愚者だ」
その言葉に、軍議室の騎士たちが息を呑んだ。
恐れるな、と命じているのではない。
恐れてなお、立て。
アルゼオスの言葉は、そう告げていた。
「ベルダイルの兵がエラール村を焼いた事実はない」
アルゼオスは地図上の一点、エラール村の名が記された場所へ視線を落とした。
「だが、事実である必要もないのだろう」
「侯爵」
セネルが声を低くする。
「民に必要なのは、怒りの行き先だ。ルクレールは、それを用意した」
アルゼオスの声に揺れはない。
「恐怖を怒りへ変え、怒りを正義へ整える。それができる者がいる」
彼の指先が、ルクレール領都の方向へ移る。
「シャルロット・ロア・エクスレイだ」
誰も否定しなかった。
アルゼオスは、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
ただそれだけで、室内の兵たちの背筋が伸びた。
「ゲート封印の戦場で、私もあの光を見た」
低い声が落ちる。
「シャルロット・ロア・エクスレイ。勇者の血を継ぐ聖騎士。確かに、一騎で戦場を変える女だ」
セネルは黙って聞いていた。
アンジェも、視線だけをアルゼオスへ向けている。
「聖剣は強い。一点を裂く力としては、この国に並ぶものはないだろう」
アルゼオスは、そこで言葉を切った。
「だが、王位は一騎討ちで決まるものではない」
軍議室が静まり返る。
「聖剣は、目の前の敵を斬れる。崩れた前線を立て直すこともできる。兵に勇気を与え、民に希望を見せることもできる」
彼の瞳に、冷えた光が宿る。
「だが、補給線は斬れん。諸侯の腹の内は斬れん。飢えた兵の疲弊も、疑い始めた民の心も、聖剣では斬れん」
セネルの拳が、静かに握られる。
アンジェは、その指の動きを一瞬だけ見た。
「剣の届かぬ場所で、人は膝を折る」
アルゼオスは言った。
「戦は、一騎で決まらぬ。戦場の端で荷を運ぶ兵、伝令を繋ぐ馬、矢を数える補給係、夜に眠れぬ民。その全てが、勝敗を支える」
彼は騎士たちを見渡した。
「我らは聖騎士を討つために集まったのではない」
一人ひとりに、言葉が落ちていく。
「この国を、一人の英雄に委ねぬために立っている」
その言葉は、熱狂ではなかった。
民を煽る叫びでもない。
恐怖を忘れさせる甘い言葉でもない。
ただ、恐怖を知ったまま、その上に立つための言葉だった。
「恐れたままでも兵は動ける」
アルゼオスは続ける。
「盾を構えろ。隊列を守れ。命令を繋げ。勝ち急ぐな」
軍議室の空気が、静かに整っていく。
「戦場を、一人の剣に委ねるな」
セネルは深く息を吸った。
怖くないわけではない。
聖騎士の名を聞いただけで、胸の奥に冷たいものは残っている。
それでも、立つ場所は見えた。
「セネル」
「はい」
「前線の隊列をまとめろ。正面に聖騎士が現れた場合、深追いは許さない。崩れるな。崩させるな」
「承知しました」
セネルは膝をつく。
その返答に、先ほどまであった迷いは薄かった。
「アンジェ」
「はい」
「ルクレール軍の進路を確認し続けろ。シャルロット本人の位置を見失うな」
「承知しました」
アンジェは静かに頷く。
「ただし、無理はするな」
その言葉に、アンジェの表情がわずかに動いた。
「はい。持ち帰るべき情報を失うつもりはありません」
「それでいい」
アルゼオスは地図へ向き直る。
「各隊に伝えろ。勝ち急ぐな。領境付近で受ける。補給路を確認し、伝令を二重に置け」
騎士たちが次々と頭を下げる。
命令が、戦場へ変わっていく。
「グレース渓谷の大橋を押さえる」
アルゼオスの指が、地図上の一点へ移った。
「橋は壊すな。あれはこの先も必要になる。敵を渡らせず、こちらも失わぬ形で戦え」
セネルが頷く。
「正面から受け、退く時は列を崩さず下げます」
「そうだ」
アルゼオスは続ける。
「敵兵を崩すだけでは足りん」
その指が、ルクレール軍の進路を示す駒に触れた。
「崩すべきは、敵兵だけではない。敵の正義だ」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
ルクレールは、民を守る正義を掲げて進む。
聖騎士の光を先頭に、王家への忠義を盾にして。
ならば、その正義が揺らいだ時。
兵が、自分たちの進む道に疑いを抱いた時。
そこに、戦の勝ち筋が生まれる。
「こちらが怒りに呑まれれば、ルクレールの望む戦になる」
アルゼオスは言った。
「相手の火に付き合うな。こちらは、燃えずに受ける」
その声に、軍議室の空気が変わった。
怒りではない。
恐怖でもない。
冷えた覚悟が、兵たちの背筋を伸ばしていく。
アンジェは、地図上の大橋を見ていた。
狭い橋。
高い渓谷。
押す者と、受ける者。
怒りで進む兵は速い。
だが、速い兵ほど列から外れやすい。
見るべき場所は、敵の剣先ではない。
列の伸び。
旗の揺れ。
伝令の位置。
聖騎士の立つ場所。
彼女はすでに、戦場で追うべきものを頭の中で並べ始めていた。
セネルは、膝をついたまま拳を握る。
恐れは消えていない。
消えるはずもない。
だが、消えなくていい。
恐れてなお、列を保つ。
それが自分の役目だと分かった。
アルゼオスは地図から顔を上げた。
琥珀色の瞳が、軍議室に集まった騎士たちを見渡す。
「迎え撃つ」
その一言で、ワジュリアの空気が戦場へ変わった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
次回は、いよいよルクレールとベルダイルの戦いが始まります。
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次回もよろしくお願いいたします。




