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第31話 管理すべき者

 

 城下に残る熱は、まだ消えていなかった。


 ルクレール侯爵の宣言。

 聖騎士シャルロットの言葉。


 ベルダイル侯爵への怒り。

 エラール村で起きた惨劇への悲憤。


 それらは民の声となり、夜の街にまだ渦巻いている。

 だが、騎士長室の中に、その熱は届いていなかった。


 整えられた机。

 積まれた報告書。


 壁際に控える白銀の鎧。

 そして、淡い光を返す聖剣。


 シャルロット・ロア・エクスレイは、窓辺に立っていた。


 銀の髪が室内の灯りを受け、静かに揺れている。

 深い紫の瞳には、城下の熱も、民の歓声も、ほとんど映っていない。


 彼女が見ているのは、今この瞬間ではなかった。


 戦場。

 諸侯。


 ベルダイル。

 ワトル伯爵領。


 そして、マルム方面で起きた異変。


 扉が叩かれた。


「どうぞ」


 穏やかな声だった。

 扉が開き、二人が入ってくる。


 一人は、白衣に似た上着を羽織った男。


 ゲイツ・ヴァルグ。


 軽薄そうな笑みを浮かべているが、その目だけは妙に澄んでいる。

 善悪ではなく、興味だけで世界を見ているような目だった。


 もう一人は、黒灰の外套をまとった少女だった。

 騎士長室へ入ると、少女は静かにフードを下ろした。


 淡い灰銀の髪が、肩のあたりへ、こぼれる。

 薄い灰色の瞳は、何も映していないようでいて、底の見えない水面のように沈んでいた。


 肌は白く、血の気が薄い。

 整った顔立ちは可憐だったが、その静けさは、生きた少女というより壊れかけた人形を思わせた。


 そこにいるのに、気づくのが遅れる。


 気配が薄いのではない。

 世界の方が、彼女を見落としてしまうようだった。


 シャルロットは机へ戻る。


「マルム方面の件ですね。聞かせてください」


 ゲイツが肩をすくめた。


「いやあ、惜しい結果になりました。実に、惜しい」

「惜しいかどうかは、後で判断します」


 シャルロットの声は変わらない。


「まず、何が起きたのかを聞かせてください」


 責めているわけでも、急かしているわけでもない。

 だからこそ、ゲイツは笑みを深めた。


「運用していた主個体は破壊されました。再生も阻害されています。切断面から見て、術式の再構成そのものが拒まれたような状態でした」

「黒い剣が、再生を止めたのですね」

「ええ。しかも、あの少女は剣へ変じました。肉体と武装の境界が、目の前でほどけたんです」


 ゲイツの声には、隠しきれない熱があった。


 人が傷ついたことへの怒りではない。

 実験体を失った悔しさでもない。


 未知の現象を目にした者の、純粋な興奮だった。


 シャルロットの指が、机上の報告書に触れる。


「人の姿から、剣へ」

「魔族でしょうか。あるいは、魔族に近い何かか。どちらにせよ、実に興味深い」


 ゲイツは愉快そうに言った。


「僕としては、壊さずに回収したいですね。剣としても、少女としても」


 ノエラの指が、外套の下でかすかに強張った。

 それだけだった。


 だが、薄灰色の瞳が、わずかにゲイツから逸れる。

 ゲイツはそれに気づいたのか、楽しそうに視線を向けた。


「おや。怖がらせましたか?」

「……別に」

「では、嫌われましたか」

「……近寄らないで」


 短い声だった。

 怒りではない。


 嫌悪ですら、ほとんど形になっていない。

 それでも、拒絶だけは確かだった。


「ゲイツ」


 シャルロットが名を呼ぶ。

 それだけで、ゲイツは肩をすくめて口を閉じた。


「研究のためではありません。危険を管理するためです」

「もちろんですとも」


 ゲイツは素直に頷いた。

 その素直さが、どこまで本心なのかは分からない。


 シャルロットは、それ以上追及しなかった。


「魔族だから危険なのではありません」


 静かな声が、室内に落ちる。


「誰の手にも収まらない力が、危険なのです」


 ゲイツの笑みが、ほんの少し薄くなった。

 ノエラは動かない。


「人も、魔族も、正しさを間違えます。だからこそ、間違える前に整える必要があります」


 言い終えたシャルロットの指先が、傍らの聖剣の柄に触れた。


 ほんのわずか。

 意識の奥を、赤い光がかすめる。


 倒れた誰か。

 伸ばされた手。

 届かなかった声。


 次に瞼を開いた時、シャルロットの瞳には何も残っていなかった。


「残っていた個体は、どうしましたか」


 問われ、ノエラが口を開く。


「処理しました」

「痕跡は」

「残していません」


 短いやり取りだった。

 だが、それだけで十分だった。


 ノエラが何をしたのかを、詳しく説明する必要はない。

 シャルロットも、ゲイツも、それ以上を求めなかった。


「救出された者たちの状態は」

「多くは生存。村へ搬送されています」

「そうですか」


 シャルロットは一度だけ目を伏せる。

 それは安堵にも、哀悼にも見える仕草だった。


 だが、次に顔を上げた時には、すでに次の情報へ意識が移っていた。


「騎士クランは、そこにいましたか」


 ノエラの声が、そこでわずかに遅れた。


「……いました」


 シャルロットは視線を上げる。

 ノエラは淡々と続けた。


「生きています。負傷はありますが、動けます」

「黒い剣は」

「使っていました。少女が変じたものと見て、間違いありません」


 シャルロットは、机上の地図へ目を落とした。


「彼は、その少女をどう扱っていましたか」


 ノエラは、すぐには答えなかった。

 沈黙は長くない。


 それでも、その短い間だけ、部屋の空気がわずかに重くなった。


「……守っていました」


 その一言だけ、報告よりも低く聞こえた。


「戦い方は」

「正統な騎士の動きではありません。使えるものは使う。以前と戦い方は、変わっていません」


 そこで、ノエラの声がかすかに沈む。


「けれど、守るものを決めているように見えました」


 ゲイツが、興味深そうにノエラを見る。

 シャルロットは、表情を変えない。


「彼は、貴女を見ましたか」


 ノエラの薄灰色の瞳が、わずかに伏せられる。


「いいえ」


 短い答え。

 それから、小さく付け加えた。


「……私には、気づきませんでした」


 室内に、静けさが落ちる。

 ゲイツは何かを言いかけたが、シャルロットの視線を受けて口を閉じた。


「その感情は、任務に影響しますか」


 シャルロットの声は優しい。

 だからこそ、言葉の意味だけが冷たかった。


 ノエラは顔を上げない。


「任務には、関係ありません」

「なら、問題ありません」


 シャルロットは頷いた。

 その肯定は、慰めではなかった。


 ノエラの感情を認めたのではなく、任務に支障がないものとして整理しただけだった。

 ノエラも、それ以上は言わない。


 シャルロットは机上の地図を広げる。


 ルクレール。

 ベルダイル。


 マルム。

 ワトル伯爵領。


 そして、エラール村。

 細い指先が、エラール村の名の上で止まった。


「エラール村の倉庫から出た時点で、見直すべきだったのかもしれません」


 ゲイツの目が細まる。


「結界の件ですか」

「ええ。クラン本人の力として処理していましたが、黒い剣の存在を加えれば、見え方が変わります」


 シャルロットの指先が、次にマルム方面へ移る。


「黒い剣。魔族の少女。再生を阻む力」

「偶然として片づけるには、要素が揃いすぎています」


 ゲイツは楽しげに笑った。


「では、クランを優先して処理しますか?」

「その段階ではありません」


 即答だった。


「クラン個人を、最優先の脅威と見る必要はありません」


 ノエラの視線が、ほんの少しだけ動いた。


 シャルロットはそれにも気づいている。

 だが、触れない。


「問題は、彼自身よりも、彼の周囲に集まり始めているものです」


 黒い剣になる少女。

 エラール村の倉庫で結界を破った力。

 マルム方面の実験体を断ち切った異質な刃。


 ワトル伯爵領。

 そして、クランと行動する若い騎士。


「彼だけを見ていては、見誤ります」


 シャルロットは地図から目を離さない。


「管理すべきものが、人だけとは限りません」


 ゲイツは、肩を震わせるように笑った。


「管理。いい言葉ですね」

「ゲイツ」


 シャルロットは、静かに名を呼ぶ。


「言葉を都合よく解釈しないでください」

「分かっていますとも」


 まるで分かっていない声だった。

 シャルロットは、次の報告書を取る。


「騎士クランと行動していた女性については」


 ノエラが答える。


「若い女騎士です。ワトル伯爵に仕える騎士と思われます。剣の腕はあります」

「名は」

「リア・グローリー」


 シャルロットは、その名を静かに繰り返した。


「グローリー」


 それから、地図上のワトル伯爵領へ視線を落とす。


「ワトル伯爵の庇護下にある者、と見るべきでしょう」

「はい」

「素性の確認を。急ぐ必要はありませんが、放置もしません」

「承知しました」


 シャルロットは報告書の端に、その名を書き留める。


 今見るべきは、リア・グローリーという個人ではない。

 ワトル伯爵領が、何を抱え込んでいるかだった。


「ノエラ」

「はい」

「貴女には、引き続き騎士クランの周辺を見てもらいます」

「……はい」

「必要がなければ、接触しなくて構いません」


 シャルロットは、穏やかに続ける。


「彼が何を守ろうとしているのか、見てきてください」


 ノエラは沈黙した。


 何を守るのか。

 その言葉が、彼女の内側のどこかを静かに押した。


 クランが守るもの。

 クランが見ているもの。

 クランが、今度は手を伸ばしたもの。


「分かりました」


 声は変わらない。

 だが、外套の下で握られた指だけが、わずかに白くなっていた。


 シャルロットは穏やかに言う。


「無理はしなくて構いません」


 ノエラは顔を上げない。


「必要な時に、必要なことをしてください」


 その言葉に、ノエラがゆっくりと顔を上げた。


「私は、必要ですか」


 小さな問いだった。


 ゲイツが視線を向ける。

 だが、何も言わない。


 シャルロットは、少しも迷わず答えた。


「ええ」


 その声は優しかった。


「貴女は、私に必要です」


 ノエラの瞳に、ほんのわずかに光が落ちた。


 それは救いのようにも見えた。

 同時に、鎖のようにも見えた。


 再び扉が叩かれる。


「どうぞ」


 入ってきたのは、フェルナンドだった。

 彼は部屋にいる三人を一瞥し、すぐにシャルロットへ視線を向ける。


「前線の配置が整いました。ベルダイル軍にも動きがあります」

「予定通りですね」

「前線維持用の強化兵についても、配置を進めています」


 ノエラは何も言わない。

 ゲイツは楽しそうに眉を上げる。


 シャルロットは、ただ頷いた。


「無為に兵を死なせるより、備えを与えるべきです」


 その声は、民へ向けた演説と同じように澄んでいた。


「必要な措置です」


 フェルナンドは短く頭を下げる。


「承知しました」


 必要な措置。

 その言葉は、部屋の中で何にもぶつからず、静かに沈んでいった。


 城下では、まだ民の声が遠く響いている。


 ルクレールは立つ。

 ベルダイルを拒む。


 王家への忠義を掲げ、正義のために剣を取る。

 その熱を背に、シャルロットは地図の上へ視線を落とした。


 ルクレール。

 ベルダイル。


 ワトル伯爵領。

 エラール村。


 黒い剣を持つ逃亡騎士。

 剣に変わる魔族の少女。


 そして、その周囲に集まり始めた者たち。


 すべては、まだ整えられる。

 シャルロットはそう判断した。


「混乱は、広がる前に整えましょう」


 白銀の聖剣が、静かに光を返した。


 ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


 もしよろしければ、ブックマークや応援をいただけると、今後の執筆の大きな励みになります。


 次回もよろしくお願いいたします。

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