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第28話 境界の先

 

 伯爵邸へ向かう道は、思っていたよりも短かった。


 グローリー家の屋敷を出て、石畳の通りを抜ける。

 朝のマルムは、すでに動き始めていた。


 店先の戸が開き、荷車の車輪が乾いた音を立てる。

 どこかの家からは、焼きたてのパンの匂いが流れてきていた。


 昨日までなら、アリシアが顔を上げていたかもしれない。

 だが今、背中の少女は目を覚まさない。


 リアが貸した外套のフードを深くかけ、白い髪と耳を隠したまま、クランの背で静かに眠っている。

 規則的な呼吸だけが、かすかに伝わってくる。


 軽い。

 軽すぎる。


 そう思うたび、黒い剣の重みが手の中に戻ってくるようだった。


 クランは前を見たまま歩く。

 腰には剣がない。


 エラール村で拾い、ここまで使ってきた剣は、キメラとの戦いで折れた。

 今の自分は、丸腰に近い。


 それでも、足は止めなかった。

 隣を歩くリアも、必要以上に口を開こうとはしない。

 ただ、時折、アリシアの呼吸を確かめるように視線を向けていた。


 やがて、伯爵邸が見えてくる。

 派手さはない。

 だが、整っている。


 過度な装飾で威を示すのではなく、必要なものを必要な形で置いている建物だった。

 無駄のない外観は、この地を治める者の性質を、そのまま表しているように見えた。


 門番がリアに気づき、姿勢を正す。


「グローリー卿」

「伯爵にお目通りをお願いします」


 リアの声は静かだった。

 門番は、クランと、その背に眠るアリシアへ一瞬だけ視線を向ける。


 だが、余計なことは尋ねなかった。

 すぐに門が開かれる。


 屋敷の中へ通され、廊下を進む。


 磨かれた床。

 白い壁。


 必要以上に飾られてはいないが、どこにも乱れがない。

 クランは、その整いすぎた静けさに、わずかな居心地の悪さを覚えた。


 案内されたのは、伯爵の執務室の前だった。

 扉の前で、リアが足を止める。


「まずは私が報告してきます」


 振り返る。


「貴方はここで、アリシアと待っていてください」


 クランは短く頷いた。


「……ああ」


 リアは一礼し、扉の向こうへ消えた。

 扉が閉まる。


 廊下に残されたクランは、背中のアリシアを支え直した。

 眠ったままの少女は、何も言わない。


 静かに息をしている。

 今は、それだけで十分だった。


 ◇


 執務室の中は静かだった。

 広すぎるわけではない。


 だが、置かれているものの一つ一つに、長く使われてきた落ち着きがある。


 机。

 書棚。

 壁に掛けられた剣。

 そして、窓際に置かれた地図台。


 この部屋は、人を迎えるためだけの場所ではない。

 領主が考え、決め、責任を負うための場所だった。


 その中央に、男が座っていた。


 イグレート・ワトル。


 この地を治める伯爵であり、リアの後見人でもある人物。

 リアは一歩進み、静かに頭を下げた。


「お時間をいただき、ありがとうございます」


 ワトルは軽く息を吐く。


「なかなか面倒なことになっているようだな」


 声音は落ち着いている。

 驚きも、焦りも見せない。

 だが、何も軽く見ていないことだけは、すぐに分かった。


 リアは顔を上げる。


「はい。いくつか、確認していただきたい事案があります」

「聞こう」


 短い返答だった。

 リアは、言葉を選びながら順に説明していく。


 農村で起きた不可解な失踪。

 紋章を刻まれた魔物の出現。

 旧開拓村跡地に隠されていた生存者たち。


 ゲイツ・ヴァルグと名乗った男。

 合成魔獣キメラ。

 そして、クランという元ルクレール騎士の証言。


 すべてを一度に断定しない。


 見たこと。

 聞いたこと。

 推測できること。

 まだ分からないこと。


 それらを分けながら、必要な部分だけを差し出していく。


 ワトルは、最後まで口を挟まなかった。

 リアが語り終えると、短く言った。


「紋章魔物については、騎士団長のガイゼルからも報告を受けている」


 情報は、すでに伯爵のもとで繋がり始めているらしい。

 リアは小さく頷いた。


「はい。ですが、今回の件で、ただの魔物被害ではない可能性が高まりました」

「人の手が入っている、か」

「そう見えます」


 リアは否定しなかった。


「旧開拓村跡地には、生存者が餌として集められていました。ゲイツという男は、それを当然のように口にしています」


 その言葉を発するだけで、胸の奥が重くなる。

 だが、目を逸らすわけにはいかなかった。


 ワトルの表情は大きく変わらない。

 けれど、その目だけがわずかに冷えた。


「人を餌と呼ぶ者か」

「はい」

「嫌なものを、またこの地に持ち込まれたな」


 静かな声だった。

 怒鳴るわけではない。


 だが、その奥にある怒りは、はっきりと分かった。


 ワトルは少しだけ視線を落とす。

 それから問いかけた。


「そのクランという男、きみはどう判断する?」


 リアはすぐには答えなかった。


 思い出すのは、グローリー家の屋敷での会話。

 短い言葉。


 隠そうともしない事実。

 そして、眠るアリシアへ向ける視線。


「嘘をついているようには見えません」


 静かに言う。


「捕らわれていた人々を、必死に守ろうとしてくれました。アリシアについても、不器用ながら守ろうとしているように見えます」


 そこで、言葉を切った。

 そのまま結論を出すことはできなかった。


「……ですが、それが正しいのかは、分かりません」


 ワトルは何も言わない。

 ただ、視線を向けたまま待っている。


「彼女は魔族の可能性があります。騎士であれば、討伐対象とされる存在です」


 自分の言葉を、自分で受け止めるように続ける。


「それでも共にいるという判断が、何を意味するのか。私には、まだ判断しきれません」


 ワトルは小さく息を吐いた。


「判断を急がなかったのは、悪くない」


 リアは目を上げる。

 ワトルは淡々と続けた。


「魔族というだけで斬るのは簡単だ。だが、その少女が何であり、なぜその状態にあるのかも分からぬまま斬れば、得られるものは少ない」

「……はい」

「もちろん、甘く扱えば別の被害を出す」


 その言葉は重かった。


「だから、領主の判断が要る」


 リアは、静かに頷いた。

 ワトルは窓の外へ目を向ける。


「戦は時間の問題だ」


 穏やかな口調だった。


「ルクレールとベルダイルの対立は、いずれ表に出る。エラール村の件が事実なら、火種はすでに投げ込まれている」


 リアの表情が少し曇る。


「昨日のようなものが、また現れない保証もない」


 ワトルは続けた。


「この地も、例外ではないだろう」


 言葉は淡々としている。

 だが、その重みは、はっきりと伝わった。


「守るべきものがある以上、備えは必要になる」


 そこで、わずかに口元が緩む。


「……無論、ないに越したことはないがな」


 それは、彼の本音だった。

 ワトルは再び視線を戻す。


「そのクランという男と、二人で話してみたい」


 短く言う。


「呼んできてくれるか」


 リアは頷いた。


「わかりました」


 踵を返そうとしたところで、声がかかる。


「リア」


 振り返る。


「グローリーの名も、使えるうちは使えばいい」


 静かな言葉だった。

 続けて、ワトルは言う。


「だが、無茶はするな」


 その視線が、わずかに柔らかくなる。


「きみに特務騎士の立場を与えたのは、危険に晒すためではない」


 リアの表情が、ほんの少し揺れた。


「申し訳ありません、おじさま」


 ワトルは首を横に振る。


「謝れと言っているのではない。言いたいことを理解してくれれば、それでいい」


 それ以上は何も言わなかった。

 リアは深く一礼し、部屋を後にする。


 ◇


 扉を開けると、廊下の空気が流れ込んできた。


 そこに、クランはいた。

 壁にもたれるように立ち、アリシアを背負ったまま、静かに待っている。


 眠る少女の呼吸を確かめるように、時折わずかに肩が動いていた。

 視線だけが、こちらへ向く。


 言葉はない。

 リアも余計な前置きはしなかった。


「伯爵が、貴方とお話をされたいそうです」


 クランはわずかに頷く。


「……ああ、分かった」


 それだけだった。

 リアは一歩、近づいた。


「アリシアは、私が見ています」


 クランの動きが止まる。

 ほんのわずかな間だった。


 だが、リアには分かった。

 預けることに迷っている。


 疑っているというより、手を離すことそのものに抵抗しているのだ。


 無理もない。


 彼は、この少女を守るために、騎士団に背いた。

 折れた剣しかない状況でも退かなかった。


 黒い剣を握ることになっても、最後に確認したのは、生存者とリアとアリシアの無事だった。

 リアは、静かに両手を差し出した。


 急かさない。

 奪わない。

 待つ。


 クランは背中の重みを確かめるように、一度だけ目を伏せた。


 それから、眠ったままのアリシアをそっと降ろす。

 リアはその小さな身体を受け取り、外套がずれないように抱き直した。


 軽い。

 驚くほど軽かった。


 その軽さが、昨夜見た黒い剣の重さと、どうしても結びつかなかった。


「……頼む」


 クランが低く言った。

 それだけだった。


 だが、十分だった。

 リアは頷く。


「はい」


 クランは再び扉へ向き直る。


 腰に剣はない。

 背にはアリシアもいない。

 それでも、逃げることはしなかった。


 静かに扉へ手をかける。

 そして、伯爵の待つ部屋へ入っていった。


 ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


 もしよろしければ、ブックマークや応援をいただけると、今後の執筆の大きな励みになります。


 次回もよろしくお願いいたします。

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