第56話 壁越しの、想い
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
それから数日、俺は部屋に閉じこもっていた。
仕事は在宅でこなし、食事は最低限。誰とも顔を合わせないようにして、ただ、自分の中のぐちゃぐちゃした気持ちと、にらめっこを続けていた。
考えれば考えるほど、わからなくなる。
俺は、誰が、いちばん大切なんだろう。この体質を治すために、一人を選ぶべきなんだろうか。でも、そう考えると、胸が苦しくなる。まるで、誰かを選ぶことが、他のみんなを、切り捨てることみたいで。
――こんこん、と。
壁の向こうから、軽いノックの音がした。
俺の部屋、102号室と、隣の103号室を隔てる、薄い壁。その上のほう、ちょうど収納の裏あたりに、古い建物ゆえの小さな隙間がある。以前、うっかりぶつけて空いてしまった、俺と華ちゃんだけの、秘密の穴だ。
「……ねえ、君。生きてる?」
華ちゃんの声だった。素顔の、ため口。
「……生きてます」
「嘘くさい声。……ここ何日か、ぜんぜん出てこないじゃない。麻衣さんも葵も、心配してたわよ」
「……すみません」
「で? なにを、そんなに悩んでるのよ」
壁越しの声は、いつもより少しくぐもって、そのぶん、やけに近く感じた。顔が見えないぶん、かえって、素直に話せる気がした。
◇
「……最近、自分が、よくわからないんです」
俺は、膝を抱えて、壁にもたれながら、ぽつりと言った。
「ずっと、華ちゃんを、推し続けてきたはずなのに。……なんか、その気持ちが、よくわからなくなって」
「……ふうん」
「昔は、こう……華ちゃんのことを想うと、胸が、いっぱいになったんです。それこそ、この十年、ずっと。……なのに、最近は、その、“推し”の感じが……なんだか、遠くて」
華ちゃんの、心の声が、聞こえない。その事実を、正体は伏せたまま、それでも、いちばん近い言葉で伝えようとする。
「……もしかしたら、俺、華ちゃんへの気持ちが、消えちゃったのかもしれない。ずっと憧れてたのに。……最低ですよね、こんなの」
しばらく、壁の向こうは、静かだった。
やがて、ふ、と、華ちゃんが笑う気配がした。
「……あのさ、君」
「はい」
「べつに、いいんじゃないの。それで」
「……え?」
「君が、私をずっと推し続けてくれなくても。……君と私が、一緒にいて、楽しければ。それで、いいじゃない」
思いがけない言葉に、俺は、顔を上げた。
「そりゃあ、一方的に推されるのは、嬉しいわよ。十年もね、ずっと応援してもらって。……あんな一途なファン、そうそういないもの」
華ちゃんの声は、いつものツンとしたものとは違って、どこか、やわらかかった。
「でも、ね。……最近、思うの」
「……なにを」
「その“推し”ぐらいに。……ううん、それ以上に。……私が、君を想う気持ちのほうが、強くなっちゃったのかな、って」
――どくん、と、心臓が、大きく跳ねた。
◇
「……え。それ、って」
「言わせないでよ、ばか」
壁の向こうで、華ちゃんが、ぷい、とそっぽを向く気配がした。声が、少し、赤くなっている。
「……あのね。私、アイドルでしょ。ファンから“好き”を向けられるのには、慣れてるの。それが仕事みたいなものだし。……ずっと、そういう“推される側”で、生きてきた」
「はい」
「でも、君は違った。……最初は、ただの、しつこいファンだと思ってたのに。気づいたら、隣にいて。……私の、素顔も、だらしないところも、ぜんぶ知ってて。それでも、平気な顔で、そばにいて」
小さな穴越しに、華ちゃんの息づかいが、すぐそこに聞こえる。
「……そうしてたら、いつのまにか。“推されて嬉しい”より、“この人のこと、もっと知りたい”のほうが、大きくなってた。……こんなの、初めてなんだから」
俺は、言葉を失っていた。
――華ちゃんが。あの、ステージの上で、何万人ものファンに愛される、あの華ちゃんが。俺なんかを、想ってくれている。
その事実は、聞こえなくなった心の声の、どんな数字よりも、まっすぐに、胸に届いた。嬉しくて、泣きそうなくらいに。
――だけど。
その嬉しさと、同時に。俺の胸の奥では、別の感情が、じくり、と痛んだ。
(……俺は)
華ちゃんの、この、まっすぐな想いに。……俺は、胸を張って、応えられるんだろうか。
だって、俺は。
(……最近、麻衣さんといても、安らいで。……葵ちゃんといても、あたたかくて)
華ちゃんだけを、想っているわけじゃ、ない。みんなのことが、大切で。みんなのそばに、いたいと思ってしまう。
(……そんなの。……ただの、浮気者じゃ、ないか)
こんなに一途に想ってくれる華ちゃんに、俺は、一途を返せない。それがどうしようもなく、後ろめたかった。
◇
「……君? どうしたの、黙って」
「……いえ」
「……はっきりしないやつね」
華ちゃんが、呆れたように笑う。けれど、その声は、責めるものじゃなかった。
「まあ、いいわ。……今すぐ、答えを出せなんて、言わない。……ただ、ね」
「……はい」
「ひとりで、抱え込むのだけは、やめなさい。……君の、悪い癖よ、それ」
――麻衣さんと、同じことを言う。
「私は、ここにいるから。……壁一枚、隔てただけの、すぐ隣に。……ちゃんと、待ってるから」
こつん、と、壁の向こうから、指で叩くような音がした。まるで、そこにいるよ、と教えるみたいに。
「……じゃ、おやすみ。ちゃんと、寝なさいよ」
そう言って、華ちゃんの気配は、壁の向こうへ、遠ざかっていった。
一人残された部屋で、俺は、膝を抱えたまま、動けなかった。
華ちゃんの想いは、嬉しい。飛び上がりたいくらいに、嬉しい。
なのに、その想いを、まっすぐに受け取れない自分が、いる。みんなを大切に思う気持ちが、ぜんぶ本物で、だからこそ、一人を選ぶことなんて、できそうになかった。
(……俺は、どうすればいいんだ)
答えは、やっぱり、出なかった。ただ、壁の向こうに、確かに感じた、あのあたたかな気配だけが、いつまでも、胸の奥に残っていた。
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