第20話 夜の爪痕
家畜小屋の屋根の上に、それはいた。
月明かりの下、黒い毛並みが濡れたように光っている。
狼に似た四足の魔物。
だが、普通の獣ではなかった。
背の肉は不自然に盛り上がり、前脚は獣にしては長すぎる。赤く濁った目は、こちらを見ているというより、焦点を合わせないまま動くものを探しているようだった。
そして、胸元。
黒い毛の隙間で、赤い紋章が脈打っていた。
昨日のオーガに刻まれていたものと、よく似ている。
「……ただの魔物じゃないな」
クランは低く呟いた。
隣で、アリシアが小さく震える。
「あれ、いや」
「下がって隠れていろ」
「……うん」
アリシアは素直に頷き、空き家の戸口近くへ下がった。
その背を確認するより早く、屋根の上の獣が動く。
爪が屋根板を引っかき、木片が飛ぶ。
次の瞬間、黒い影が月を遮った。
クランは前へ出た。
獣は一直線にこちらへ来たのではない。
背後の家屋へ跳ぼうとしていた。
そこには灯りを消しきれていない家がある。戸の向こうで、誰かが息を殺している気配があった。
──行かせるわけにはいかない。
クランは剣を横に払った。
斬るためではない。
落下の軌道に刃を差し込み、体勢をずらす。
金属と爪が噛み合い、嫌な音が夜に弾けた。
獣の身体が斜めへ流れる。
そのままクランは肩からぶつかり、着地の足元を潰した。
黒い獣が地面を転がる。
土が跳ね、低い唸りが漏れた。
「戸を開けないでください!」
リアの声が村に響く。
怒鳴ってはいない。
だが、はっきりと届く声だった。
「灯りを消して、窓から離れてください。外へ出てはいけません!」
閉ざされた家々の奥で、人の気配が動く。
細い灯りが一つ、また一つと消えていった。
リアは村人へ指示を飛ばしながら、すでに剣を抜いている。
月明かりを受けた金の髪が揺れた。
先ほどまでの穏やかな表情は消えている。
そこにいるのは、民を守るために剣を取った騎士だった。
獣が起き上がる。
胸元の紋章が、赤く明滅した。
クランは半歩下がる。
周囲を見た。
家畜小屋。
空き家。
閉ざされた民家。
井戸。
柵。
開けた場所は、家畜小屋の前だけだ。
あそこなら、少なくとも家の壁を背負わずに済む。
「こっちだ」
短く言い、クランは獣の正面に立った。
獣は唸り、頭を低くする。
人間の声を理解したわけではないだろう。
だが、敵意には反応する。
赤い目がクランを捉えた。
次の瞬間、獣が地を蹴る。
速い。
昨日のオーガとは違う。
重さではなく、速さで押し潰してくる。
クランは正面から受けない。
身体を沈め、剣の腹で爪の軌道を逸らしながら、空いた左腕を獣の首元へ押し込んだ。
噛みつかれる寸前で肘をぶつける。
獣の顎が横へ流れた。
その隙に、膝で前脚を払う。
獣が崩れる。
だが倒し切れない。
背骨が無理な角度でしなり、すぐに体勢を戻す。
普通の獣ではない。
生き物としての動きが、どこか壊れている。
リアが踏み込んだ。
動きは静かだった。
無駄がない。
剣先が月光を切り、獣の肩口へ吸い込まれる。
深く斬った。
だが、リアはそこで止まらない。
一歩引き、爪の反撃を紙一重でかわし、そのまま返す刃で後脚の腱を裂く。
獣が吠えた。
濁った声。
生き物の苦鳴というより、壊れた笛から漏れた音に近かった。
クランはその横へ入る。
足元の土を蹴り上げる。
目潰しになるほどではない。
だが一瞬、獣の視界が濁った。
その間に、クランは身体ごと押し込んだ。
剣だけでは止められない。
肩、肘、膝。
自分が使えるものはすべて使う。
泥臭い動きだった。
だが、獣の向きは確実に家屋から逸れていく。
リアの剣が、そこへ重なった。
クランが崩した姿勢。
リアが見つけた線。
獣の首元に、銀の刃が走った。
血が飛んだ。
黒い獣が地面へ倒れ込む。
手応えはあった。
今度こそ、致命傷のはずだった。
閉ざされた家々の奥で、誰かが息を呑む気配がした。
戸の向こうから、細い安堵の吐息だけが漏れる。
クランは剣を下ろさない。
リアも同じだった。
地面に倒れた獣を見据えたまま、わずかに呼吸を整えている。
その時。
「まだ、だよ」
アリシアの声が震えた。
クランの視線が、獣の胸元へ落ちる。
赤い紋章が点滅していた。
弱まるどころか、鼓動を取り戻すように光を増していく。
倒れた獣の前脚が、びくりと跳ねた。
首を斬られている。
血も流れている。
それなのに、動く。
「……またか」
クランは剣を握り直した。
獣が起き上がる。
関節が軋み、折れたはずの脚が地面を掻く。
胸の紋章が赤く脈打つたび、筋肉が無理やり引き絞られるように膨れた。
リアの表情が険しくなる。
「昨日と同じ……」
「胸の紋章だ」
クランは短く告げた。
その瞬間、家畜小屋の裏手で、別の影が動いた気がした。
視界の端を、赤い光がかすめる。
クランは一瞬だけ目を向けた。
だが、起き上がった獣が跳んだ。
今、目の前の一体を止めなければ、家へ届く。
クランは視線を戻さざるを得なかった。
獣の突進は、先ほどよりも速い。
だが、動きは粗い。
紋章に無理やり動かされている。
そう見えた。
クランは踏みとどまらない。
真正面から受ければ弾かれる。
半身で爪をかわし、剣を絡めるようにして軌道をずらす。
それでも衝撃は重かった。
肩にぶつかる。
痛みが走る。
歯を食いしばり、左腕で獣の首を押さえ込む。
噛みつこうとする顎が、すぐ横で鳴った。
獣の息が生臭い。
クランは足を引く。
地面のぬかるみに獣の前脚を落とす。
ほんのわずか、体勢が崩れた。
「仕留めろ」
それだけ言った。
リアが動く。
その動きに迷いはない。
月明かりの中、彼女の剣筋は静かに、正確に、赤い紋章へ向かう。
「今度こそ」
低い声。
刃が胸を裂いた。
焼き印のような紋章ごと、まっすぐに断つ。
赤い光が弾けた。
獣の身体が大きく痙攣し、今度こそ地面へ沈む。
黒い毛並みが、泥と血にまみれて動かなくなった。
しばらく、誰も声を出さなかった。
夜だけが残る。
風の音。
遠くの家畜の怯えた声。
そして、閉ざされた戸の向こうから漏れる、押し殺した呼吸。
リアは剣を下ろさず、慎重に獣へ近づいた。
「……明らかに、自然の魔物ではありません」
声は低かった。
クランも膝をつき、獣の胸元を見る。
紋章の周囲は焼け爛れていた。
皮膚に描かれているのではない。
肉の奥まで刻み込まれている。
胸だけではない。
肩や背の筋肉も異常に盛り上がり、普通の獣なら動けなくなる傷でも無理やり動かされていた。
鼻をつく臭いがある。
血と獣臭の奥に混じる、薬品のような刺激臭。
「……人の手によるものだ」
クランは呟いた。
「作ったか、弄ったか」
リアは何も言わない。
だが、その沈黙が答えだった。
家の戸が一つ、細く開いた。
村長が青ざめた顔を覗かせる。
「あ、あれは……いったい……」
「まだ外へ出ないでください」
リアは即座に言った。
「周囲の確認が終わるまで、戸を閉めていてください」
「は、はい……!」
村長が慌てて戸を閉める。
クランは周囲を見た。
静かすぎる。
獣を倒したにしては、静かすぎた。
先ほど見えた別の影。
家畜小屋の裏手。
赤い光。
嫌な感覚が、背中を這った。
その時だった。
村の奥から、悲鳴が上がった。
「いやあああああっ!」
若い女の声だった。
クランは走り出していた。
リアもすぐに続く。
アリシアが遅れないよう、小さな足音を立てて追ってくる。
悲鳴の上がった家の前には、若い女性が膝をついていた。
顔は涙で濡れ、髪も乱れている。
「妹が……妹がいないんです!」
震える声だった。
「さっきまで、隣に……隣にいたのに……!」
クランの顔つきが変わった。
「裏は」
女性は泣きながら首を振る。
「わ、分かりません……音がして、怖くて、それで……気づいたら……!」
クランは家の横へ回った。
裏戸の掛け金が外れている。
内側から開けられたのか。
あるいは、開けさせられたのか。
足元には、小さな血痕が落ちていた。
土には引きずられた跡。
その横を、獣じみた爪痕が複数、森へ向かって続いている。
クランはしゃがみ込み、土を指で触れた。
まだ新しい。
遠くない。
リアが隣へ来る。
彼女の顔にも、はっきりと悔しさが浮かんでいた。
「囮……だったのですね」
「ああ」
短く答える。
あの屋根の上の一体は、村の目を引くためのものだった。
クランとリアをそこへ釘付けにするためのもの。
その間に、別の何かが人を攫った。
アリシアが森の方を見つめている。
小さな肩が震えていた。
「……いっぱい、いる」
クランは立ち上がる。
剣についた血を払う。
「まだ遠くない」
短く言い、森へ続く跡を見た。
「行くぞ」
リアは迷わず頷いた。
「必ず助けましょう」
その言葉に、クランは答えなかった。
ただ、足跡の先へ目を向ける。
森の奥で、赤い光が揺れていた。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
闇の中に浮かぶそれは、まるでこちらを見つめる眼のようだった。
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