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推し活のために退寮したら、隣の部屋(103号室)に「推し(本人)」が住んでいた。 ~推しすぎたせいか、心の声まで聞こえます~  作者: しまじろう
第5章|能力編 ――一途がすぎると、女の子になるらしい――

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第53話 消えた、声

早くも最終章です。一連の作品を作る難しさを知りました。

最後まで読んでいただけると嬉しいです!

 最初に異変を感じたのは、ほんの些細な瞬間だった。


 朝、ゴミ出しの帰り道。廊下で鉢合わせた麻衣さんが、よろけた拍子に、俺の腕にとん、と手をついた。


「あ、ごめんね、佐藤くん」


「……いえ」


 ――そこで、俺はふと違和感を覚えた。


(……あれ?)


 いつもなら、人に触れられた瞬間、相手の“心の声”が頭の中に流れ込んでくる。俺の、この厄介で便利な力――《推し聞き》。


 なのに、今は。


(……聞こえない)


 頭の中は、しんと静かなままだった。麻衣さんの本音も、いつもなら頭の隅に浮かぶはずの好感度の数字さえも、ぴくりとも出てこない。


「……佐藤くん? どうしたの、ぼーっとして」


「あ、いえ。……なんでも、ないです」


 たまたまだろう。そう思うことにした。


 だが、その日を境に、俺の《推し聞き》はぱたりと鳴りをひそめてしまった。


 ◇


 誰に触れても、聞こえない。


 コンビニで釣り銭を受け取るとき、店員さんの指が触れても。満員電車で押し合っても。頭の中はずっと無音のままだった。


 そして、いちばん俺をざわつかせたのは。


(……華ちゃんの声も、聞こえない)


 十年、推し続けてきたあの人。以前は指先が少し触れただけで、あふれるように流れ込んできた華ちゃんの本音が、今はまるで聞こえないのだ。


(……まさか)


 俺は鏡の前で青ざめた。


(……俺の中の“華ちゃんを推す”気持ちが、消えてしまったのか……?)


 だとしたら、と思う。この声が聞こえる力は、“一途に誰かを想う”ことで育った器の力だったはずだ。


(……推しへの気持ちがなくなったから、力も消えた……?)


 ――いや。それだけじゃない。


 あの、じいやの言い伝えが頭をよぎる。


 女の子になる呪いは、“加護が祝福に転じたとき”に解ける。


(……つまり、この体質を治すには、結局“たった一人”をちゃんと選ばないといけないんだろうか)


 華ちゃんか、麻衣さんか、葵ちゃんか。この中の誰か一人を――。


 そう考えた瞬間、胸の奥が、なぜだろう、もやもやと重くなった。


(……なんだ、この気持ち)


 ◇


 どうにも、一人では答えが出ない。


 俺は悩んだ末に、ひとつだけ心当たりのある相手に連絡を取った。


「――で? わざわざ呼び出して、深刻な顔して。……なによ、あんた」


 会社の同期、本間咲。昔から遠慮のない物言いで、俺のいちばん痛いところを平気で突いてくる女だ。


 カフェの向かいの席で、彼女はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、俺をじろりと見た。


「……いや。ちょっと、聞いてほしいことがあって」


「あー、はいはい。恋バナね。……言っとくけど、私、隆と映画の約束あるから。手短にね」


「……隆さんと、順調なんだな」


「まーね。……で?」


(……こいつはこいつで幸せそうで、なによりだ)


 俺は当たり障りのない範囲で打ち明けた。自分が最近、女性の“気持ち”がまるで読めなくなってしまったこと。そのせいで、自分が誰をどう思っているのかさえ、わからなくなっていること。もちろん、《推し聞き》の正体は伏せたままだ。


 咲はしばらく黙って聞いていたが、やがて、はあ、とため息をついた。


「……あのさ。あんた、いま、ぐるぐる難しく考えてるけど」


「うん」


「結局いちばん大事なのは、“で、あんたはどうしたいのさ”。それだけでしょ」


「……どうしたいか」


「そう。あんたのまわりって、いま、すごい女の子が多いじゃない」


 咲は指を折りながら続ける。


「ひとりは、あの隣の人。ずっとあんたが追っかけてた、憧れの人。なのに、いざそばに来たら、なんか恋愛って感じに見えないっていうか……“推し”のまま止まってる、みたいな」


(……華ちゃん、だ)


「もうひとりは、なんか頼れるお姉さんっぽい人。でも話を聞いてると、いざって時はめちゃくちゃ頼りになるくせに、普段は意外とポンコツで、あんたが世話を焼いてる、みたいな」


(……麻衣さん)


「で、最後は、やたら元気で危なっかしい子。なんていうか、まっすぐっていうか……素直すぎて、見ててハラハラする、みたいな」


「……なんで、俺が言ってもいないのに、そこまで」


「顔に書いてあんの。三人ぶん」


挿絵(By みてみん)


 咲はにやりと笑った。本当に、油断ならない女だ。


 ◇


「……でもさ、あんた」


 ふと、咲がストローを置いて、少しだけ真面目な顔になった。


「最近、気づいてる? あんた、前は口を開けば“華ちゃん、華ちゃん”だったのに」


「……え」


「あのアパートに住み始めてから、ぜんっぜん言わなくなったよ。“華ちゃん”って」


 ――どく、と心臓が跳ねた。


「そ、そんなこと……。いや、俺は、華ちゃん一筋のはずで」


「“はず”?」


 咲が片眉を上げる。


「……自分の気持ちなのに、“はず”ってなによ」


 言葉に詰まる。


(……そうだ。俺はずっと、華ちゃんがいちばんだと思ってきた、はずなのに)


 なのに、最近の俺の頭の中を占めているのは、華ちゃんの笑顔だけじゃなかった。


 麻衣さんの、困ったような優しい顔。葵ちゃんの、無邪気な笑い声。それに――女の子になった俺を心配してくれた、みんなのあたたかい手。


(……ぜんぶ大事で、ぜんぶ失いたくないなんて。……そんなの、ただの欲張りで、浮気者じゃないか)


 ◇


「……なあ、咲」


「ん?」


「……ひとつ、変なお願いをしてもいいか」


「なによ、気持ち悪い」


「……ちょっと、手を握らせてくれ」


 咲がぎょっとした顔で椅子を引いた。


「はぁ!? あんた、私、隆がいるって言ったよね!?」


「ち、違う、そういうんじゃない! ……ちょっと、確かめたいことがあるだけで」


「……はぁ。意味わかんないけど。……ほら」


 しぶしぶ差し出された咲の手を、俺はそっと握った。


 ……静かだった。


 やっぱり、なにも聞こえない。


 咲とは、そんなに好感度が高いわけじゃない。それでも以前なら、ノイズ混じりに単語くらいは聞こえていたはずなのに。


(……なんで、だ)


 もし華ちゃんへの“推し”が消えたせいで力が消えたのなら、聞こえなくなるのは華ちゃんの声だけのはずだ。なのに、咲の声も、麻衣さんの声も、誰の声も聞こえない。


 これは、“気持ちが消えた”んじゃない。


(……力そのものが、根こそぎ消えてしまっている……?)


「……ちょっと、あんた。手、離しなさいよ。……本当に、変な顔してるわよ」


「……あ、ああ。悪い」


 俺は咲の手を離して、ぼんやりと天井を見上げた。


 なぜ、力は消えたのか。そして力を失った俺は、このぐちゃぐちゃな気持ちと、どう向き合えばいいのか。


(……なんで。誰の声も、聞こえないんだ)


 答えの出ない問いだけが、静かな頭の中に、ぽつんと取り残されていた。

お読みいただきありがとうございました。

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