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第32話 白い帽子


 ワトル伯爵との話を終え、リアの屋敷へ戻る頃には、空の色が薄く傾き始めていた。


 マルムの街は、表向きにはいつもと変わらない。


 石畳を行き交う人々の声。

 店先で交わされる値段のやり取り。


 遠くで鳴る馬車の車輪。

 そのどれもが、クランには少し遠く聞こえていた。


 旧開拓村跡地で見たもの。


 紋章を刻まれた異形。

 アリシアが黒い剣へ変じた瞬間。


 ワトル伯爵の静かな断定。

 そして、自分たちが当面、リアのもとに置かれることになったという現実。


 どれも終わっていない。

 ただ、場所が変わっただけだ。


 隣を歩くアリシアは、クランの外套の裾を小さく掴んでいた。


 伯爵の部屋で目を覚ましてからも、まだ本調子ではないらしい。

 顔色は悪く、赤い瞳もいつもより少しぼんやりしている。


 長く眠っていた。

 目を覚ました後も、自分がどれほど眠っていたのか、よく分かっていないようだった。


 リアは、時折その様子を確かめながら歩いている。


 急かさない。

 不安を口にもしない。

 ただ、歩調だけをアリシアに合わせていた。


 グローリー家の屋敷は、朝に訪れた時と変わらず静かだった。


 整えられた庭。


 必要以上に飾られてはいないが、隅々まで手入れの行き届いた建物。

 騎士一人が住むには、明らかに広すぎる屋敷。


 門をくぐった時、クランは朝に抱いた違和感をもう一度思い出す。

 ここは、ただの騎士の住まいではない。


 なぜ、彼女はここに一人で暮らしているのか。

 そう思った。


 だが、今それを問う理由はない。

 隠し事なら、こちらにもある。


「こちらです」


 リアは本邸の玄関へは向かわず、中庭へ続く廊下を進んだ。


「先ほどまでは応接室で休んでいただいていましたが、このままでは落ち着かないでしょう。一階の離れが空いています。しばらくは、そこを使ってください」


 中庭に面した小さな建物の前で、リアは足を止めた。


 本邸とは渡り廊下で繋がっているが、人の出入りは少ない。

 窓からは庭木が見え、夜になれば外の気配も分かりやすい。


 本邸からは少し離れている。

 だが、完全に孤立しているわけではない。


 逃げようとすれば目立つ。

 近づく者がいれば、すぐに分かる。


 クランは、すぐに理解した。


「……監視しやすい場所だな」


 リアは否定しなかった。


「はい」


 短く認めてから、少しだけ声をやわらげる。


「ですが、休みやすい場所でもあります」


 クランは何も言わなかった。


 嘘ではない。

 だから余計に、やりにくい。


「食事や湯の準備は、こちらで整えます。必要なものがあれば言ってください」

「……世話になる」

「ただし」


 リアは静かに言葉を継いだ。


「二階の奥にある私の私室には、許可なく入らないでください」


 声は穏やかだった。

 だが、その一線だけは越えさせない響きがあった。


 クランはわずかに目を細める。


「何かあるのか」

「私物があります」

「そうか」


 それで終わりだった。

 リアがそれ以上を語るつもりがないことは分かった。


 クランも踏み込まない。

 お互い、話していないことはある。


 今はそれでいい。

 アリシアが、小さくリアを見上げた。


「……ここ、いていいの?」

「はい」


 リアは膝を折り、アリシアと目線を合わせる。


「今日は、ここで休みましょう。怖いことがあれば、すぐに言ってください」


 アリシアは少し迷ってから、クランの外套を掴む指に力を込めた。


「クランも、いる?」

「ああ」


 クランは短く答える。


「いる」


 その一言で、アリシアの肩から少しだけ力が抜けた。


 離れの室内は簡素だった。


 大きな寝台。

 小さな机。

 壁際の棚。


 薄い色の布がかけられた椅子。

 客間として整えられているが、余分な装飾は少ない。


 アリシアは寝台の端に腰を下ろした。


 足が床に届かない。

 そのことに気づいたリアが、椅子を引き寄せ、そっと足元へ置いた。


「アリシア。ずっと眠っていましたが、もう大丈夫ですか?」


 アリシアは少し考えるように首を傾げた。


「わからない」


 それから、自分の胸元に手を当てる。


「でも、たぶん……だいじょうぶ」


 自信のない声だった。

 リアは責めずに頷く。


「分からない時は、分からないで大丈夫です。無理に大丈夫と言わなくていいんですよ」


 アリシアは目を瞬かせた。


「……いいの?」

「はい」


 リアは微笑む。


「痛い時は痛い。眠い時は眠い。怖い時は怖い。そう言っていいのです」


 アリシアは、戸惑ったようにクランを見た。


 クランは言葉を探しかける。

 だが、上手い言葉は出てこなかった。


「……そうしろ」


 結局、それだけ言った。


「うん」


 アリシアは小さく頷いた。


 リアは一度部屋を出ると、しばらくして戻ってきた。

 手には、柔らかな白い帽子と、薄い灰色のケープを抱えている。


 帽子は耳まで覆える形で、編み目は細かい。

 ケープの内側は柔らかな布で仕立てられており、外の風を避けるには十分だった。


「これから外へ出る時は、少しだけ工夫しましょうか」


 リアがそう言うと、アリシアは不安そうに帽子を見る。


「……かぶるの?」

「嫌なら、無理には被せません」

「……いたくない?」

「痛くありません。少しだけ試して、嫌ならすぐにやめましょう」


 リアは帽子を両手で持ち、アリシアの返事を待った。

 無理に被せようとはしない。


 アリシアはしばらく帽子を見ていた。

 それから、小さく頷く。


「……うん」


 リアはそっと帽子を被せた。


 雪のように白い髪が、帽子の縁からわずかにこぼれる。

 尖った耳は、柔らかな布の下に隠れた。


 続けてケープを肩にかけると、アリシアの小さな身体はすっぽりと包まれる。


「苦しくありませんか?」

「……うん」

「よかった。すぐに慣れなくても大丈夫です。外に出る時だけで構いません」


 アリシアは自分の頭に手をやり、帽子を押さえた。


「これ、かくすの?」


 リアは少しだけ表情を和らげる。


「守るためです」

「まもる?」

「はい。アリシアを怖がる人もいます。ですが、アリシアが怖いからではありません。知らないものを、人は怖がることがあるのです」


 リアは言葉を選びながら続けた。


「だから、外では少しだけ手伝わせてください。アリシアが、怖い思いをしなくてすむように」


 アリシアはケープの端を握る。


「……リア、やさしい」

「そう思ってもらえるなら、嬉しいです」


 リアは微笑んだ。


「でも、優しさだけではありません。これは必要な用心でもあります」


 クランは、二人を黙って見ていた。


 リアは、アリシアを魔族として扱っていない。

 少なくとも、今この場では。


 怯えやすい子どもとして扱い、寒がる身体を気にし、外へ出た時に傷つかないように考えている。

 それが分かるから、余計に言葉が出なかった。


 しばらくして、リアはクランへ視線を向けた。


「クラン。確認したいことがあります」

「……何だ」

「アリシアが剣に変化する理由について、本当に何もご存じではないのですか?」


 クランはアリシアを見る。

 アリシアは帽子の縁を触りながら、二人の顔を見比べていた。


「……ああ」


 クランは低く答える。


「俺が知っているのは、エラール村の倉庫で見たことだけだ」


 思い出せるのは、閉じ込められていた倉庫。

 扉を塞いでいた結界。


 白い髪の少女。

 そして、手の中に残った漆黒の剣の重み。


「それまでは何も知らなかった」

「分かりました」


 リアは頷いた。

 分からないことを、無理に責めることはしない。


 だが、分からないまま放置するつもりもない。

 そういう目だった。


「少し、お見せしたいものがあります」


 リアは二人を離れに残し、再び本邸へ戻った。


 待っている間、アリシアは帽子を被ったまま寝台に座っていた。

 慣れないのか、時々手で縁を触っている。


「嫌なら外せばいい」


 クランが言うと、アリシアは首を横に振った。


「だいじょうぶ」

「無理するな」

「……リアが、くれた」


 小さな声だった。

 だが、少しだけ嬉しそうだった。

 クランはそれ以上、何も言わなかった。


 やがて、リアが一冊の古い文献を抱えて戻ってきた。


 革装丁の分厚い本だった。

 角は擦れ、背には小さな傷がいくつもある。

 長く保管されていたものらしく、開いた時に乾いた紙の匂いがした。


「屋敷の書庫にあったものです。伯爵からお借りしている古い記録の一部ですが」


 机の上に本を置き、リアは慎重に頁をめくる。


 やがて、一枚の絵図の前で手を止めた。

 そこに描かれていたのは、一振りの剣だった。


 漆黒の剣身。

 紫がかった魔力の揺らめき。


 翼のように広がった鍔。

 中央には、闇を抱えたような宝玉が沈んでいる。


 クランの目が細くなった。


 忘れられるはずがない。

 自分の手の中にあった剣と、あまりにも似ていた。


「……これは」


 リアは静かに告げる。


「この記録では、魔剣エレシオンと呼ばれています」


 アリシアが、不思議そうにその名を繰り返した。


「えれしおん……?」


「創世の時代に作られたとされる、伝説上の剣です。神が鍛えたとも、魔の王が残したとも言われています。記録によって由来は異なりますが、共通しているのは一つ」


 リアは、絵図の横に記された古い文字を指でなぞった。


「勇者の聖剣、ルクス・エクスレイと並ぶ、規格外の一振りだということです」


 部屋の空気が、少しだけ冷えた。


 聖剣ルクス・エクスレイ。


 シャルロット・ロア・エクスレイの剣。

 五年前、戦場で白銀の光を放っていた、あの剣。


 その名と並ぶ黒い剣。

 クランは文献から目を離せなかった。


「……これが、アリシアだと言うのか」

「同じものだと断じるには早いです」


 リアはすぐに答えた。

 分からないことを、分かるとは言わない。


「ですが、似すぎています。何の意味もなく、同じ姿になるとは考えにくい。まして、魔剣と呼ばれるものに近い姿へ変化するのです。何も代償がないとも思えません」


 クランの脳裏に、キメラ戦の光景が蘇る。


 折れた剣。

 振り下ろされる異形の腕。

 袖を引いた、小さな手。


 ――つかって。


 アリシアは、そう言った。

 だいじょうぶ、だから、と。

 その言葉に縋ったのは、自分だ。


 クランは無意識に腰へ手をやった。

 そこに、剣はない。


 エラール村で拾い、ここまで使ってきた剣は、キメラとの戦いで折れた。

 刃の半ばから先が宙を舞い、床に突き刺さった光景を、まだ覚えている。


 なくなって初めて、自分がどれほどそれに頼っていたかを思い知った。


 そして、その空白を埋めるように思い出すのは、アリシアが変じた黒い剣の重みだった。

 リアは、その変化を見逃さなかった。


「彼女の身のことを思えば、むやみにあの姿にさせるのは控えるべきです」

「……分かっている」


 クランの声は低かった。

 アリシアが、二人の顔を見比べる。


「わたし、けん、だめ?」


 クランはすぐに答えられなかった。


 だめだ。

 そう言えばいい。


 だが、あの剣がなければ、エラール村からは出られなかった。

 キメラとの戦いでは、守れなかった命があるかもしれない。


 その事実が、喉に引っかかる。

 先に口を開いたのは、リアだった。


「だめ、ということではありません」


 アリシアが顔を上げる。


「でも、簡単に使ってよい力でもありません。アリシアが痛くなるかもしれないからです」

「いたく……?」

「はい」


 リアは、アリシアの目を見て言った。


「だから、もし剣になれるとしても、クランが困っているからといって、すぐに無理をしないでください」


 アリシアは少し考えた。

 それから、クランを見る。


「クラン、こまったら?」


 クランは短く息を吐く。


「困ってもだ」

「……だめ?」

「ああ」


 それだけでは足りない気がした。


 クランは言葉を探す。

 うまく出てこない。


 それでも、言わなければならないことだけは分かっていた。


「おまえがどうなるか分からないなら、使わせない」


 アリシアは目を丸くする。


「……どうなる?」

「分からない」


 クランは続けた。


「だから、簡単には使うな」


 アリシアは黙った。

 怒られたと思ったのか、帽子の縁を握る。


 それを見て、リアがそっとアリシアの頭に触れた。


「クランは、アリシアを責めているのではありません。心配しているのです」

「しんぱい」

「はい」


 アリシアはもう一度、クランを見る。


「クラン、しんぱい?」

「……ああ」


 クランは視線を逸らさずに答えた。


「してる」


 アリシアは少しだけ頬を緩めた。

 笑ったのかどうか分からないくらいの、小さな変化だった。


 リアは文献を閉じた。


「この件は、くれぐれも内密に。魔剣と関わる少女の存在など、不用意に広げるべきではありません」

「言いふらすつもりはない」

「わかっています」


 リアはそう答えた。

 その言葉に、クランは少しだけ目を伏せる。


 信じている、という意味なのか。

 監視している、という意味なのか。


 おそらく、どちらもだ。


「……グローリー卿」


 その呼び方に、リアがわずかに瞬いた。


「どうしたのです。急に」


 クランは言葉を選んだ。


「いろいろ、迷惑をかけた」


 短く、息を吐く。


「すまない」


 リアは一瞬、意外そうに目を開いた。

 それから、少しだけ困ったように笑う。


「謝られるとは思っていませんでした」

「……俺も、言うつもりはなかった」

「では、なぜ?」


 クランは答えに迷った。


 帽子を被ったまま、こちらを不思議そうに見ているアリシア。

 その少女を怖がらせないように言葉を選んでいたリア。


 その二人を順に見て、低く言う。


「……必要だと思った」


 それだけだった。


 リアはしばらく黙っていた。

 やがて、静かに頷く。


「私自身、すべてに納得できているわけではありません」


 そう言って、ほんのわずかに目を伏せる。


「ですが、誰にでも、すぐには言えないことがありますから」


 その言葉は、クランへ向けられている。

 同時に、彼女自身へ向けられているようにも聞こえた。


 だが、クランは追及しなかった。


「それと」


 リアは表情を戻し、少しだけ明るい声を出した。


「何ですか、その呼び方は」

「呼び方?」

「グローリー卿、です」


 クランは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。


「俺は、小姓になるんだろう」

「仮の立場です」

「世話になる身だ。あんたや、おまえというわけにはいかない」

「そこは気にするのですね」


 リアが小さく苦笑する。


「意外でした」

「……俺にも、最低限の礼儀くらいはある」

「では、その礼儀として、私のことは名前で呼んでください」


 クランが眉をひそめる。


「名前?」

「はい。リアで構いません。今になってグローリー卿と呼ばれる方が、かえって距離を感じます」

「しかし……」

「リアですよ。クラン」


 穏やかな声だった。

 けれど、そこに譲る気配はなかった。


 クランは黙った。


 名前を呼ぶ。

 ただそれだけのことが、なぜか剣を抜くより難しく感じた。


 リアは急かさない。

 アリシアも、帽子の縁を握ったまま二人を見ている。


 沈黙が落ちた。

 長くはない。


 けれど、クランにとっては十分に長かった。


「……リア」


 ようやく、そう呼んだ。


 呼んだ瞬間、自分でも少しだけ息が詰まる。

 クランは視線を逸らした。


「よろしく頼む」


 リアは少しだけ目を見開いた。

 それから、静かに微笑む。


「はい。よろしくお願いします、クラン」


 アリシアが二人を交互に見た。


「リア」

「はい」

「わたしも、はたらく」


 リアが目を瞬かせる。


「働く、ですか?」

「うん。クラン、はたらく。わたしも」


 クランはわずかに眉を寄せた。


「おまえは休め」

「やだ」


 アリシアにしては、珍しくはっきりした返事だった。

 リアは小さく笑う。


「では、まずはしっかり食べることからですね」

「たべるの、しごと?」

「はい。今のアリシアにとっては、とても大切な仕事です」


 アリシアは真剣に頷いた。


「わかった。たべる」

「よろしい」


 リアは微笑み、それからクランを見る。


「クランもです」

「俺もか」


「はい。明日からは屋敷での仕事も覚えていただきます。伯爵への追加報告が必要になることもあるでしょうし、剣のことも相談しなければなりません」


 クランは、もう一度だけ腰へ手をやった。

 やはり、そこには何もない。


 リアはその視線を見ていた。


「ワトル騎士団に確認して、貸与できる剣を用意します。ひとまず、貴方が丸腰でいる状態は避けるべきです」

「……いいのか」

「監視対象に無防備でいられるのも困ります。ですが、それ以上に」


 リアは、寝台の上のアリシアへ目を向けた。


「アリシアに頼らざるを得ない状況を、できるだけ避けたいのです」


 クランは黙った。

 その言葉は、先ほどの文献よりも重く胸に残った。


「……そうか」


 それだけ答える。

 リアも、それ以上は言わなかった。


 窓の外では、夕暮れの光が庭に落ちていた。


 戦いが終わったわけではない。

 何も解決していない。


 アリシアが何者なのかも、この記録にある魔剣エレシオンが何を意味するのかも分からない。


 それでも、今この部屋には、食事を仕事だと真剣に受け止めた小さな少女がいて、その少女のために白い帽子を選んだ騎士がいて、ぎこちなく名前を呼んだ男がいた。


 クランは、それを安全とは思わない。


 ただ、少なくとも今は。

 この場所で、アリシアは怯えずに息をしている。


 それだけは、確かだと思えた。


 ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


 もしよろしければ、ブックマークや応援をいただけると、これからの作品作りの大きな励みになります。


 次回もよろしくお願いいたします。

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