第29話 踏み込む者
扉が静かに閉じられた。
廊下の気配が遠のき、部屋には重い静けさだけが残る。
クランは、その場に立ったまま、正面の男を見た。
イグレート・ワトル伯爵。
マルムを治める領主であり、かつて剣聖と呼ばれた武人貴族。
騎士団にいた頃、その名は何度か耳にしたことがある。
王族へ剣を教えたほどの腕を持ちながら、近年は貴族同士の争いから距離を置いている男。
そう聞いていた。
だが、目の前の男は、噂の中の人物とは少し違って見えた。
武名を誇る気配はない。
椅子に腰を下ろし、静かにこちらを見ているだけだ。
それなのに、軽く扱える隙がない。
剣を抜いているわけでもない。
声を荒げているわけでもない。
ただ、そこにいる。
それだけで、部屋の空気が形を変える。
クランは、自然と背筋を正していた。
ワトルはしばらく何も言わなかった。
沈黙は長くない。
だが、その短い時間で、クランは測られていると感じた。
傷の残る頬。
剣のない腰。
疲れ切った身体。
それでも逃げようとはしない目。
どこまで見られているのかは分からない。
だが、何も見落とされてはいない気がした。
やがて、ワトルが口を開いた。
「クラン、と言ったな」
「……はい」
短く答える。
相手は伯爵だ。
クランの声には、自然と敬語が混じった。
「リアから、おおよその話は聞いた」
ワトルは机の上に置かれた報告紙へ、視線を落としながら続ける。
「そのうえで、いくつか確かめる」
「はい」
「エラール村の件だ」
その名が出た瞬間、部屋の空気が少しだけ冷えた。
クランは動かない。
ワトルの目も逸れない。
「誰の命令だった」
問いは短かった。
言い逃れを許さない声ではない。
ただ、余計な言葉を求めていない声だった。
クランは一瞬だけ間を置く。
ゆっくりと思い出す。
燃える村。
倉庫。
結界。
白い髪の少女。
そして、冷たい声で命令を告げた男。
「フェルナンド副騎士長から指示を受けました」
ワトルは黙って聞いている。
「村に残った者を、一人も残すなと」
言葉にすると、改めて重かった。
だが、飲み込むわけにはいかなかった。
「騎士長や侯爵が、どこまで関与していたかは分かりません。副騎士長は、上層部の判断だと言っていました」
「おまえ自身は、どう受け取った」
「……組織の命令だと」
クランは答える。
「少なくとも、フェルナンド副騎士長の独断だけには見えませんでした」
ワトルは小さく頷いた。
肯定ではない。
情報として受け取っただけの動きだった。
「おまえは、その命令に従わなかった」
「はい」
「なぜだ」
クランはすぐには答えなかった。
理由は、ひとつではない。
言葉にできないものもある。
命令が間違っていたから。
村人を殺したくなかったから。
アリシアを見つけたから。
あの少女が、討つ相手には見えなかったから。
どれも嘘ではない。
だが、どれか一つだけで説明できるものでもなかった。
「……できませんでした」
結局、出てきたのは短い言葉だった。
ワトルは目を細める。
「正しいと思わなかったからか」
「分かりません」
クランは正直に答えた。
「正しいかどうかを考える前に、自分には無理だと思いました」
「無理、か」
「はい」
クランは視線を落とさない。
「残った人間を殺せと言われた。倉庫にはアリシアがいた。怯えて、腹を空かせていました」
そこで一度、言葉が止まる。
「俺には、斬れませんでした」
ワトルは何も言わない。
クランの声は続く。
「それだけです」
弁明としては足りない。
騎士としての説明にもなっていない。
だが、それ以上に立派な言葉を並べる気にはなれなかった。
ワトルはしばらく黙っていた。
やがて、別の問いを向ける。
「旧開拓村跡地で戦ったという紋章の魔物。あれをどう見る」
「……分かりません」
クランは短く答えた。
「ただの魔物ではありません。人の手が入っていました。再生し、紋章で動かされていた」
「ゲイツ・ヴァルグという男については」
「本人がそう名乗りました」
「ルクレールの者か」
「分かりません」
すぐに断定はしない。
「ですが、エラール村で見たフードの騎士が、旧開拓村跡地にも現れました。ゲイツを連れて消えた。無関係とは思えません」
ワトルは一瞬だけ、指先で机を叩いた。
小さな音だった。
「そのフードの騎士に、心当たりは」
クランの胸の奥が、わずかに軋む。
炎の向こうに立っていた影。
旧開拓村跡地で聞いた声。
──まだ、分からないんだね。
あの言葉は、今も耳の奥に残っている。
「……ありません」
そう答えてから、クランは続けた。
「ないはずです」
ワトルの視線がわずかに鋭くなる。
「曖昧だな」
「はい」
「嘘をついているのか」
「違います」
クランは即答した。
「分からないだけです」
それが一番近かった。
何かがある。
だが、形にならない。
記憶の奥に引っかかったまま、名前にも顔にもならない。
ワトルはそれ以上、その場では追及しなかった。
次に向けられた問いは、もっと重かった。
「アリシアという少女についてだ」
クランの目が、わずかに動く。
「魔族なのだな」
「……その可能性は高いと思います」
「耳を見たのか」
「はい」
「それでも保護した」
「はい」
「騎士としては、討伐対象ではないのか」
「……そう教えられました」
「ならば、おまえのしたことは、騎士の規律から外れている」
「はい」
クランは否定しない。
ワトルは、そこで初めて少しだけ背を預けた。
「命令違反。討伐対象である可能性のある魔族の独断保護。さらに、所属を離れたまま、この領内で紋章魔物の事件に関わっている」
事実が一つずつ並べられる。
そこに怒りはない。
だからこそ、逃げ道がない。
「どれも、騎士としては失格だ」
「……はい」
クランは受け止めた。
言い返す言葉はなかった。
自分が正しい騎士だとは、もう思っていない。
ルクレールへ戻る道もない。
命令に背き、同僚へ剣を向け、魔族の少女を連れて逃げた。
そう見られるのが当然だった。
短い沈黙。
その後で、ワトルは静かに言った。
「だが、民を守ろうとしたことまで否定するつもりはない」
クランは顔を上げる。
ワトルの表情は変わらない。
だが、その言葉だけは、先ほどまでと違っていた。
「エラール村で何があったのか、全てをこの場で確かめることはできん。おまえの証言だけで、ルクレールを断じることもできない」
その声は、領主のものだった。
「だが、旧開拓村跡地で助け出された者たちは実在する。リアも、おまえが彼らを守ろうとしたと見ている」
ワトルは言葉を切る。
「ならば、その事実も無視はしない」
クランは何も言わなかった。
言えば、何かが崩れそうだった。
ワトルは淡々と続ける。
「それに、ルクレールのために、おまえを処分してやる義理もない」
その言い方は冷たい。
だが、救いでもあった。
少なくとも今この場で、ルクレールへ引き渡されるわけではない。
「これからどうする気だ」
簡潔な問いだった。
クランはすぐには答えられなかった。
どうするのか。
その答えを、自分でも持っていない。
逃げる。
生き延びる。
アリシアを守る。
それだけでは足りないところまで、もう来ている。
紋章魔物。
ゲイツ。
フードの騎士。
エラール村の偽装。
リア。
ワトル領。
自分は、ただ逃げていれば済む場所を越えてしまった。
けれど、だからといって、何を選べばいいのかは分からない。
「……分かりません」
クランは正直に答えた。
ワトルは小さく息を吐いた。
「そうだろうな」
責める声ではなかった。
「答えが出るまで、この地にいるのもよい。だが、自由にはさせられん」
当然だった。
自分は元ルクレール騎士。
命令違反者。
魔族の少女を連れている。
しかも、その少女は黒い剣へ変じる。
放置できるはずがない。
「おまえとアリシアの身柄は、当面、リアに預ける」
ワトルははっきり告げた。
「保護であり、監視でもある」
クランは黙って聞いている。
「おまえは名目上、彼女の小姓として働け」
その言葉に、クランはわずかに眉を動かした。
小姓。
元騎士に与えるには、低い立場だ。
だが、それだけに都合もいい。
リアの近くに置ける。
領内での身分も一応は作れる。
勝手に動けば、すぐに分かる。
そして何より、アリシアを完全に引き離されるわけではない。
異論はなかった。
選べる道も、ほとんどない。
それに、リアであればアリシアを理不尽に扱わないだろう。
少なくとも、昨夜の彼女はそうだった。
「……分かりました」
クランは短く答えた。
それで終わるはずだった。
だが、わずかに間を置き、もう一言だけ付け加える。
「……アリシアは、俺が見ます」
声は低い。
願いというには硬く、要求というには弱い。
ただ、それだけは譲れないという響きがあった。
ワトルはしばらくクランを見ていた。
やがて、小さく頷いた。
「それも含めて、リアに預ける」
机の上の呼び鈴へ手を伸ばす。
澄んだ音が、部屋に落ちた。
ほどなくして、扉が開く。
リアが入ってきた。
その横に、アリシアがいる。
まだ顔色は悪い。
リアの外套を両手で掴み、足取りも少し頼りない。
けれど、目は開いていた。
赤い瞳が、部屋の中を探す。
そして、クランを見つけた瞬間、表情が変わった。
「くらん」
小さく名前を呼び、ためらいなく駆け出す。
リアが少し手を伸ばしかけたが、止めなかった。
クランも動かない。
そのまま、正面から受け止める。
小さな身体がぶつかり、胸元にしがみついた。
腕に力がこもる。
離れる様子はない。
クランは何も言わなかった。
ただ、片手を背に回す。
支えるだけの、短い動きだった。
それでも、アリシアの肩から少しだけ力が抜けた。
言葉は交わされない。
だが、それで十分だった。
ワトルは、その様子を黙って見ていた。
何も言わない。
ただ、わずかに目を伏せる。
リアが一歩前へ出た。
「お呼びでしょうか」
「ああ」
ワトルは簡潔に告げる。
「この男と少女は、しばらくきみに預ける」
リアの目が、わずかに開かれる。
「私に、ですか」
「そうだ」
ワトルの声は変わらない。
「保護であり、監視でもある。必要なら、仕事を手伝わせてもいい。クランは名目上、きみの小姓だ」
リアはすぐには答えなかった。
状況の重さを理解しているのだろう。
元ルクレール騎士。
魔族の可能性がある少女。
黒い剣。
エラール村。
紋章魔物。
それらを、自分のもとに置くということが何を意味するのか。
甘い判断ではない。
だが、突き放す判断でもない。
リアは静かに息を吸い、頷いた。
「……わかりました」
「無理をするな」
ワトルは短く付け加えた。
「判断に迷ったら、必ず報告しろ。抱え込むな」
「はい」
「話は以上だ。下がっていい」
それで会話は終わった。
クランはアリシアをそっと離そうとした。
だが、アリシアの指は外套を掴んだままだった。
「アリシア」
短く呼ぶ。
アリシアは顔を上げる。
「行くぞ」
「……うん」
ようやく、小さな手が少しだけ緩む。
クランはリアへ一礼した。
続いて、ワトルへ向き直る。
「……ありがとうございます」
短い礼だった。
ワトルは何も言わない。
クランも、それ以上は続けなかった。
三人が部屋を出ていく。
扉が閉じる。
室内には、再び静けさが戻った。
ワトルはしばらく、椅子に座ったまま動かなかった。
机の上には、報告紙が置かれている。
エラール村。
紋章魔物。
魔族の少女。
黒い剣。
ルクレールとベルダイルの対立。
どれも、軽く扱えるものではない。
それでも、ひとまず一つだけは分かった。
クランという男は、使えるから拾ったわけではない。
信用できるから置いたわけでもない。
危険だから、見える場所に置く。
そして、見捨てるにはまだ早い。
ワトルは、深く息を吐いた。
「……面倒なものを抱えたな、リア」
呟きは、誰に聞かせるものでもなかった。
だが、その声には、責める響きはなかった。
ワトルは窓の外へ目を向ける。
マルムの街は、いつもと変わらず動いている。
まだ、民は知らない。
この地の外側で、どれほど大きな火が起きようとしているのかを。
ならば、知っている者が備えるしかない。
ワトルは机上の呼び鈴へ、もう一度手を伸ばした。
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