表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/58

第32.5話 幕間 はじめての日記

 

 その日、リアは小さなノートを持ってきた。

 白い布で表紙を包んだ、小さなノートだった。


 角は柔らかく、開くと薄い紙が何枚も綴じられている。

 アリシアはそれを見つめたまま、首を傾げた。


「……これ、なに?」

「日記帳です」


 リアは机の上に帳面を置いた。

 隣には、短く削られた鉛筆もある。


「字の練習にもなりますし、今日あったことを少しずつ書いてみませんか」

「……にっき」

「はい。今日見たもの、食べたもの、嬉しかったこと、怖かったこと。何でも構いません」


 アリシアは日記帳にそっと触れた。


 紙は薄い。

 けれど、破れそうなほど弱くはなかった。


「まちがえても、いい?」

「もちろんです」


 リアは穏やかに頷いた。


「間違えても大丈夫です。きれいな字でなくても構いません。アリシアが書いたことなら、それで意味があります」


 アリシアは少しだけ目を伏せた。


「……いみ」

「はい」


 リアは椅子を引き、アリシアの隣に座った。


「言葉にするのが難しいことも、少しずつでいいのです。今日のことを、一つだけでも残してみましょう」

「……すぐじゃなくて、いい?」

「はい。少しずつでいいのです」


 アリシアは日記帳を抱きしめた。

 強く抱くと折れてしまいそうで、途中で力を緩める。


 それを見て、リアが少しだけ微笑んだ。


「今日から、これはアリシアのものです」

「……わたしの?」

「はい。ですから、誰かに見せたくない時は、見せなくて構いません」


 アリシアは瞬きをした。


「リアも?」

「私もです」

「クランも?」

「クランにも、見せたくないなら見せなくていいですよ」


 その時、部屋の入口に立っていたクランが短く言った。


「見ない」


 アリシアは振り向いた。


 クランは壁に背を預け、腕を組んでいる。

 いつも通り、あまり表情は動かない。


「……ほんと?」

「ああ」

「ぜったい?」

「見せると言われたら見る」

「……みせないって、いったら?」

「見ない」


 アリシアは少し考えた。

 それから、小さく頷く。


「じゃあ、かく」


 リアは鉛筆を取り、アリシアの手に握らせた。


「まずは、日付を書いてみましょうか」

「ひづけ」

「今日の日です」


 アリシアは鉛筆を握る。

 指先に少し力が入りすぎて、芯が紙に強く当たった。


 黒い点が、紙の上に落ちる。

 アリシアはびくりと肩を揺らした。


「……よごれた」

「大丈夫です」


 リアはすぐに言った。


「それも、最初の一文字の前にできた印です」

「……しるし?」

「はい。今日、アリシアが初めて日記を書こうとした印です」


 アリシアは黒い点を見つめた。

 ただの汚れに見えた。


 けれど、リアがそう言うと、少しだけ違うものに見えた。


 消さなくてもいいもの。

 そこにあっても、怒られないもの。


 アリシアはもう一度、鉛筆を握り直した。

 リアが隣で、ゆっくりと手本を書いてくれる。


 アリシアはそれを真似た。


 線は曲がった。

 大きさも揃わなかった。

 途中で少し、文字が潰れた。


 それでも、紙の上には確かに文字が並んだ。


「……できた」

「はい。よくできましたね」


 リアの声は、できたことをそのまま認めてくれる声だった。

 アリシアは、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。


「次は、今日あったことを書いてみましょう」

「……きょう」

「はい。朝起きてから今まで、覚えていることを一つでいいですよ」


 アリシアは考えた。


 朝、目が覚めた。

 白い帽子が枕元に置いてあった。


 クランが部屋の外にいた。

 リアが温かいスープをくれた。


 外の鳥が鳴いていた。

 怖い夢は、見なかった。


 どれを書けばいいのか分からない。


「……いっぱいある」

「では、一番書きたいことから」

「……いちばん」


 アリシアは紙を見つめた。


 鉛筆の先が、小さく震える。

 そして、ゆっくりと書き始めた。


 きょう、りあが、にっきをくれた。

 じの、れんしゅう。


 まちがえても、いいっていった。

 くろい、てんができた。


 でも、りあが、しるしっていった。

 だから、けさない。


 アリシアはそこまで書いて、手を止めた。


「……できた」


 リアは日記帳を覗き込もうとはしなかった。


「読んでもいいですか?」


 そう尋ねた。

 アリシアは少し迷う。


 でも、日記帳を両手で持って、リアの方へ向けた。


「……ここだけ」

「はい。ここだけ読みますね」


 リアはゆっくりと文字を追った。

 読み終えると、少しだけ目を細めた。


「とても、アリシアらしい日記です」

「……ほんと?」

「はい。黒い点を消さないことも、ちゃんとアリシアが決めたことです」

「……きめた」


 アリシアはその言葉を小さく繰り返した。


 自分で決めた。

 それは、まだ少し不思議な響きだった。


 何かを決める時、いつも怖かった。

 間違えたら怒られるかもしれない。


 要らないと言われるかもしれない。

 ここにいられなくなるかもしれない。


 でも、黒い点を消さないことくらいなら、自分で決めてもよかった。

 そう思えた。



 ◇



 昼過ぎ、リアは伯爵家の用件で席を外した。

 アリシアは日記帳を抱えて、中庭の端に座っていた。


 風が少し冷たい。

 けれど、リアが用意してくれたケープは温かかった。


 遠くでは、クランが剣を振っている。

 リアが朝に用意した、貸与の訓練剣だった。


 大きな音はしない。

 鋭く、短く、風が切れる音がする。


 アリシアはじっと見ていた。

 クランは何度も同じ動きを繰り返している。


 振る。

 止まる。


 少しだけ足の位置を変える。

 また振る。


 アリシアには、それが上手いのかどうかは分からない。

 でも、クランが何かを確かめていることだけは分かった。


 クランはいつも、あまり喋らない。

 大丈夫とも、怖くないとも、あまり言わない。


 けれど、気がつくと近くにいる。


 扉の外にいる。

 道の端に立っている。


 アリシアが振り返ると、少し離れたところにいる。


 遠すぎない。

 近すぎない。

 いなくならない場所にいる。


 アリシアは日記帳を開いた。


 風で紙がめくれそうになるのを、手で押さえる。

 鉛筆を握り、ゆっくり書いた。


 くらんは、けんをふっていた。

 むずかしいかお。


 でも、いつも、そばにいる。

 だいじょうぶって、いわない。

 でも、くらんがいると、だいじょうぶなきがする。


 書き終えてから、アリシアは何度も読み返した。

 文字は少し曲がっている。


「だいじょうぶ」の「ぶ」が少し潰れていた。


 でも、読める。

 たぶん、読める。


 その時、剣の音が止まった。

 アリシアが顔を上げると、クランがこちらを見ていた。


「……どうした」


 アリシアは日記帳を胸に抱いた。


「……にっき、かいた」

「そうか」


 クランは近づいてこない。

 見せろとも言わない。


 ただ、少し離れた場所に立っている。


「……よむ?」


 自分で言ってから、アリシアは少し驚いた。

 さっき、見せなくてもいいと言われたばかりだった。


 でも、見せてもいいと思った。


 全部ではない。

 少しだけ。


 クランは短く答えた。


「いいのか」

「……ここだけ」

「ああ」


 アリシアは日記帳を開いて、さっき書いたところを見せた。

 クランは黙って読んだ。


 読み終えても、すぐには何も言わなかった。

 アリシアは少し不安になった。


「……へん?」

「いや」

「じ、まちがってる?」

「読める」

「……ほんと?」

「ああ」


 クランは日記帳から目を離し、アリシアを見た。


「よく書けている」


 アリシアは日記帳を、ぎゅっと抱きしめた。

 今度は少し力が入りすぎた。


 紙が曲がる。

 慌てて力を緩める。


「……うん」


 クランはそれ以上、何も言わなかった。

 でも、アリシアにはそれで十分だった。



 ◇



 夕方になると、リアが戻ってきた。

 手には小さな包みを持っている。


「遅くなってしまいましたね」

「……おかえり」

「はい。ただいま戻りました」


 リアは微笑み、包みを机の上に置いた。


「焼き菓子を少し買ってきました。アリシアが朝、気にしていたものです」


 アリシアは目を大きくした。


「……いいの?」

「はい。ただし、夕食の前ですから一つだけです」

「ひとつ」

「残りは明日にしましょう」


 アリシアは小さく頷いた。


 リアは包みを開く。

 甘い匂いが広がった。


 小さな焼き菓子がいくつか並んでいる。

 丸くて、表面に薄く砂糖がまぶされていた。


 アリシアは一つ受け取る。

 両手で持って、少しかじった。


 甘かった。

 温かくはない。


 でも、口の中でほろりと崩れる。


「……おいしい」

「よかったです」


 リアは安心したように言った。


 クランは部屋の端に立っていた。

 リアが焼き菓子を一つ差し出す。


「クランもどうぞ」

「俺はいい」

「一つだけです」

「……」

「アリシアが見ています」


 クランはアリシアを見た。

 アリシアは焼き菓子を持ったまま、じっとクランを見ていた。


 クランは少しだけ息を吐き、焼き菓子を受け取った。


「……もらう」


 リアは満足そうに頷く。

 アリシアはその様子を見て、日記帳を開いた。


 りあが、おかしをくれた。

 あまかった。


 くらんは、いらないっていった。

 でも、りあが、ひとつだけっていった。


 くらんは、たべた。

 りあは、すこし、つよい。


 書いてから、アリシアはリアを見た。


「……りあ」

「はい」

「りあは、つよい?」


 リアは少し驚いたように瞬きした。


「どうでしょう。まだまだ未熟です」

「でも、クランに、おかし、たべさせた」


 クランが少しだけ顔を背けた。

 リアは困ったように微笑む。


「それは、強いというより……一緒に食べた方が美味しいと思っただけです」

「……いっしょ」

「はい」


 アリシアは焼き菓子を見つめた。

 一人で食べても、たぶん甘い。


 でも、リアがいて、クランがいて、同じものを食べると、少し違った。

 どう書けばいいのか分からなくて、アリシアは短く書いた。


 いっしょだと、あまい。



 ◇



 夜。


 食事を終え、湯を使い、アリシアは寝る前にもう一度、日記帳を開いた。


 今日のことは、もうたくさん書いた。

 これ以上書くことはないと思った。


 けれど、紙を見ていると、胸の奥に残っている言葉が一つあった。

 書いていいのか、分からない言葉だった。


 アリシアは寝台の上で膝を抱えた。

 帳面を開いたまま、しばらく動けなかった。

 部屋の外では、かすかな足音がした。


 クランだと思った。


 見張りではない、と本人は言うかもしれない。

 でも、たぶん見てくれている。


 遠くの部屋では、リアがまだ起きている気配がした。

 小さな灯りが、扉の隙間から細く漏れている。


 アリシアは鉛筆を握った。

 ゆっくり、書く。

 何度も止まりながら。


 きょうも、ここにいた。

 こわくなかった。


 くらんがいた。

 りあがいた。


 おかしが、あまかった。

 にっきも、かけた。


 そこまで書いて、手が止まった。

 次の言葉は、なかなか出てこなかった。


 書いたら、欲しがっているみたいだった。

 欲しがると、なくなるかもしれない。


 大事だと思うと、取り上げられるかもしれない。

 いていいと思うと、いらないと言われるかもしれない。


 アリシアは鉛筆を置きかけた。

 でも、リアが言っていた。


 間違えてもいい。

 きれいでなくてもいい。


 アリシアが書いたことなら、それで意味がある。

 だから、アリシアはもう一度、鉛筆を握った。


 ──あしたも、ここにいていいかな。


 書き終えた瞬間、胸が少し苦しくなった。


 アリシアは日記帳を閉じようとした。

 でも、閉じられなかった。


 その文字だけが、紙の上で小さく震えているように見えた。

 しばらくして、扉が控えめに叩かれた。


「アリシア。まだ起きていますか」


 リアの声だった。

 アリシアは日記帳を抱えたまま、小さく答える。


「……おきてる」

「入っても?」

「うん」


 リアが静かに部屋へ入ってきた。

 手には小さな灯りを持っている。


「眠れませんか?」

「……にっき、かいた」

「そうですか」


 リアは寝台の側に椅子を寄せた。


「たくさん書けましたね」

「……うん」

「読んでほしいところはありますか?」


 アリシアは日記帳を抱きしめた。


 全部は見せたくない。

 けれど、最後のところだけは、誰かに読んでほしかった。


 怖かった。

 でも、読んでほしかった。


「……ここだけ」


 アリシアは日記帳を開き、最後の行をリアへ向けた。


 リアは静かに視線を落とす。

 そこには、震えた字で書かれていた。


 ――あしたも、ここにいていいかな。


 リアはすぐには何も言わなかった。

 けれど、その沈黙は怖くなかった。


 ゆっくりと、言葉を探してくれている沈黙だった。

 やがて、リアは顔を上げる。


「アリシア」

「……うん」

「ここにいていい、ではありません」


 アリシアの指が、日記帳の端を握った。


 胸の奥が冷たくなる。

 けれど、次の言葉が続いた。


「ここに、いてほしいのです」


 アリシアは顔を上げた。

 リアはまっすぐに見ていた。


 優しいだけではない目だった。

 嘘を言わない目だった。


「アリシアがここにいることを、私は望んでいます」

「……いて、ほしい?」

「はい」


 リアは頷く。


「少なくとも、明日も。明後日も。アリシアが嫌でなければ、ここにいてください」


 アリシアは日記帳を見下ろした。

 書いた文字が、さっきより少しだけ違って見えた。


 いていいかな。


 その言葉の隣に、リアの声が重なる。


 いてほしい。


 アリシアは唇を結んだ。

 目の奥が熱くなる。


 泣きたいのか、嬉しいのか、分からなかった。


 リアがそっと手を伸ばす。

 けれど、すぐには触れなかった。


「頭を撫でてもいいですか?」


 アリシアは少しだけ驚いた。

 それから、小さく頷いた。


「……うん」


 リアの手が、そっと髪に触れた。

 優しく、ゆっくりと撫でる。


 壊れものに触れるようにではなく、そこにいる誰かを大切にするように。


 アリシアは目を閉じた。

 部屋の外で、かすかな気配が動いた。


 クランだった。

 扉の向こうにいる。


 入ってはこない。

 けれど、そこにいる。


 リアが気づいているのかは分からない。


 でも、アリシアには分かった。

 クランも、そこにいる。


「……リア」

「はい」

「クランも、いてほしいって、おもう?」


 扉の外が、ほんの少し静かになった。

 リアは微笑んだ。


「本人に聞いてみましょうか」

「……いま?」

「クラン」


 リアが扉の方へ声をかけた。


 少しの沈黙。

 それから、扉の外で低い声がした。


「何だ」

「アリシアが聞きたいことがあるそうです」

「……そうか」


 扉は開かない。

 それが、クランらしかった。


 アリシアは日記帳を抱えたまま、少しだけ声を出した。


「……クラン」

「ああ」

「わたし、あしたも、ここにいていい?」


 答えは、すぐには返ってこなかった。

 けれど、逃げる沈黙ではなかった。


 やがて、クランの声がした。


「いていい」


 アリシアは息を止める。

 クランは続けた。


「……いてほしい」


 とても短い言葉だった。

 けれど、アリシアの中で、何かがほどけた。


 リアが小さく微笑む。


「同じ答えでしたね」

「……うん」


 アリシアは日記帳を閉じた。

 今度は、ちゃんと閉じられた。


 怖くなかった。

 リアが布団を整える。


「今日は、もう休みましょう」

「……うん」

「日記は枕元に置きますか?」

「うん」


 アリシアは日記帳を枕元に置いた。

 白い表紙の端に、指でそっと触れる。


「……あしたも、かく」

「はい。楽しみにしています」

「……でも、みない?」

「アリシアが見せてくれるところだけ」

「うん」


 リアは灯りを少し落とした。

 部屋が柔らかい暗さに包まれる。


 扉の外では、クランの気配がまだそこにあった。

 アリシアは布団の中で目を閉じる。


 今日は、黒い点を消さなかった。

 字を書いた。


 クランが剣を振っていた。

 リアが焼き菓子をくれた。


 一緒だと甘かった。

 明日もいてほしいと言われた。


 胸の奥に残っていた怖さは、完全には消えていない。

 けれど、それより少しだけ大きなものがあった。


 ここにいてもいい。

 ここにいてほしいと言われたこと。


 アリシアは小さく息を吐いた。

 最初のページには、まだ黒い点が残っている。


 消さなくてもいい印。

 今日、ここにいた印。


 眠りに落ちる直前、もう一度だけ、枕元の日記帳に触れた。


 明日も、書こうと思った。

 明日も、ここで。


 ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


 皆様からいただく、応援やコメント、ブックマークが執筆への励みになります。

 

 次回もよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ