第53話 消えた、声
早くも最終章です。一連の作品を作る難しさを知りました。
最後まで読んでいただけると嬉しいです!
最初に異変を感じたのは、ほんの些細な瞬間だった。
朝、ゴミ出しの帰り道。廊下で鉢合わせた麻衣さんが、よろけた拍子に、俺の腕にとん、と手をついた。
「あ、ごめんね、佐藤くん」
「……いえ」
――そこで、俺はふと違和感を覚えた。
(……あれ?)
いつもなら、人に触れられた瞬間、相手の“心の声”が頭の中に流れ込んでくる。俺の、この厄介で便利な力――《推し聞き》。
なのに、今は。
(……聞こえない)
頭の中は、しんと静かなままだった。麻衣さんの本音も、いつもなら頭の隅に浮かぶはずの好感度の数字さえも、ぴくりとも出てこない。
「……佐藤くん? どうしたの、ぼーっとして」
「あ、いえ。……なんでも、ないです」
たまたまだろう。そう思うことにした。
だが、その日を境に、俺の《推し聞き》はぱたりと鳴りをひそめてしまった。
◇
誰に触れても、聞こえない。
コンビニで釣り銭を受け取るとき、店員さんの指が触れても。満員電車で押し合っても。頭の中はずっと無音のままだった。
そして、いちばん俺をざわつかせたのは。
(……華ちゃんの声も、聞こえない)
十年、推し続けてきたあの人。以前は指先が少し触れただけで、あふれるように流れ込んできた華ちゃんの本音が、今はまるで聞こえないのだ。
(……まさか)
俺は鏡の前で青ざめた。
(……俺の中の“華ちゃんを推す”気持ちが、消えてしまったのか……?)
だとしたら、と思う。この声が聞こえる力は、“一途に誰かを想う”ことで育った器の力だったはずだ。
(……推しへの気持ちがなくなったから、力も消えた……?)
――いや。それだけじゃない。
あの、じいやの言い伝えが頭をよぎる。
女の子になる呪いは、“加護が祝福に転じたとき”に解ける。
(……つまり、この体質を治すには、結局“たった一人”をちゃんと選ばないといけないんだろうか)
華ちゃんか、麻衣さんか、葵ちゃんか。この中の誰か一人を――。
そう考えた瞬間、胸の奥が、なぜだろう、もやもやと重くなった。
(……なんだ、この気持ち)
◇
どうにも、一人では答えが出ない。
俺は悩んだ末に、ひとつだけ心当たりのある相手に連絡を取った。
「――で? わざわざ呼び出して、深刻な顔して。……なによ、あんた」
会社の同期、本間咲。昔から遠慮のない物言いで、俺のいちばん痛いところを平気で突いてくる女だ。
カフェの向かいの席で、彼女はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、俺をじろりと見た。
「……いや。ちょっと、聞いてほしいことがあって」
「あー、はいはい。恋バナね。……言っとくけど、私、隆と映画の約束あるから。手短にね」
「……隆さんと、順調なんだな」
「まーね。……で?」
(……こいつはこいつで幸せそうで、なによりだ)
俺は当たり障りのない範囲で打ち明けた。自分が最近、女性の“気持ち”がまるで読めなくなってしまったこと。そのせいで、自分が誰をどう思っているのかさえ、わからなくなっていること。もちろん、《推し聞き》の正体は伏せたままだ。
咲はしばらく黙って聞いていたが、やがて、はあ、とため息をついた。
「……あのさ。あんた、いま、ぐるぐる難しく考えてるけど」
「うん」
「結局いちばん大事なのは、“で、あんたはどうしたいのさ”。それだけでしょ」
「……どうしたいか」
「そう。あんたのまわりって、いま、すごい女の子が多いじゃない」
咲は指を折りながら続ける。
「ひとりは、あの隣の人。ずっとあんたが追っかけてた、憧れの人。なのに、いざそばに来たら、なんか恋愛って感じに見えないっていうか……“推し”のまま止まってる、みたいな」
(……華ちゃん、だ)
「もうひとりは、なんか頼れるお姉さんっぽい人。でも話を聞いてると、いざって時はめちゃくちゃ頼りになるくせに、普段は意外とポンコツで、あんたが世話を焼いてる、みたいな」
(……麻衣さん)
「で、最後は、やたら元気で危なっかしい子。なんていうか、まっすぐっていうか……素直すぎて、見ててハラハラする、みたいな」
「……なんで、俺が言ってもいないのに、そこまで」
「顔に書いてあんの。三人ぶん」
咲はにやりと笑った。本当に、油断ならない女だ。
◇
「……でもさ、あんた」
ふと、咲がストローを置いて、少しだけ真面目な顔になった。
「最近、気づいてる? あんた、前は口を開けば“華ちゃん、華ちゃん”だったのに」
「……え」
「あのアパートに住み始めてから、ぜんっぜん言わなくなったよ。“華ちゃん”って」
――どく、と心臓が跳ねた。
「そ、そんなこと……。いや、俺は、華ちゃん一筋のはずで」
「“はず”?」
咲が片眉を上げる。
「……自分の気持ちなのに、“はず”ってなによ」
言葉に詰まる。
(……そうだ。俺はずっと、華ちゃんがいちばんだと思ってきた、はずなのに)
なのに、最近の俺の頭の中を占めているのは、華ちゃんの笑顔だけじゃなかった。
麻衣さんの、困ったような優しい顔。葵ちゃんの、無邪気な笑い声。それに――女の子になった俺を心配してくれた、みんなのあたたかい手。
(……ぜんぶ大事で、ぜんぶ失いたくないなんて。……そんなの、ただの欲張りで、浮気者じゃないか)
◇
「……なあ、咲」
「ん?」
「……ひとつ、変なお願いをしてもいいか」
「なによ、気持ち悪い」
「……ちょっと、手を握らせてくれ」
咲がぎょっとした顔で椅子を引いた。
「はぁ!? あんた、私、隆がいるって言ったよね!?」
「ち、違う、そういうんじゃない! ……ちょっと、確かめたいことがあるだけで」
「……はぁ。意味わかんないけど。……ほら」
しぶしぶ差し出された咲の手を、俺はそっと握った。
……静かだった。
やっぱり、なにも聞こえない。
咲とは、そんなに好感度が高いわけじゃない。それでも以前なら、ノイズ混じりに単語くらいは聞こえていたはずなのに。
(……なんで、だ)
もし華ちゃんへの“推し”が消えたせいで力が消えたのなら、聞こえなくなるのは華ちゃんの声だけのはずだ。なのに、咲の声も、麻衣さんの声も、誰の声も聞こえない。
これは、“気持ちが消えた”んじゃない。
(……力そのものが、根こそぎ消えてしまっている……?)
「……ちょっと、あんた。手、離しなさいよ。……本当に、変な顔してるわよ」
「……あ、ああ。悪い」
俺は咲の手を離して、ぼんやりと天井を見上げた。
なぜ、力は消えたのか。そして力を失った俺は、このぐちゃぐちゃな気持ちと、どう向き合えばいいのか。
(……なんで。誰の声も、聞こえないんだ)
答えの出ない問いだけが、静かな頭の中に、ぽつんと取り残されていた。
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