第55話 安らぐ時間
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
「――今日は、付き合ってもらうからね」
仕事帰り、麻衣さんにそう言われて連れてこられたのは、意外にも、静かなバーだった。
いつもなら、話があるときはオフィスの会議室か、せいぜい近くの喫茶店だ。薄暗い照明に、磨かれたカウンター。棚に並ぶ酒瓶がやわらかく光を返すこの空間は、どうにも、麻衣さんらしくない。
「……麻衣さん。あの、こういうお店、大丈夫なんですか」
「な、なによ。私だって、たまには、こういうところくらい」
そう言いながら、麻衣さんがマスターに頼んだのは、可愛らしい色をしたカクテルだった。ずいぶんと度数の低そうな一杯だ。
――そう。この人は、極度の下戸なのだ。一口で顔が真っ赤になり、二口目には、いつもの頼れる先輩がどこかへ消えてしまう。
「……ほんとに、飲むんですか、それ」
「ば、馬鹿にしないで。今日はね、佐藤くんと、ちゃんと話がしたいの。だから、雰囲気づくり」
そう言って、麻衣さんは、ぐい、と一口。
……三秒で、頬が桜色に染まった。
◇
「……でね、佐藤くん」
「はい」
「最近、元気、ないでしょ」
とろん、とした目で、麻衣さんが俺を見る。まだ一口しか飲んでいないのに、もう瞳が潤んでいた。
「別に、そんなことは」
「嘘」
ぴしゃりと、麻衣さんが言い切った。酔っていても、こういうときの勘は、恐ろしく鋭い。
「佐藤くんはね。……いつも、自分で、ぜんぶ抱え込んじゃう癖があるから。すぐ顔に出るのよ」
「……そう、ですか」
「そうよ。……あの時だって、そう」
あの時、というのが、いつのことを指すのかはわからなかった。けれど、麻衣さんの声には、俺のことをずっと見てきた人だけが持つ、確かな重みがあった。
「困ってるなら、困ってるって、言えばいいのに。……ひとりで、平気なふりして。……見てて、危なっかしいったら」
ぷう、と麻衣さんが唇を尖らせる。……この人は、こうして、いつも俺の見えないところまで、ちゃんと見てくれている。
――そこで、俺はふと思う。
今の俺には、麻衣さんの本音は聞こえない。触れても、心の声は流れてこないし、好感度の数字も浮かばない。
それでも。
(……この人が、俺を心配してくれているのは。……ちゃんと、わかる)
言葉と、表情と、少し赤くなった鼻の頭と。それだけで、じゅうぶんだった。
◇
「……あのね、佐藤くん」
カクテルを半分ほど空けたあたりで、麻衣さんの目が、いよいよ据わってきた。甘えん坊モードの、始まりだ。
「そういうときは、ね」
「はい」
「……お姉さんの、胸に。……飛び込んで、きなさい!」
どん、と自分の胸を叩いて、麻衣さんが胸を張る。
……そのはずみで、スーツの胸元が、たぷん、と揺れた。俺は慌てて目を逸らす。
「い、いや、それは、さすがに」
「なんでよ! 私、お姉さんなんだから。後輩の、ひとりやふたり、受け止めるくらい、余裕なんだからね!」
自信満々に、ふんす、と鼻を鳴らす麻衣さん。……なのに。
「……あ、で、でも、ま、まあ、その。……む、無理にとは、言わないけど……っ」
言い終わる頃には、耳の先まで、真っ赤になっていた。
――結局、この人は、そうなのだ。頼れる先輩を演じようとして、いつも、自分の照れに、負けてしまう。
(……本当に、かなわないな)
俺は、思わず、ふっと笑ってしまった。
「なっ、な、なに笑ってるのよ!」
「いえ。……ありがとうございます、麻衣さん。ちょっと、元気、出ました」
「……ほ、ほんと?」
こてん、と首をかしげる麻衣さんの、その無防備な仕草に。……なぜだろう、胸の奥が、あたたかくなる。
◇
それから俺たちは、とりとめのない話をした。
仕事の愚痴。昔の失敗談。麻衣さんの部屋の、乙女すぎる趣味のこと。麻衣さんは、酔うほどにころころと表情を変えて、笑ったり、拗ねたり、うとうとしたりした。
その一つひとつを、俺は、ただ静かに、隣で見ていた。
声は、聞こえない。心の中まで、覗くことはできない。
それでも――この時間は、驚くほど、安らいだ。
以前は、相手の本音が“聞こえる”ことで、安心していた。数字が、そばにいていいと、保証してくれるみたいで。けれど今、隣で無防備に微笑む麻衣さんといる、この穏やかな時間には、そんな保証なんて、いらなかった。
ただ、そばにいるだけで。……ほどけていく。
(……この安心は。……なんなんだろう)
葵ちゃんといるときの、あの、居心地のよさとも、少し違う。もっと、深いところで、力が抜けていくような。
「……佐藤くぅん」
いつのまにか、麻衣さんが、こてん、と俺の肩に頭を預けてきた。すう、すう、と、規則正しい寝息が聞こえる。……見事に、寝落ちだ。
「……まったく」
俺は、ため息をつきながらも、その寝顔を、そっと見下ろす。
肩に伝わってくる、あたたかい重み。石けんの、ほのかな匂い。……それだけで、俺の胸は、不思議なくらい、満たされていた。
(……声なんて、聞こえなくても)
俺は、麻衣さんが風邪をひかないように、そっと自分の上着をかけてやりながら、思う。
(……ちゃんと、伝わってくるものが、あるんだな)
窓の外を、車のライトが、ゆっくりと流れていく。静かなバーの片隅で、その安らぎの正体を、俺はまだ、うまく言葉にできずにいた。
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