第35章 なぜ?
自分が予期していないことが起こると、人は、よく思う。
「なぜ、こうなってしまったのだろうか?」
それは、自分本位な想像の始まり?
それとも、後悔の始まりだろうか?
はたまた、新たなる探求へのスタートだろうか?
いずれにしても、安易に、「なぜ?」という疑問を持つことはお勧めできない。
真実とは、簡単に見いだせないものである。
多くの場合、その理由を確定させるためには多くの手間と時間を要するものであり、調べたところで成果が薄い場合が多い。
「なぜ?」という疑問から想像が独り歩きすると、陥りやすいのは、疑心暗鬼という奴だ。しっかりと理由を調べもせずに、何の根拠もない想像により理由を決めてしまう。
こういう人間は、デマに騙されやすい。だいたい、デマというのは馬鹿でもわかるような単純論理で形成されている。真実の理由や原理が複雑であるほど、単純明快なデマに騙されるという理屈である。
なぜを連発する輩ほど、確証データを軽く見る傾向があるのは確かだ。
疑心の次に問題なのが、後悔である。
「あの時、こうしていれば、こうはならなかった。」という後悔。
時は不帰。
後悔先に立たず。
ことわざにもあるように、後悔しても仕方ない場合が多い。原因を掘り下げて、改善策のネタや教訓とするのであれば良いのだが、そうでない場合、後悔してもプラスにはならない。
「なぜ?」という疑問は、思考範囲を拡大し、未知を探求するのに役立つ疑問詞である。しかし、「なぜ?」を投げかけて得するのは、その理由を探求した場合に限られる。探求する気がないならば、そんな疑問は持たない方が良い。
先にも記したが、探求には、手間、時間、困難が付きまとう。であれば、それなりの覚悟を持ってやらなければならない。
それが面倒であるなら、理由はともかく、そうなっているという事実だけを認識すればいいのだ。余計なことは考えない方が良い。
おおよその場合、それで十分なはずである。
「なぜ?」という言葉は、ある意味で、認めたくない心の表れでもある。
「私は、こうあるべきだと思っているのに、なぜ、こうなってしまっているの!」
「認めたくない!」
「昨日まで、こうなっていたのに、なぜ、今日はこうなの?」
「これは、誰かの陰謀ではないの?」
大昔の人は、なぜ、雷が落ちるかを知らなかった。
「なぜ、雷は落ちるのだろう?」と思った人々が、その時代に本当の理由に行きつくことはなかったのだ。
なので、雷神なる偶像が現れ、竜が暴れているなどということになったのである。その頃の人々の知識では、電荷の蓄積や絶縁破壊の論理に行き着くことはできず、無理やり理由をつけた結果、そうなってしまったのだろう。
そこには、何かに理由を付けなければ気が済まない人間の本性が現れている。
理由を知ったところで、何も変わりはしないのだが、少しは恐怖が薄れ、疑心暗鬼をなだめることができるからかもしれない。だから、雷神様という答えが必要であったのだと推察する。
現在においても、似たようなことが多々ある。
雷神様のような不利益をもたらさない偶像であれば良いのだが、劣悪なフェイクに誘導されては始末が悪い。
だから、探求する気がないのであれば、「なぜ?」という言葉は極力使わない方が良い。フェイクを呼び出す合言葉になりかねない。
勝手な想像は、いつしか妄想と化し、妄想は悪鬼を呼び出し、破滅へと導くものとなる。
人は必ずしも社会規範に従って生きる必要はない。
良いことばかりする必要もない。
ただ、この世界の存続を妨げてはいけない。
また、人々の幸福を破壊してはいけない。
だから、「なぜ?」という言葉を使う時には、少しだけ考えてほしいと思う次第である。少なくとも、どうでも良いことに、「なぜ?」という疑問は持たない方がいい。
ただ、ありのまま、認識するだけにしておいた方が絶対に良い。




