第7話 妹、上京す
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
麻衣さんの、あの下着事件から、一週間ほど。
俺の新生活は、相変わらず、綱渡りだった。
右隣には、正体を隠した推し。左隣には、素顔を知られた上司。どちらに対しても、俺は必死に平静を装い、煩悩を退散させ続ける、修行僧のような日々を送っていた。
そんな、ある日の休日だった。
ピンポーン、と、間の抜けたチャイムが鳴った。
(宅配便かな)
俺は、何の警戒もなく、玄関のドアを開けた。
――そこに立っていたのは。
「お兄ちゃんっ! 久しぶりっ!」
満面の笑みで、俺の胸に飛びついてきたのは。俺の、六つ下の妹――佐藤唯だった。
ぎゅう、と胸に抱きついてくる妹。その、触れた瞬間だった。
大量の“声”が、頭の中へ、なだれ込んできた。
《はわわわっ! ほんものの、お兄ちゃんだぁ! 会いたかったぁ! だだだだいすきっ! ぎゅ〜ってしたいっ……! ……はっ、油断禁物。変な女は近づけないっ。だいすきだからこそ、ね!》
「うわっ……!? な、なんだ、この声は……!?」
思わず、頭を押さえる。前に一瞬よぎった“空耳”とは、比べ物にならない。耳元で、誰かが全力で叫んでいるみたいだ。
「……お兄ちゃん? 急に、どうしたの。どこか、具合でも悪い?」
抱きついたまま、唯が心配そうに見上げてくる。今の“声”を、口にした様子は、まるでない。その瞳で、俺は、はっと我に返った。
(……いかん。妹の前で奇声だなんて、あやしすぎる)
「い、いや、なんでもない。立ちくらみだ。……って、それより」
「なんで、お前がここにいるんだよ、唯!?」
「なんでって、ひどくない? 私、四月から、こっちの大学なの。三月のうちに引っ越そうと思って、今、部屋を探しててね。そのついでに、お兄ちゃんの様子も見に来てあげたってわけ」
「なるほど、部屋探しか……。四月入学なら、三月には越しておきたいもんな。って、三月って、もう来月じゃないか。ずいぶん急だな」
「うん。本当はね、実家からでも、どうにか通えなくはないんだけど……。お母さんが、ある条件だったら、一人暮らししていいよって」
「ん? ある条件って?」
「それは……ないしょー」
唯は、いたずらっぽく笑って、人差し指を、口の前にちょこんと立てた。
そうして、こちらの返事も待たず、ずかずかと部屋に上がり込んでくる。
昔から、俺のあとを、ちょこちょことついて回っていた妹だ。少し大人びたけれど、その人懐っこさは、昔とちっとも変わっていない。
――そして、部屋に一歩、足を踏み入れた唯は。
ぴたり、と立ち止まった。
「……お兄ちゃん。この部屋」
「な、なんだよ」
「あいっかわらず、華ちゃんだらけだねぇ……」
壁一面に貼られた、華ちゃんのポスター。棚にずらりと並んだ、缶バッジとアクスタ。天井から吊るされた、ライブのタオル。俺の六畳一間は、どこを見ても、華ちゃんで埋め尽くされていた。
「もう。十年経っても、ぜーんぜん変わってないんだから」
唯は、あきれたように、けれど、どこか嬉しそうに、笑った。
こいつは昔から、俺のこの「華ちゃん愛」を、いちばん間近で見て育ってきた。握手会のために夜行バスへ飛び乗る俺。新曲の発売日に、わざわざ有給を取る俺。そんな、我ながら救いようのない姿を、なぜか、いつもあたたかい目で見守ってくれていた。
「まったく、この変態っぷりも、ここまでくると、いっそ清々しいよね」
(変態は、余計だ)
「でもまあ……ちょっと安心したかも。こーんなに部屋中華ちゃんだらけじゃ、さすがに、他の女の人が近寄る隙なんて、ないだろうしね」
唯は、うんうん、と一人で納得したように、うなずいている。
(そ、そうだ! その調子で、安心しておいてくれ……!)
――と、俺が胸をなでおろした、まさに次の瞬間だった。
唯が、ふと、くんくん、と鼻を鳴らした。そして、その笑顔が、すうっと消えていく。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「な、なんだよ」
「なーんか、この部屋……華ちゃんの匂いに混じって、別の、女の人の匂い……しない?」
「なっ……!?」
どきん、と心臓が跳ねた。
(ば、ばれた!? いや、待て、落ち着け。麻衣さんが泊まったのは、もう一週間も前だぞ。今さら、匂いなんて、残ってるわけが……!)
(……いかん。思い出すな、俺。あの夜の、とろんと潤んだ目も。腕の中の、やわらかい重みも。桜色の、あの……! ぜんぶ忘れるって、約束しただろうが……!)
「き、気のせいだろ。だいたい、一週間も経てば……いや、そもそも、俺の部屋に、女の人なんて、来るわけ――」
「一週間?」
(あ)
「ふうん……。お兄ちゃん、今、さらっと、一週間って言ったよね。なーんで、そんな、やけに具体的な数字が、ぱっと出てくるのかなー?」
「そ、それは、その……言葉の、あやというか……!」
墓穴だった。自分で掘った、深い、深い墓穴だった。
「じゃあ、これは?」
唯が、すっと指でつまんで差し出したのは。ソファのすみに落ちていた、一本の、長い髪の毛だった。
(あ゛)
「……お兄ちゃんの髪、こんなに長くないよね? ねえ、これ、誰の髪の毛なの!?」
「そ、それは、その……!」
説明できるはずが、なかった。
これはおそらく、一週間前に泊まっていった、麻衣さんのものだ。だが、そんなこと、言えるわけがない。直属の上司と、一夜を――健全に、だが――共にしたなんて知られたら、それこそ、本物の修羅場になる。
「まさか、まさかとは思うけど……この部屋に、女の人、泊めたり、してないよね? ねえ、お兄ちゃん! こっち見て、目を見て言ってよ!」
「と、泊めてない! 断じて、泊めてないぞ!」
嘘だった。泊めた。ばっちり、泊めた。しかも、酔い潰れた上司を。
「……ふうん。お兄ちゃん、嘘つくとき、右上を見るクセ、まだ直ってないんだ」
「うぐっ」
「しかも今、思いっきり、目も泳いだよね?」
「うぐぐっ」
(う、うわあ……どんどん、ドツボにはまっていく……!)
妹の追及は、鋭く、そして、どこまでも止まらない。俺はしどろもどろになりながら、必死に言い訳を探すが、口から出てくるのは、意味をなさない言葉ばかりだった。
ひとしきり俺を問い詰めたあと、唯は、腕を組んで、ふん、と鼻を鳴らした。
「……決めた」
「な、何をだよ」
「私、上京したら、お兄ちゃんと一緒に住む。そうすれば、変な虫がついても、その場で追い払えるもんね」
「はあ!?」
とんでもない、爆弾発言だった。
「だ、だめだめ、絶対にだめだ! なんで、いい歳して、妹と同居しなきゃいけないんだ! お前は、自分の大学の近くに、部屋を借りて住めよ!」
「むー……。お兄ちゃんの、ケチ。せっかく、心配して来てあげたのに」
唯は、ぷくっと頬をふくらませる。まだあどけなさの残る、その顔は、正真正銘、俺の妹のものだ。
(……いや、絆されるな、俺。ここで折れたら、とんでもないことになる)
……が。その数秒後。妹の目が、きらん、と光ったのを、俺は見逃さなかった。
「……わかった。じゃあ、同居は、あきらめる」
「お、おう。わかってくれたか」
「うん。同居は、ね」
なにやら、やけに含みのある言い方だった。
「その代わり――私、部屋、この“すっごく近く”で、探すことにするから。お兄ちゃんに悪い虫がつかないか、ちゃーんと見張れる距離で、ね」
「……は?」
いやな予感が、した。
――そういえば。さっき、こいつは言っていた。母さんが出した、「一人暮らしの、ある条件」。
(まさか。その条件ってのが……お兄ちゃんの、近くに住むこと……とか?)
いや、まさか。いくらなんでも、そんな偶然みたいなこと、あるはずが――。
だが、このときの俺は、まだ知らなかった。
母さんが唯に出した「ある条件」の、正体も。
そして、この妹が口にした「すっごく近く」という言葉が、俺の想像の、はるか斜め上をいく意味だったことも――。
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