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第30話 正義の火



 鐘の音が、ルクレールの城下に響いた。


 それは、いつもの時を告げる鐘ではなかった。

 人を集めるための鐘だった。


 大通りには、すでに多くの民が詰めかけている。


 荷を下ろしたばかりの行商人。

 幼い子の手を引いた母親。


 杖を突く老人。

 仕事の手を止めた兵。


 誰もが同じ方角を見上げていた。


 城へ続く道の先。

 城下を見下ろすバルコニー。


 以前にも、人々は同じ場所に集まったことがある。

 あの時、民衆の顔にあったのは不安だった。


 王なき国がどこへ向かうのか。


 ベルダイル侯爵が王を名乗ったことで、この地に何が起きるのか。

 誰にも、はっきりとは分からなかったからだ。


 だが、今は違う。

 不安だけではない。


 怒りがあった。

 まだ一つの形にはなっていない。


 誰に向ければいいのかも定まっていない。

 それでも、確かにそこにあった。


 エラール村が焼かれた。

 その噂は、朝を待たずに城下へ広がっていた。


 小さな村だった。

 貧しい村だった。


 強い兵を抱える村でも、豊かな蓄えを持つ村でもない。

 だが、そこにも人がいた。


 家族があり、子どもがいて、明日を待つ者たちがいた。

 その村が、一夜にして焼かれた。


 誰がやったのか。

 なぜ、そんなことが起きたのか。


 答えを持たないまま、人々は集まっていた。

 答えを求めて。


 そして、自分たちの中に生まれた怒りの行き先を求めて。

 やがて、ざわめきが大きくなる。


 バルコニーに、二つの影が現れた。


 アランス・ルクレール侯爵。


 そして、ルクレール騎士団騎士長にして聖騎士。

 シャルロット・ロア・エクスレイ。


 その姿が見えた瞬間、広場の空気が変わった。

 先ほどまであちこちで揺れていた声が、波のように引いていく。


 誰かが命じたわけではない。

 兵が怒鳴ったわけでもない。


 ただ、シャルロットがそこに立った。

 それだけだった。


 銀の髪が光を受け、静かに揺れる。


 白を基調とした騎士装は、陽を受けても派手に輝くことはない。

 ただ清らかに、乱れなく、そこに在る。


 整いすぎたほどの顔立ちに、怒りは浮かんでいなかった。


 誇りもない。

 悲しみを押しつけるような表情もない。


 ただ、静かに民衆を見ていた。

 それだけで、人々は自然と口を閉ざしていく。


 シャルロットは胸に右手を当て、ゆっくりと城下を見渡した。

 その視線は、群衆全体へ向けられているはずだった。


 けれど、見上げる者たちは思ってしまう。

 今、自分を見てくれたのだと。


 自分の不安を、自分の怒りを、知ってくれているのだと。


「皆さん。お集まりいただき、ありがとうございます」


 拡声魔法によって広がった声は、今日も澄んでいた。


 強くはない。

 だが、広場の隅まで届く声だった。


「すでに耳にされた方も多いでしょう。エラール村で、痛ましい事件が起きました」


 広場がざわめく。

 泣き声にも似た息が、あちこちから漏れた。


 シャルロットはそれを遮らない。


 ただ、待った。


 人々が、自ら声を収めるまで。


「エラール村は、ベルダイル領に近い小さな村です。豊かな土地ではありません。強い兵を抱える場所でもありません」


 彼女は一つずつ、言葉を置いていく。


「そこに暮らしていたのは、日々を懸命に生きる民でした」


 誰かが息を呑んだ。


「その村が、一夜にして焼かれました」


 重い沈黙が落ちる。


「命を奪われた方々がいます。家を失った方々がいます。明日を迎えるはずだった人々の暮らしが、踏みにじられました」


 シャルロットは目を伏せる。

 その仕草は、祈りのように見えた。


「私たちは、ベルダイル侯爵の宣言に対し、なお争いを避ける道を探ろうとしていました」


 そして、顔を上げる。


「先日もお伝えしましたが、アルゼオス・ベルダイル侯爵は、リシュア王女殿下がすでに亡くなられたと断じ、自らが次の王であると宣言しました。そして国内すべての領主に対し、自らへの忠誠を求めています」


 どよめきが広がる。


 それはすでに知られていた事実だった。

 だが、シャルロットの口から告げられることで、噂ではなく現実として民衆の胸に落ちていく。


「それでも、私たちはすぐに剣を取るべきではないと考えていました。争いを避ける道があるのならば、探すべきだと」


 穏やかな声だった。

 だからこそ、次の言葉は広場の奥まで染み込んだ。


「ですが、その最中に、エラール村の悲劇は起きました」


 誰も動かない。


「これを偶然と断じることは、できるでしょうか」


 責める声ではなかった。

 断定でもなかった。

 ただの問いだった。


 けれど、その問いは、人々の中にすでにあった答えへと静かに触れていく。


「私には、今ここで全てを断じることはできません」


 シャルロットはそう言った。


「ですが、見過ごすこともできません」


 その瞬間、民衆の中から声が上がった。


「エラールに親戚がいたんだぞ……!」


 震えた男の声だった。


「子どももいた村だろう!」

「何でそんなことができるんだ!」

「次は俺たちの村かもしれないじゃないか!」


 怒りが広がっていく。

 最初は、ばらばらだった。


 恐怖。

 悲しみ。

 戸惑い。

 疑い。


 だが、それらは少しずつ同じ方向へ流れ始める。


「ベルダイルの兵がやったのか!」

「許せるか!」

「黙っていれば、また同じことが起きるぞ!」


 熱が上がる。

 恐怖が怒りに変わり、怒りが言葉を持つ。


 シャルロットは叫ばない。

 腕を振り上げることもしない。


 ただ、その声を受け止めるように立っていた。

 やがて、彼女は静かに口を開く。


「皆さん」


 不思議なほど、その一言だけで声が収まっていく。


「私は、戦いを望みません」


 広場に、静けさが戻った。


「命が奪われることを望みません。誰かが家や大切な人を失い、涙を流す未来を望みません」


 その言葉は優しかった。

 聞く者には、確かにそう響いた。


「ですが」


 彼女は、もう一度民衆を見渡す。


「守るために、剣を取らねばならない時があります」


 声は変わらず穏やかだった。


「目を逸らせば、同じ悲劇が繰り返されるかもしれません。今、私たちが沈黙を選べば、次に焼かれる村は別の場所かもしれません。そこで泣くのは、皆さんの家族かもしれません」


 息を呑む音が広がる。


「恐れから戦うのではありません」


 シャルロットは胸に当てた手に、わずかに力を込めた。


「憎しみのために戦うのでもありません」


 そして、静かに告げる。


「守るために、立つのです」


 その言葉が落ちた瞬間、広場の熱が一つの形を持った。


「聖騎士様の言う通りだ!」

「守るために戦うんだ!」

「ベルダイルに従うな!」

「ルクレールは戦うべきだ!」


 声が重なる。


 民衆の怒りは、もう散らばっていなかった。

 それは、ひとつの方向を向いていた。


 そこで、アランス・ルクレール侯爵が一歩前へ出る。

 彼は一度、隣に立つシャルロットを見た。


 シャルロットは何も言わない。

 ただ、静かに頷く。


 アランスは群衆へ向き直り、手を掲げた。


「聞け、ルクレールの民たちよ!」


 力強い声が広場に響いた。


「我らは王家に忠義を尽くす者である! 王女殿下の死を勝手に断じ、己こそ王だと名乗る者に、膝をつくことなどできぬ!」


 歓声が上がる。


「アルゼオス・ベルダイル侯爵からの要求を、ルクレールは断固として拒絶する!」


 声が、さらに大きくなる。


「我らは偽りの王に従わぬ! 王家への忠義を守り、この地を守り、民を守るために立つ!」


 拳が突き上がる。


 泣きながら叫ぶ者がいた。

 怒りに顔を歪める者がいた。

 ただ流されるように声を上げる者もいた。


 その全てが、ひとつの大きなうねりとなって城下を満たしていく。


 シャルロットはその隣で、静かに民衆を見ていた。


 彼女は煽っていない。

 誰の目にも、そう見えた。


 民の不安を受け止め、怒りを否定せず、守るための道を示しただけ。

 だからこそ、人々は、自分たちの意思で立ったのだと思えた。


 ――正義は、ここにある。


 誰かがそう叫んだ。

 その声に、さらに大きな歓声が重なる。


 こうして、ルクレールの民の心は一つに束ねられていった。


 表向きは。


 ◇


 シャルロットがバルコニーから下がると、外の歓声は少し遠くなった。


 厚い扉一枚を隔てただけで、熱は別のものに変わる。

 城内の空気は冷たく、整っていた。


 室内には、すでにアランス・ルクレール侯爵が戻っている。

 その後ろには、副騎士長フェルナンド。

 そして、プレデリカ・ヴァン・アズワールが控えていた。


 アランスは満足げに息を吐く。


「見事だった、シャルロット」


 その声には、隠しきれない高揚があった。


「民の心は一つになった。あれならば、ベルダイルに対しても揺らぐまい」


 シャルロットは静かに頭を下げる。


「私は、皆さんの心にあるものを言葉にしただけです」

「謙遜するな。お前の言葉だからこそ、届いたのだ」


 アランスは外から聞こえる歓声に耳を傾けた。


 まだ続いている。

 怒りと熱狂が、城壁の外から押し寄せてくるようだった。


「それにしても、エラール村の件は本当に痛ましい」


 アランスの声が、少し低くなる。


「ベルダイルも、恐ろしいことをするものだな」


 その言葉に、室内の空気がわずかに動いた。


 フェルナンドは何も言わない。

 ただ、口元だけがわずかに緩んでいた。


 プレデリカは姿勢を崩さなかった。


 騎士として、そこに立っている。

 だが、扉の向こうから歓声が響くたび、胸の奥で何かが軋んだ。


 彼らは知らない。

 何も知らずに、正義を叫んでいる。


 その声が大きくなるほど、足元の床が少しずつ沈んでいくような感覚があった。

 シャルロットは穏やかに目を伏せる。


「ええ。二度と繰り返してはならない悲劇です」


 声は静かだった。

 揺れも、濁りもない。


「だからこそ、私たちは備えなければなりません」


 アランスは深く頷く。


「うむ。すぐに兵の編成を進める。民も覚悟を固めつつある。徴発や物資の供出にも協力的になるだろう」


「避難路の確認も必要です」


 シャルロットは柔らかく続けた。


「戦うためだけではありません。守るために、民を逃がす道も整えておくべきでしょう」

「そうだな」


 アランスは再び頷く。


「守るための戦だ。備えは怠れん」


 守るため。

 その言葉が、プレデリカの胸に落ちる。


 正しい言葉だった。

 誰が聞いても、そう思うだろう。


 民を守るために戦う。

 悲劇を繰り返さないために備える。


 そのどこにも、間違いはない。

 だからこそ、息が苦しかった。


「フェルナンド」


 アランスが振り返る。


「各隊の編成はどこまで進んでいる」


「主要部隊の再編は本日中に完了します。領境方面へ向かわせる先遣隊についても、すでに候補を絞っています」


 フェルナンドの返答は淀みなかった。


「また、エラール村周辺の調査記録は整理済みです。ベルダイル側の痕跡についても、民へ示すには十分かと」


 民へ示すには十分。

 その言い方に、プレデリカの指がわずかに動いた。


 証拠ではない。

 真実でもない。


 民へ示すには十分なもの。

 それが今、この場では意味を持っている。


 アランスは気づかない。

 あるいは、気にしていない。


「よい。兵と民の不安を長引かせるな」

「承知しております」


 フェルナンドは頭を下げる。

 シャルロットは静かに彼を見る。


「領境へ向かう部隊には、混乱を避けるため、指揮系統を明確にしてください」

「はい」

「兵たちは怒りで動いています。ですが、怒りだけでは戦線は維持できません」


 穏やかな声だった。

 ただし、その内容は冷静だった。


「補給、伝令、退路。いずれも再確認を」

「すでに着手しています」

「ありがとうございます」


 シャルロットは微かに頷いた。

 そのやり取りは、何も不自然ではなかった。


 戦が迫っている。

 民が怒っている。

 兵が動く。


 ならば、指揮官は備える。

 ただ、それだけだ。


 けれど、プレデリカには、その正しさがひどく冷たく感じられた。


「プレデリカ隊長」


 名を呼ばれ、彼女は姿勢を正す。


「はい」


 シャルロットの紫の瞳が、まっすぐに向けられる。


「領境へ向かう部隊の一部を、貴女にも指揮していただきます」


 声は穏やかだった。


「エラール村での現場対応を踏まえ、兵の動揺や規律の乱れにも注意してください。現場の状態を最も把握しているのは、貴女でしょうから」


 責める響きはない。

 疑う響きもない。


 むしろ、信頼して任せているように聞こえた。

 それが、かえって胸を締めつける。


 現場の状態。

 その言葉の中に、焼けた家も、倒れた人々も、逃がした背中も、すべて含まれているように思えた。


「承知しました」


 プレデリカは短く答える。


 言葉は崩さない。

 姿勢も崩さない。


 それでも、胸の奥で何かが確実に変わっていく。


 フェルナンドが横目で彼女を見る。

 何も言わない。

 ただ、口元に残ったわずかな笑みだけが消えていなかった。


 外の歓声は、まだ続いている。


 王家への忠義。

 民を守る正義。


 ベルダイルへの怒り。

 それらが一つに混ざり合い、城下を満たしていた。


 シャルロットは窓辺へ歩み寄る。

 眼下に広がる民衆を見下ろし、静かに目を細めた。


 その表情は、どこまでも穏やかだった。

 誰の目にも、聖騎士として相応しいものに見えただろう。


 正しく、優しく、民を導く英雄。

 その姿を疑う者は、この場にほとんどいない。


 ただ一人。

 プレデリカだけが、拳を握りしめていた。


 声は上げない。

 顔にも出さない。


 だが、爪が掌に食い込むほど、強く。


 正義の名で、戦いの火は灯された。

 その火が何を焼くのかを、まだ誰も知らない。


 ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


 もしよろしければ、ブックマークや応援をいただけると、今後の執筆の大きな励みになります。


 次回もよろしくお願いいたします。

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