第22話 餌と完成品
扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。
静かすぎる。
生活の痕跡は、まだ残っていた。
古びた棚。
床に転がった器。
使われたまま放置された布。
壁際に積まれた薪。
それらは確かにそこにあるのに、人の暮らしだけが抜け落ちている。
クランは無言で中へ入った。
床板を踏む音が、やけに大きく響く。
リアも剣を構えたまま続いた。
アリシアはクランの背後に半歩隠れ、部屋の奥を見つめている。
「……ここ、いや」
小さな声だった。
だが、その震えははっきりしていた。
クランは返事をしない。
代わりに、周囲へ目を走らせた。
入口。
窓。
天井。
床の染み。
壁際の影。
そして、奥へ続く薄暗い通路。
ここは、ただ人が住まなくなった家ではない。
誰かが使っている。
それも、人を入れるためではなく、出さないために。
奥へ進む。
そこで、見つけた。
壁際に数人。
さらに奥にも、倒れている影がある。
リアが息を呑んだ。
だが、クランはすぐには近づかなかった。
部屋の中央。
壁際。
天井の梁。
退路。
まず、それを見る。
倒れている者たちは、全員衰弱していた。
服は汚れ、手足には縄で擦れた跡がある。呼吸は浅く、顔色も悪い。
それでも――生きている。
「……生存者です」
リアの声に、わずかな安堵が混じった。
彼女は膝をつき、近くにいた少女の手を取る。
「大丈夫です。もう、ここにいます」
震える指を包むように、そっと握った。
少女は声も出せないまま、かすかに目だけを動かした。
クランはそれを横目で見ながら、部屋の奥へ意識を向ける。
生存者たちは壁際に寄せられていた。
部屋の中央は、不自然なほど空いている。
簡易的な檻。
床に残る、乾いた血。
鼻を刺す、薬品の匂い。
木材に染みついた獣臭。
そして、床板に刻まれた細い溝。
何かを引きずった跡ではない。
何度も、同じ位置に重いものを置いた跡だ。
「……人の手によるものです」
リアの声が低くなる。
クランは答えなかった。
ここは、ただ閉じ込めるための場所ではない。
中央を空けている。
何かを落とすために。
何かを置くために。
あるいは──何かを食わせるために。
アリシアが、クランの袖を握る。
「くらん……」
「離れるな」
短く返す。
その時だった。
「――駄目ですよ」
部屋の奥、板壁に紛れるような扉のそばから、軽い声がした。
あまりにも、この場にそぐわない声だった。
クランは振り向く。
いつの間にか、そこに男が一人立っていた。
細身の体。
整った衣服。
眼鏡の奥で、目だけがわずかに歪んでいる。
清潔な身なりをしているのに、その立ち姿だけが、この腐った空気にひどく馴染んでいた。
「あまり触らないでください。減ると困るんですよ」
男は、壁際の生存者たちへ視線を向ける。
「せっかく集めた餌なんですから」
クランの視線が、わずかに落ちた。
倒れている者たち。
浅い呼吸。
まだ残っている体温。
生きている。
その上で――餌。
再び、男を見る。
「……餌、か」
短く、それだけだった。
リアが立ち上がる。
「……人を、そのように呼ぶのですか」
静かな声だった。
だが、そこには明確な拒絶があった。
男は首を傾げる。
「呼び方の問題ですか?」
少し考えるように目を細める。
「分かりやすい方がいいでしょう?」
悪びれない。
むしろ、本気で疑問に思っているようだった。
リアの指が、剣の柄に強くかかる。
だが、彼女は踏み出さない。
背後には、生存者がいる。
隣には、アリシアがいる。
怒りだけで動けば、守るべきものを危険にさらす。
その判断を、リアは飲み込んでいた。
「……あんたがやったのか」
クランの声は低い。
男は軽く会釈した。
「僕はゲイツ・ヴァルグです。こちらでは、紋章魔術の実験を少々」
名乗りは丁寧だった。
だが、そこに罪悪感はない。
ゲイツは視線をゆっくりと周囲へ巡らせる。
壁際の生存者。
床の血。
空の檻。
そして、部屋の中央に空けられた場所。
それらを、人ではなく道具の数を確認するように眺めていた。
「村に向かわせた個体も、思ったよりよく動いてくれました。もっとも、少し騒がしくしてしまったせいで、こうして来客を招いてしまったわけですが」
楽しげな声だった。
クランは何も言わない。
余計な言葉は要らない。
見るべきものは、ゲイツの位置。
生存者の距離。
リアの立ち位置。
アリシアの位置。
そして、天井。
部屋の中央が、空いている理由。
「さて、せっかくですし」
ゲイツが微笑む。
「あなた方には、実験に付き合ってもらいましょうか」
嫌な予感が、確信に変わる。
アリシアがクランの服の裾を握った。
「……くらん」
「下がれ」
短く告げる。
同時に、クランはリアの腕を引いた。
リアは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに動いた。
アリシアを戸口側へ下がらせ、生存者たちの前へ回る。
その直後。
天井が、内側から破裂するように崩れた。
轟音と粉塵が、部屋を満たす。
部屋の中央へ、巨大な影が落ちてきた。
地面を砕きながら叩きつけられたそれは、生き物の形をしていながら、どの生き物にも属していなかった。
獣の脚。
魔物の爪。
異様に膨れた肉。
歪につなぎ合わされた骨格。
裂けた皮膚の隙間から覗く、赤黒い肉。
そして、体のあちこちで赤い紋章が脈打っている。
生存者たちは壁際にいた。
かろうじて崩落には巻き込まれていない。
だが、少しでも暴れれば巻き込まれる。
逃げ場は狭い。
出口は一つ。
ゲイツは奥。
生存者は背後。
アリシアは戸口側。
リアは、その前。
クランの中で、状況が一瞬で組み上がる。
リアの息が止まった。
「……っ、これは……こんな……ものが……」
言葉が途切れる。
魔物ではない。
だが、人でもない。
リアは一歩下がる。
だが、それは恐怖で退いたのではない。
生存者とアリシアを守るための位置へ移ったのだ。
「……なるほど。これが、この場所の目的ですか」
リアの声は硬かった。
ゲイツは満足げに頷く。
「合成魔獣キメラ、と呼んでいます」
崩れた天井から降りてきた異形を、愛おしそうに見上げる。
「どうです。なかなかの出来でしょう?」
名を呼ばれたそれが、ゆっくりと顔を上げる。
いくつもの獣の特徴が混ざった顔。
片方だけ大きい眼。
歯並びの合わない顎。
呼吸するたび、胸元の紋章が赤く灯る。
クランはキメラを一瞥すると、剣を構えた。
思考は一瞬で切り替わっている。
崩れた天井。
敵の姿。
守るべき対象。
退路。
ゲイツの位置。
すでに余裕はない。
「それを倒せたら――」
ゲイツが軽く指を向ける。
「その餌ども、持って帰ってもらって構いませんよ」
楽しそうに目を細める。
「まあ、あなた方にできたらですけど」
わずかに笑う。
「できなければ、餌には役目を果たしてもらうだけです」
リアの表情に、はっきりと不快感が滲んだ。
だが、彼女は前に出ない。
生存者とアリシアの前に立ち、守るための位置を取っている。
対して、クランは一歩前へ出た。
キメラとの距離を詰めるためではない。
後ろへ行かせないための一歩だった。
「後ろは任せた」
短く。
振り返らない。
リアは頷く。
「任せてください」
その声と同時に、キメラが動いた。
空気が震える。
クランは剣を握り直した。
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