第21話 捨てられた村
森の奥で、赤い光が揺れていた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
闇の中に浮かぶそれは、こちらを見つめる眼にも見えた。
あるいは、胸に刻まれた紋章の光か。
暗闇の向こうでは、判別できない。
風が止む。
村の外れに立つクランは、足元へ視線を落とした。
土に残る引きずられた跡。
小さな血痕。
森へ続く複数の足跡。
跡はまだ新しい。
雨も降っていない。
追える。
「まだ遠くない」
短く言い、クランは歩き出した。
リアも当然のように隣へ並ぶ。
だが、その前に彼女は振り返った。
「村長」
「は、はい……!」
青ざめた顔の村長が、戸口の陰から身を乗り出す。
「戸締まりを徹底してください。夜明けまで、誰も外へ出さないようお願いします。灯りは必要最小限に。窓からも離れてください」
「り、了解しました……!」
「負傷者がいる場合は、家の中央へ。外壁に近い部屋は避けてください」
声は静かだった。
しかし、命じられた者が自然に従う強さがあった。
村長が何度も頷く。
リアはそれを確認してから、アリシアへ視線を向けた。
「アリシア、本当なら村に残っていてほしいところですが……」
言葉を切る。
村はすでに襲われている。
安全な場所とは言い切れない。
アリシアはクランの袖を握ったまま、首を横に振った。
「いく」
小さな声だった。
「いやなかんじ、あっちにある」
森の奥を指す。
クランはその指先を見た。
アリシアが感じているものと、足跡の方向は同じだ。
彼女を連れていく危険。
ここに残す危険。
どちらが軽いかなど、簡単には決められない。
クランは短く息を吐く。
「俺の後ろから離れるな」
「……うん」
「走れと言ったら走れ。止まれと言ったら止まれ」
「うん」
リアも静かに頷いた。
「では、私が後方を見ます」
三人は森へ入った。
湿った土の匂いが、すぐに足元から立ち上る。
木々の隙間から射す月明かりは細く、数歩先の闇すら輪郭を失っている。
森の中は、音が近かった。
落ち葉を踏む音。
枝が外套をかすめる音。
アリシアの小さな息遣い。
そして、どこか遠くで何かが草を踏む音。
クランは腰を落とし、地面へ目を走らせた。
人の足跡。
裸足ではない。
靴底の跡だ。
引きずられた跡の横を、獣じみた爪痕が断続的に続いている。
爪痕は深い。
だが、時折、不自然に浅くなる。
荷を運ぶ者が歩幅を合わせたような跡もあった。
「……魔物だけじゃない」
リアが眉を寄せる。
「人の手が加わっている、と」
「最初からそうだ」
クランは短く答える。
家の鍵。
壊されていない窓。
血の少なさ。
壁の焦げ跡。
そして、紋章を刻まれた獣。
どれも、ただの魔物では説明がつかない。
少し進んだ先で、アリシアがクランの袖を引いた。
「……こっち」
「分かるのか」
「なんとなく」
アリシアは森の奥を見つめている。
赤い瞳が、暗がりの中で小さく揺れていた。
「いやなの、あっちにいる」
指差す方向は、足跡の進む先と一致している。
背後で枝が鳴った。
三人が同時に振り向く。
木の幹の陰。
一瞬だけ赤い光が覗いた。
すぐに消える。
リアが剣へ手をかけた。
「来ますか」
「……いや」
クランは首を振った。
「襲うなら、もう来てる」
「では……見ている?」
「ああ」
誘われている。
あるいは、試されている。
それでも足は止められない。
攫われた者がいる。
足跡はまだ新しい。
迷っている時間はなかった。
しばらく進むと、リアが静かに口を開いた。
「貴方は、迷わないのですね」
クランは前を見たまま答える。
「いや……ずっと、迷っている」
落ち葉を踏む音が響く。
「嫌になるほどな」
それだけ言って、また黙る。
リアは何も返さなかった。
ただ、少しだけ表情を和らげる。
森の奥で、匂いが変わった。
湿った土の中に、腐った木材の臭いが混じる。
それから、古い灰のような匂い。
人が捨てた場所の匂いだった。
やがて視界が開ける。
木々の先に、崩れた柵があった。
朽ちた井戸。
屋根の抜けた家。
傾いた石碑。
人の営みが、時間ごと捨てられた場所。
「……旧開拓村跡地です」
リアが低く呟いた。
「数年前、魔物被害で放棄されたと聞いています」
放棄された。
その言葉に反して、地面だけは新しかった。
「今は使われてる」
クランが指した先。
ぬかるんだ地面には、最近の轍が残っていた。
車輪は一度ではない。
何度も同じ場所を通っている。
その横には、踏み固められた土。
割れた樽。
湿った布切れ。
そして、まだ乾ききっていない黒い染み。
血か。
別の何かか。
月明かりだけでは月明かりだけでは判別できなかった。
アリシアが、クランの背へ半歩隠れる。
「ここ、きらい……」
「無理するな」
「……うん」
だが、アリシアの指は袖から離れない。
風が抜けた。
誰もいないはずの村跡で、どこかの板がかたりと鳴る。
崩れた家々の中で、中央にある一軒だけが妙に形を保っていた。
窓は外から板で打ち付けられている。
壁には新しい補強の跡がある。
入口だけが、半開きになっていた。
人を招くように。
あるいは、逃がさぬように。
クランは剣の柄へ手を置いた。
「……あそこか」
リアも無言で剣を抜く。
白い刃が、月明かりを細く返した。
クランはアリシアを見る。
「ここで待て」
アリシアは首を横に振りかけた。
だが、クランの目を見て、小さく頷く。
「……うん」
「俺たちから見える場所にいろ」
「わかった」
リアが近くの崩れた石壁を指した。
「あそこなら、こちらから見えます。何かあればすぐ呼んでください」
アリシアは石壁の陰へ移動した。
それでも、赤い瞳だけは建物から離れない。
クランとリアは、半開きの入口へ近づいた。
中は暗い。
腐った木材と、湿った布と、獣の臭い。
それに混じって、かすかに人の匂いがした。
その時だった。
建物の奥から、かすかな物音がした。
何かが倒れる音。
続いて、押し殺したような息遣い。
クランの足が止まる。
リアの剣先が、わずかに下がった。
敵の音ではない。
怯え、息を殺し、それでも生きている者の音だった。
「……中にいる」
クランは低く言った。
返事はない。
ただ、暗闇の奥で、誰かがもう一度だけ息を呑んだ。
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