第32.5話 幕間 はじめての日記
その日、リアは小さなノートを持ってきた。
白い布で表紙を包んだ、小さなノートだった。
角は柔らかく、開くと薄い紙が何枚も綴じられている。
アリシアはそれを見つめたまま、首を傾げた。
「……これ、なに?」
「日記帳です」
リアは机の上に帳面を置いた。
隣には、短く削られた鉛筆もある。
「字の練習にもなりますし、今日あったことを少しずつ書いてみませんか」
「……にっき」
「はい。今日見たもの、食べたもの、嬉しかったこと、怖かったこと。何でも構いません」
アリシアは日記帳にそっと触れた。
紙は薄い。
けれど、破れそうなほど弱くはなかった。
「まちがえても、いい?」
「もちろんです」
リアは穏やかに頷いた。
「間違えても大丈夫です。きれいな字でなくても構いません。アリシアが書いたことなら、それで意味があります」
アリシアは少しだけ目を伏せた。
「……いみ」
「はい」
リアは椅子を引き、アリシアの隣に座った。
「言葉にするのが難しいことも、少しずつでいいのです。今日のことを、一つだけでも残してみましょう」
「……すぐじゃなくて、いい?」
「はい。少しずつでいいのです」
アリシアは日記帳を抱きしめた。
強く抱くと折れてしまいそうで、途中で力を緩める。
それを見て、リアが少しだけ微笑んだ。
「今日から、これはアリシアのものです」
「……わたしの?」
「はい。ですから、誰かに見せたくない時は、見せなくて構いません」
アリシアは瞬きをした。
「リアも?」
「私もです」
「クランも?」
「クランにも、見せたくないなら見せなくていいですよ」
その時、部屋の入口に立っていたクランが短く言った。
「見ない」
アリシアは振り向いた。
クランは壁に背を預け、腕を組んでいる。
いつも通り、あまり表情は動かない。
「……ほんと?」
「ああ」
「ぜったい?」
「見せると言われたら見る」
「……みせないって、いったら?」
「見ない」
アリシアは少し考えた。
それから、小さく頷く。
「じゃあ、かく」
リアは鉛筆を取り、アリシアの手に握らせた。
「まずは、日付を書いてみましょうか」
「ひづけ」
「今日の日です」
アリシアは鉛筆を握る。
指先に少し力が入りすぎて、芯が紙に強く当たった。
黒い点が、紙の上に落ちる。
アリシアはびくりと肩を揺らした。
「……よごれた」
「大丈夫です」
リアはすぐに言った。
「それも、最初の一文字の前にできた印です」
「……しるし?」
「はい。今日、アリシアが初めて日記を書こうとした印です」
アリシアは黒い点を見つめた。
ただの汚れに見えた。
けれど、リアがそう言うと、少しだけ違うものに見えた。
消さなくてもいいもの。
そこにあっても、怒られないもの。
アリシアはもう一度、鉛筆を握り直した。
リアが隣で、ゆっくりと手本を書いてくれる。
アリシアはそれを真似た。
線は曲がった。
大きさも揃わなかった。
途中で少し、文字が潰れた。
それでも、紙の上には確かに文字が並んだ。
「……できた」
「はい。よくできましたね」
リアの声は、できたことをそのまま認めてくれる声だった。
アリシアは、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
「次は、今日あったことを書いてみましょう」
「……きょう」
「はい。朝起きてから今まで、覚えていることを一つでいいですよ」
アリシアは考えた。
朝、目が覚めた。
白い帽子が枕元に置いてあった。
クランが部屋の外にいた。
リアが温かいスープをくれた。
外の鳥が鳴いていた。
怖い夢は、見なかった。
どれを書けばいいのか分からない。
「……いっぱいある」
「では、一番書きたいことから」
「……いちばん」
アリシアは紙を見つめた。
鉛筆の先が、小さく震える。
そして、ゆっくりと書き始めた。
きょう、りあが、にっきをくれた。
じの、れんしゅう。
まちがえても、いいっていった。
くろい、てんができた。
でも、りあが、しるしっていった。
だから、けさない。
アリシアはそこまで書いて、手を止めた。
「……できた」
リアは日記帳を覗き込もうとはしなかった。
「読んでもいいですか?」
そう尋ねた。
アリシアは少し迷う。
でも、日記帳を両手で持って、リアの方へ向けた。
「……ここだけ」
「はい。ここだけ読みますね」
リアはゆっくりと文字を追った。
読み終えると、少しだけ目を細めた。
「とても、アリシアらしい日記です」
「……ほんと?」
「はい。黒い点を消さないことも、ちゃんとアリシアが決めたことです」
「……きめた」
アリシアはその言葉を小さく繰り返した。
自分で決めた。
それは、まだ少し不思議な響きだった。
何かを決める時、いつも怖かった。
間違えたら怒られるかもしれない。
要らないと言われるかもしれない。
ここにいられなくなるかもしれない。
でも、黒い点を消さないことくらいなら、自分で決めてもよかった。
そう思えた。
◇
昼過ぎ、リアは伯爵家の用件で席を外した。
アリシアは日記帳を抱えて、中庭の端に座っていた。
風が少し冷たい。
けれど、リアが用意してくれたケープは温かかった。
遠くでは、クランが剣を振っている。
リアが朝に用意した、貸与の訓練剣だった。
大きな音はしない。
鋭く、短く、風が切れる音がする。
アリシアはじっと見ていた。
クランは何度も同じ動きを繰り返している。
振る。
止まる。
少しだけ足の位置を変える。
また振る。
アリシアには、それが上手いのかどうかは分からない。
でも、クランが何かを確かめていることだけは分かった。
クランはいつも、あまり喋らない。
大丈夫とも、怖くないとも、あまり言わない。
けれど、気がつくと近くにいる。
扉の外にいる。
道の端に立っている。
アリシアが振り返ると、少し離れたところにいる。
遠すぎない。
近すぎない。
いなくならない場所にいる。
アリシアは日記帳を開いた。
風で紙がめくれそうになるのを、手で押さえる。
鉛筆を握り、ゆっくり書いた。
くらんは、けんをふっていた。
むずかしいかお。
でも、いつも、そばにいる。
だいじょうぶって、いわない。
でも、くらんがいると、だいじょうぶなきがする。
書き終えてから、アリシアは何度も読み返した。
文字は少し曲がっている。
「だいじょうぶ」の「ぶ」が少し潰れていた。
でも、読める。
たぶん、読める。
その時、剣の音が止まった。
アリシアが顔を上げると、クランがこちらを見ていた。
「……どうした」
アリシアは日記帳を胸に抱いた。
「……にっき、かいた」
「そうか」
クランは近づいてこない。
見せろとも言わない。
ただ、少し離れた場所に立っている。
「……よむ?」
自分で言ってから、アリシアは少し驚いた。
さっき、見せなくてもいいと言われたばかりだった。
でも、見せてもいいと思った。
全部ではない。
少しだけ。
クランは短く答えた。
「いいのか」
「……ここだけ」
「ああ」
アリシアは日記帳を開いて、さっき書いたところを見せた。
クランは黙って読んだ。
読み終えても、すぐには何も言わなかった。
アリシアは少し不安になった。
「……へん?」
「いや」
「じ、まちがってる?」
「読める」
「……ほんと?」
「ああ」
クランは日記帳から目を離し、アリシアを見た。
「よく書けている」
アリシアは日記帳を、ぎゅっと抱きしめた。
今度は少し力が入りすぎた。
紙が曲がる。
慌てて力を緩める。
「……うん」
クランはそれ以上、何も言わなかった。
でも、アリシアにはそれで十分だった。
◇
夕方になると、リアが戻ってきた。
手には小さな包みを持っている。
「遅くなってしまいましたね」
「……おかえり」
「はい。ただいま戻りました」
リアは微笑み、包みを机の上に置いた。
「焼き菓子を少し買ってきました。アリシアが朝、気にしていたものです」
アリシアは目を大きくした。
「……いいの?」
「はい。ただし、夕食の前ですから一つだけです」
「ひとつ」
「残りは明日にしましょう」
アリシアは小さく頷いた。
リアは包みを開く。
甘い匂いが広がった。
小さな焼き菓子がいくつか並んでいる。
丸くて、表面に薄く砂糖がまぶされていた。
アリシアは一つ受け取る。
両手で持って、少しかじった。
甘かった。
温かくはない。
でも、口の中でほろりと崩れる。
「……おいしい」
「よかったです」
リアは安心したように言った。
クランは部屋の端に立っていた。
リアが焼き菓子を一つ差し出す。
「クランもどうぞ」
「俺はいい」
「一つだけです」
「……」
「アリシアが見ています」
クランはアリシアを見た。
アリシアは焼き菓子を持ったまま、じっとクランを見ていた。
クランは少しだけ息を吐き、焼き菓子を受け取った。
「……もらう」
リアは満足そうに頷く。
アリシアはその様子を見て、日記帳を開いた。
りあが、おかしをくれた。
あまかった。
くらんは、いらないっていった。
でも、りあが、ひとつだけっていった。
くらんは、たべた。
りあは、すこし、つよい。
書いてから、アリシアはリアを見た。
「……りあ」
「はい」
「りあは、つよい?」
リアは少し驚いたように瞬きした。
「どうでしょう。まだまだ未熟です」
「でも、クランに、おかし、たべさせた」
クランが少しだけ顔を背けた。
リアは困ったように微笑む。
「それは、強いというより……一緒に食べた方が美味しいと思っただけです」
「……いっしょ」
「はい」
アリシアは焼き菓子を見つめた。
一人で食べても、たぶん甘い。
でも、リアがいて、クランがいて、同じものを食べると、少し違った。
どう書けばいいのか分からなくて、アリシアは短く書いた。
いっしょだと、あまい。
◇
夜。
食事を終え、湯を使い、アリシアは寝る前にもう一度、日記帳を開いた。
今日のことは、もうたくさん書いた。
これ以上書くことはないと思った。
けれど、紙を見ていると、胸の奥に残っている言葉が一つあった。
書いていいのか、分からない言葉だった。
アリシアは寝台の上で膝を抱えた。
帳面を開いたまま、しばらく動けなかった。
部屋の外では、かすかな足音がした。
クランだと思った。
見張りではない、と本人は言うかもしれない。
でも、たぶん見てくれている。
遠くの部屋では、リアがまだ起きている気配がした。
小さな灯りが、扉の隙間から細く漏れている。
アリシアは鉛筆を握った。
ゆっくり、書く。
何度も止まりながら。
きょうも、ここにいた。
こわくなかった。
くらんがいた。
りあがいた。
おかしが、あまかった。
にっきも、かけた。
そこまで書いて、手が止まった。
次の言葉は、なかなか出てこなかった。
書いたら、欲しがっているみたいだった。
欲しがると、なくなるかもしれない。
大事だと思うと、取り上げられるかもしれない。
いていいと思うと、いらないと言われるかもしれない。
アリシアは鉛筆を置きかけた。
でも、リアが言っていた。
間違えてもいい。
きれいでなくてもいい。
アリシアが書いたことなら、それで意味がある。
だから、アリシアはもう一度、鉛筆を握った。
──あしたも、ここにいていいかな。
書き終えた瞬間、胸が少し苦しくなった。
アリシアは日記帳を閉じようとした。
でも、閉じられなかった。
その文字だけが、紙の上で小さく震えているように見えた。
しばらくして、扉が控えめに叩かれた。
「アリシア。まだ起きていますか」
リアの声だった。
アリシアは日記帳を抱えたまま、小さく答える。
「……おきてる」
「入っても?」
「うん」
リアが静かに部屋へ入ってきた。
手には小さな灯りを持っている。
「眠れませんか?」
「……にっき、かいた」
「そうですか」
リアは寝台の側に椅子を寄せた。
「たくさん書けましたね」
「……うん」
「読んでほしいところはありますか?」
アリシアは日記帳を抱きしめた。
全部は見せたくない。
けれど、最後のところだけは、誰かに読んでほしかった。
怖かった。
でも、読んでほしかった。
「……ここだけ」
アリシアは日記帳を開き、最後の行をリアへ向けた。
リアは静かに視線を落とす。
そこには、震えた字で書かれていた。
――あしたも、ここにいていいかな。
リアはすぐには何も言わなかった。
けれど、その沈黙は怖くなかった。
ゆっくりと、言葉を探してくれている沈黙だった。
やがて、リアは顔を上げる。
「アリシア」
「……うん」
「ここにいていい、ではありません」
アリシアの指が、日記帳の端を握った。
胸の奥が冷たくなる。
けれど、次の言葉が続いた。
「ここに、いてほしいのです」
アリシアは顔を上げた。
リアはまっすぐに見ていた。
優しいだけではない目だった。
嘘を言わない目だった。
「アリシアがここにいることを、私は望んでいます」
「……いて、ほしい?」
「はい」
リアは頷く。
「少なくとも、明日も。明後日も。アリシアが嫌でなければ、ここにいてください」
アリシアは日記帳を見下ろした。
書いた文字が、さっきより少しだけ違って見えた。
いていいかな。
その言葉の隣に、リアの声が重なる。
いてほしい。
アリシアは唇を結んだ。
目の奥が熱くなる。
泣きたいのか、嬉しいのか、分からなかった。
リアがそっと手を伸ばす。
けれど、すぐには触れなかった。
「頭を撫でてもいいですか?」
アリシアは少しだけ驚いた。
それから、小さく頷いた。
「……うん」
リアの手が、そっと髪に触れた。
優しく、ゆっくりと撫でる。
壊れものに触れるようにではなく、そこにいる誰かを大切にするように。
アリシアは目を閉じた。
部屋の外で、かすかな気配が動いた。
クランだった。
扉の向こうにいる。
入ってはこない。
けれど、そこにいる。
リアが気づいているのかは分からない。
でも、アリシアには分かった。
クランも、そこにいる。
「……リア」
「はい」
「クランも、いてほしいって、おもう?」
扉の外が、ほんの少し静かになった。
リアは微笑んだ。
「本人に聞いてみましょうか」
「……いま?」
「クラン」
リアが扉の方へ声をかけた。
少しの沈黙。
それから、扉の外で低い声がした。
「何だ」
「アリシアが聞きたいことがあるそうです」
「……そうか」
扉は開かない。
それが、クランらしかった。
アリシアは日記帳を抱えたまま、少しだけ声を出した。
「……クラン」
「ああ」
「わたし、あしたも、ここにいていい?」
答えは、すぐには返ってこなかった。
けれど、逃げる沈黙ではなかった。
やがて、クランの声がした。
「いていい」
アリシアは息を止める。
クランは続けた。
「……いてほしい」
とても短い言葉だった。
けれど、アリシアの中で、何かがほどけた。
リアが小さく微笑む。
「同じ答えでしたね」
「……うん」
アリシアは日記帳を閉じた。
今度は、ちゃんと閉じられた。
怖くなかった。
リアが布団を整える。
「今日は、もう休みましょう」
「……うん」
「日記は枕元に置きますか?」
「うん」
アリシアは日記帳を枕元に置いた。
白い表紙の端に、指でそっと触れる。
「……あしたも、かく」
「はい。楽しみにしています」
「……でも、みない?」
「アリシアが見せてくれるところだけ」
「うん」
リアは灯りを少し落とした。
部屋が柔らかい暗さに包まれる。
扉の外では、クランの気配がまだそこにあった。
アリシアは布団の中で目を閉じる。
今日は、黒い点を消さなかった。
字を書いた。
クランが剣を振っていた。
リアが焼き菓子をくれた。
一緒だと甘かった。
明日もいてほしいと言われた。
胸の奥に残っていた怖さは、完全には消えていない。
けれど、それより少しだけ大きなものがあった。
ここにいてもいい。
ここにいてほしいと言われたこと。
アリシアは小さく息を吐いた。
最初のページには、まだ黒い点が残っている。
消さなくてもいい印。
今日、ここにいた印。
眠りに落ちる直前、もう一度だけ、枕元の日記帳に触れた。
明日も、書こうと思った。
明日も、ここで。
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