第27話 語られる過去
リアが応接室へ戻った時、部屋の空気は先ほどとほとんど変わっていなかった。
窓から差し込む朝の光は、少しだけ強くなっている。
白い壁。
整えられた調度。
柔らかな布の張られたソファ。
その上で、アリシアは眠っていた。
白い髪が頬にかかり、呼吸は細い。肩にかけられた毛布が、息に合わせてかすかに上下している。
昨夜、黒い剣となって異形の魔物を断ち切った少女には見えなかった。
クランは窓際に立っていた。
リアが戻ったことには気づいている。
だが、口を開くことはなかった。
ただ、待っていた。
問いが来ることを。
リアは向かいの席へ進み、静かに腰を下ろした。
剣は帯びたままだ。
抜くつもりはない。
だが、外してもいない。
それが、今の彼女の答えだった。
「まず、貴方についてお聞きします」
声は穏やかだった。
けれど、逃げ道を用意する響きではなかった。
「初めてお会いした時から、ただの旅人ではないと思っていました」
クランは答えない。
「貴方は、何者ですか」
短い沈黙が落ちた。
窓の外で、鳥が一度鳴く。
朝の街は動き始めているはずなのに、この部屋だけが切り離されたように静かだった。
クランは窓から離れた。
ソファのそばまで戻り、眠るアリシアを一度だけ見る。
それから、低く答えた。
「……元ルクレール騎士団の騎士だ」
リアの目が、わずかに揺れた。
「ルクレール……」
「ああ」
それだけだった。
飾りも、弁明もない。
クランは少しだけ視線を落とす。
「エラール村へ行った」
リアは何も言わなかった。
続きを待つ。
「任務だった」
「どのような任務ですか」
クランの表情は変わらない。
だが、その沈黙は少し長かった。
「村に残った者を、一人も残すな、と」
部屋の空気が、はっきりと重くなる。
リアは息を止めなかった。
目も逸らさない。
ただ、組んだ指先にだけ、わずかな力が入った。
「……村に残った者を、ですか」
「ああ」
クランの返答は短い。
「生き残りを出すな、という意味だ」
それ以上を飾る言葉はなかった。
リアはすぐには返せなかった。
領地を守る騎士として。
人を守るために剣を取った者として。
その命令を、どう受け止めればいいのか。
一瞬、言葉が見つからなかった。
「命じたのは誰ですか」
「副騎士長フェルナンド」
リアの目が細くなる。
「副騎士長が……」
「騎士団上層の判断だと言われた」
クランは淡々と続ける。
「誰の名で出た命令かまでは知らない」
知らない。
だから断定はできない。
けれど、知らないから無かったことにできるわけでもない。
その苦さが、短い言葉の奥にあった。
「俺には、できなかった」
クランはアリシアへ視線を向けた。
「倉庫で、こいつを見つけた。隠れていた。怯えていた」
眠るアリシアは動かない。
白い髪の隙間から、かすかに耳の先が覗いている。
「それだけだ」
「その時点で、彼女が魔族である可能性には気づいていたのですね」
「耳を見た」
リアの指が、わずかに動いた。
それは昨夜、自分も見たものだった。
人とは違う形。
この国で、簡単に見過ごしてよいものではない。
「では、理解した上で共にいるのですね」
問いは静かだった。
だが、重い。
クランはアリシアから視線を外さない。
「……ああ」
「騎士ならば、魔族は討伐対象です」
「だろうな」
「それでも、ですか」
クランは少しだけ顔を上げた。
「魔族かどうかは、関係ない」
声は低かった。
だが、迷いはなかった。
「少なくとも、俺には討つ相手には見えなかった」
リアは黙った。
目の前にいる少女は、今も眠っている。
昨日、パンを嬉しそうに見ていた少女。
怖がりながらも、クランの袖を握っていた少女。
そして、黒い剣へ変じた少女。
どれか一つだけを見て判断できるほど、単純な存在ではなかった。
「彼女は、人を襲いましたか」
「いや」
「貴方に命令されて、剣になったのですか」
クランの視線が、わずかに落ちる。
「違う」
短い返答だった。
「アリシアが、自分で言った」
リアはその言葉を受け止める。
責めることはできた。
魔族の少女を連れていることも、黒い剣の力を使ったことも、危険だと断じることはできた。
だが、その前に問わなければならないことがある。
あの力が何なのか。
アリシア自身が何者なのか。
そして、クランが何を選んだのか。
「……エラール村について、もう少し聞かせてください」
リアは声を整えた。
「なぜ、そこまでの命令が出たのですか」
クランは少しだけ黙った。
言葉を選んでいるというより、思い出したくないものを、もう一度手で掴みに行くような沈黙だった。
「……あの村は」
低く言う。
「ベルダイルにやられたことにするつもりだった」
リアの呼吸が、わずかに止まる。
「民をまとめるためだ」
言い切った瞬間、部屋の空気が変わった。
ただの虐殺ではない。
意図されたものだ。
事件として使うために、命が切り捨てられた。
リアはゆっくりと息を吐いた。
「……ベルダイル侯爵が王を名乗ったことで、国はすでに揺れています」
言葉を選びながら、続ける。
「各地の領主も、民も、どちらに従うべきかを測っている。その状況で、ベルダイル側が村を焼いたという話が広がれば……」
最後までは言わない。
言わなくても、分かってしまう。
怒りは一方向へ向く。
迷っていた者たちは、ルクレール側へ寄る。
戦のための理由が、そこに生まれる。
「つまり、エラール村は」
リアの声が、少しだけ低くなった。
「そのための材料だったと」
クランは答えない。
否定もしない。
それが答えだった。
リアは目を伏せた。
正しさが、音を立てずに軋む。
戦を避けられない時、人は理由を求める。
守るため。
まとめるため。
大きな犠牲を防ぐため。
その言葉の下で、小さな村が一つ消される。
それを、必要だったと呼ぶ者がいる。
リアは顔を上げた。
「貴方は、なぜ騎士になったのですか」
クランはすぐには答えなかった。
朝の光が床に細い線を作っている。
その線を見下ろしたまま、やがて言った。
「守れると思った」
短い言葉だった。
けれど、それだけでは終わらなかった。
「強くなれば、手が届くと思った。騎士になれば、何かを守れると思った」
「ルクレールで、ですか」
「聖騎士がいた」
リアは、その名を静かに口にする。
「シャルロット・ロア・エクスレイ」
クランは頷いた。
「勇者の後継。聖剣の使い手。あの人の下なら、間違わないと思っていた」
その言葉に、リアはわずかに目を伏せる。
憧れ。
恩義。
救われた記憶。
そういうものは、人を支える。
同時に、縛りもする。
「だが、エラール村で命令が出た」
クランの声は低い。
「上の命令だと言われた。村を焼けと。残った者を殺せと。ベルダイルの仕業にすると」
そこで言葉が切れた。
クランはアリシアを見る。
「……こいつがいた」
眠る少女は返事をしない。
けれど、クランの声だけが、ほんの少しだけ変わった。
「討つ相手には見えなかった」
リアは静かに聞いていた。
クランは言葉の多い男ではない。
感情を見せることも少ない。
だが今、彼が何を語っているのかは分かる。
これは弁明ではない。
自分は正しかったと主張しているわけでもない。
ただ、あの時、自分が何を選んだのかを、短い言葉で差し出しているだけだった。
「……ワトル領も、無関係ではいられません」
リアは静かに言った。
「ルクレールとベルダイルの対立は、今後さらに大きくなるでしょう。その中で、エラール村の件が表に出れば……」
言葉を切る。
結果は、想像するまでもない。
領地。
民。
騎士団。
王位をめぐる争い。
あらゆるものが、さらに深く巻き込まれる。
「見過ごすことはできません」
クランは黙って聞いている。
「もう一つ」
リアの声が、少し低くなった。
「あのフードの騎士について、何か知っていますか」
クランの表情が、わずかに動いた。
「エラール村で見た」
「昨夜の人物と同じだと?」
「おそらくな」
「貴方の名を呼んだように見えました」
クランは黙る。
否定はしない。
「……そう聞こえた」
「心当たりは」
少し長い沈黙があった。
その間に、アリシアの寝息だけが小さく聞こえた。
「ない」
そう答えてから、クランはわずかに目を細めた。
「……ないはずだ」
リアはその言葉を受け止めた。
嘘には見えない。
だが、全てを思い出している者の答えにも聞こえなかった。
何かがある。
ただ、それが今、言葉にならないだけなのだろう。
リアはそこへ踏み込まなかった。
「分かりました」
静かに息を吐く。
「現時点で、私一人が貴方たちに対する判断を下すべきではありません」
クランはリアを見る。
「貴方が嘘を言っているようには見えません。ですが、だからといって、全てをそのまま受け入れることもできません」
真っ直ぐな言葉だった。
優しさだけではない。
警戒だけでもない。
その両方を抱えたまま、リアはクランを見ていた。
「この件は、ワトル伯爵へ報告します」
クランは何も言わない。
「そのうえで、貴方にも伯爵に会っていただくことになると思います」
クランの視線が、眠るアリシアへ向く。
リアも同じように見る。
白い髪。
細い呼吸。
人とは違う耳。
守るべき少女に見える。
だが、その存在はもう、個人の判断だけで抱え込めるものではない。
「……分かった」
短く答える。
リアは頷いた。
朝の光が、応接室の中へ差し込んでいる。
夜は明けた。
それでも、明らかになったものは、まだ何一つ片付いていなかった。
リアは立ち上がる。
扉へ向かいかけ、ふと足を止めた。
「クラン」
名を呼ぶ。
「私は、貴方がしたことを、すべて正しいとは言えません」
クランは顔を上げない。
ただ、聞いていた。
「けれど」
リアは、眠るアリシアを見た。
「貴方があの子を守ろうとしたことは、否定するつもりはありません」
クランの指が、わずかに動く。
返事はなかった。
それでも、その言葉は届いたように見えた。
リアは今度こそ扉へ向かう。
応接室には、クランとアリシアが残された。
静かな朝の光の中で、眠る少女の呼吸だけが、まだ小さく続いていた。
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