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第26話 残された違和感

 

 村へ戻る頃には、夜はほとんど明けかけていた。

 東の空が、薄く白んでいる。


 その淡い光の下で、廃村から連れ戻された人々の姿は、かえって痛々しく見えた。


 服は汚れ、足取りは弱い。

 肩を借りなければ歩けない者もいる。

 自分の足で門を越えた者でさえ、村の灯りを見た瞬間、膝から崩れ落ちそうになっていた。


 門番の顔が強張る。


 すぐに声が飛び、家々の扉が開いた。

 人が走り、担架が運び出され、まだ眠っていたはずの村に慌ただしい気配が広がっていく。


 駆け寄ってきた村長は、戻ってきた人々を見て、言葉を失った。


「これは……一体、何が……」


 問いは、最後まで形にならなかった。

 リアが一歩前へ出る。


 顔には疲労が残っている。

 それでも、その声は乱れなかった。


「詳しいことは、後ほど騎士団を通して報告します。今は、この方々の手当てを優先してください」


 村長は我に返ったように頷く。


「は、はい……!」

「衰弱しています。水と毛布を。無理に話を聞こうとしないでください」

「承知しました」


 村長は深く頭を下げる。


「本当に、ありがとうございます。せめて少しでも休んでいってください」


 リアは一瞬だけ、目を伏せた。

 休めるなら、そうした方がいい。


 負傷者はいる。

 報告すべきことも多い。


 何より、クランの腕の中では、アリシアがまだ目を覚ましていなかった。


 だが、ここで足を止めれば、問いが増える。


 救助された者。

 旧開拓村跡地。

 異形の魔物。

 消えた研究者。

 そして、目の前の少女。


 村人たちの前で話せることは、あまりにも少なかった。


「お気持ちはありがたいのですが、急ぎマルムへ戻る必要があります」


 リアは静かに言った。


「この件は、領都で正式に報告する必要があるのです」


 それ以上は語らない。

 村長も、重ねて引き止めることはしなかった。


 クランは、腕の中の重みを支え直した。


 軽い。

 軽すぎる。

 さっきまで黒い剣となって、あの異形を断ち切っていたとは思えないほどに。


 アリシアは目を覚まさない。

 呼吸はある。

 けれど、それだけだった。


 白い髪が頬にかかり、赤い瞳は閉じられたまま。

 普段なら何かを見つけるたびに袖を引く小さな手も、今は力なく垂れている。


 リアが、その様子を一度だけ見た。


 何かを言いかけたように見えた。

 だが、口にはしない。

 生存者たちが運ばれていくのを見届けると、リアは踵を返した。


「行きましょう」

「ああ」


 クランは短く応じ、その後に続いた。

 村を出てから、マルムへ戻るまで、二人の間に言葉はなかった。


 靴底が土を踏む音だけが、規則的に続く。

 夜明けの風は冷たい。

 だが、その冷たさすら、少し遠く感じられた。


 クランは視線を落としたまま歩く。

 腕の中のアリシアを揺らさないよう、歩調だけは崩さない。


 リアは隣を歩いている。

 何も聞いてこない。


 アリシアのことも。

 黒い剣のことも。

 フードの騎士のことも。


 その沈黙は、見逃しではなかった。

 後回しにしているだけだ。

 クランにも、それは分かっていた。


 やがてマルムの城門をくぐる頃には、夜は完全に明けていた。

 朝の街はまだ人通りが少ない。


 店先の戸が開き始め、石畳には薄い光が落ちている。

 いつもの一日が始まろうとしているのに、クランにはそのすべてが、別の場所の出来事のように見えた。


 昨日まで、同じ街を歩いていた。

 パンを買い、依頼を受け、リアについて村へ向かった。


 それが、ひどく昔のことのように思える。


「……私の屋敷へ来てください」


 リアが前を向いたまま告げた。

 クランは一瞬だけ視線を上げる。


「……いいのか」

「ええ」


 短い返答だった。


「このまま騎士団本部へ向かえば、説明しなければならないことが増えます。アリシアを休ませる場所も必要です」


 その判断は正しかった。

 だが、リアの声は柔らかくない。


 迷いも、不安も、押し込めている。

 それでも今は、最も危険の少ない道を選んでいるだけだ。


 クランはそれ以上、問わなかった。

 屋敷はすぐに分かった。


 騎士一人が住むには、明らかに広すぎる。


 門をくぐると、手入れされた庭が広がっていた。


 草木は整えられ、石畳には乱れがない。

 朝露を受けた葉が、淡い光を返している。


 静かな場所だった。

 その静けさが、今のクランにはかえって落ち着かなかった。


「……ここが、あんたの家か」


 低く問う。

 リアは足を止めずに答えた。


「グローリー家の屋敷です。私には過ぎた場所ですが、今は他に使う者もいませんので」


 淡々とした口調だった。

 それ以上を語るつもりはないらしい。


 クランも追及しなかった。

 今、問うべきことではない。


 屋敷の中へ通される。


 磨かれた床。

 整えられた調度。

 朝の光を受ける白い壁。


 何もかもが清潔で、静かだった。


 その清潔さが、廃村に残っていた血と粉塵を、かえって思い出させる。

 応接室へ入ると、リアはソファを示した。


「そこへ」


 クランはアリシアを慎重に降ろした。

 小さな身体が柔らかな座面に沈み、白い髪が頬に落ちる。


 呼吸は細いが、途切れてはいない。

 リアが近づき、毛布をかけようとして、手を止めた。


 髪の隙間から、耳が覗いていた。

 人とは違う形。

 昨夜、旧開拓村跡地で見たものと同じもの。


 リアは何も言わずに、静かに見ている。

 クランはその視線に気づいていた。


 だが、何も言わなかった。

 言えば、何かが決まってしまう気がした。


 リアは少しだけ目を伏せ、毛布の端を整えた。

 眠る少女の肩が冷えないよう、丁寧に布をかける。

 その手つきだけは、警戒を含んでいなかった。


 リアは立ち上がるとチラリとクランを見た。


「……必要な連絡と、身支度を済ませてきます」


 一歩、扉へ向かう。

 だが、その手がノブに触れる前に止まった。


「クラン」


 振り返らないまま、名を呼ぶ。


「後で、お聞きします」


 声は穏やかだった。

 けれど、逃げ道を用意するものではなかった。


 クランは短く答える。


「……分かっている」


 リアはそれ以上言わず、部屋を出ていった。

 扉が閉まると、クランはしばらく動かなかった。


 やがて、ゆっくりと窓際へ歩く。

 朝の光が、室内の輪郭をはっきりと浮かび上がらせている。


 綺麗な部屋だ。

 綺麗すぎる部屋だった。


 その中で、ソファに眠るアリシアだけが、別の場所から運び込まれたもののように見える。


 リアは、気づいている。

 髪の隙間から覗いた耳に。

 黒い剣へ変じた姿に。


 そして、それをクランが隠していたことに。

 彼女は、見て見ぬふりをする人間ではない。


 正しいと判断すれば、迷いながらでも剣を取る。

 クランは、リアをそういう騎士だと見ていた。


 それでも、昨夜は剣を向けなかった。


 理由はある。

 あの場には、助けを待つ生存者たちがいた。


 何を優先すべきかを考えれば、リアの判断は理解できる。


 だが、それで終わる話ではない。

 アリシアのこと。

 黒い剣のこと。


 キメラを断ち切った、あの異様な手応え。


 ゲイツという男。

 そして、フードの騎士。


 何一つ、片付いていない。


 クランはソファへ視線を戻した。


 横たわる少女は、小さく、静かに眠っている。

 いつもと変わらない姿だった。


 それが、かえって現実感を揺らす。


 守るべき子どもにしか見えない。

 少なくとも、クランにはそう見える。


 けれど、その内側にあるものは、もう無視できないところまで来ていた。


 何を話すべきか。

 どこまで話せるのか。

 まだ、決めきれない。


 フードの騎士。

 エラール村で見たあの影と、同じ存在であることは間違いない。


 あの声は、確かにクランの名を呼んだ。

 記憶のどこかに、繋がるはずのものがある。


 貧しい村。

 古い本。

 小さな約束。


 近い。

 それなのに、届かない。

 意識の奥に引っかかったまま、形にならなかった。


 クランは窓の外へ視線を向けた。

 朝の光が、強く差し込んでいる。


 夜は明けた。

 それでも、胸の奥に残った違和感だけは、消えなかった。


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