番外編・アパート住民の日常③ ゴキブリ掃討大作戦
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です
「きゃーーーー!」
夜。俺が、のんびり夜食を作っていると。壁の向こうから、耳をつんざく、悲鳴が響いた。
「うわっ! 今度は、何事だ!」
隣――101号室、麻衣さんの部屋からだ。
俺は、慌てて、部屋を飛び出す。まさか、また、あの部長絡みで、なにか――なんて、最悪の想像をしながら、麻衣さんの部屋のドアを、勢いよく開けた。
「麻衣さん、大丈夫ですか!?」
そして、俺は。麻衣さんの部屋の、その“脅威”の正体を、目撃した。
――ソレは、いた。
台所の壁を、つややかな黒い体で、我が物顔に、這っている。地球生物の、大先輩。……そう、ゴキブリだった。
「で……出たのぉ……!」
麻衣さんは、部屋の隅っこで、小さくうずくまって、がたがた、と震えていた。……なるほど。極度の下戸に、乙女趣味の部屋。そして、大の、虫嫌い。……この頼れる先輩は、本当に、意外な弱点だらけだ。
「あ、麻衣さん、そこ、危ないです。隅っこにいると、また、そっちに出てくるかも――」
「――ひぃっ!?」
俺の、なにげない一言で。麻衣さんの、恐怖が、限界を、突破した。
「むりむりむりっ、こっち来ないでぇっ……!」
うずくまっていた麻衣さんが、脱兎のごとく立ち上がると。……一直線に、俺のところへ、飛び込んできた。
「わっ、ちょ、麻衣さ――っ」
どすん、と。細い体が、俺の胸に、飛び込んでくる。
そして――ぎゅうっ、と。逃がすまいと、しがみついてきた、その拍子に。
俺の腕に、胸に。……やわらかくて、あたたかい、たっぷりとした“なにか”が、むにゅう、と、これ以上ないほど、密着した。
(――っ!? こ、これは……!)
薄手の部屋着越しに、伝わってくる、その、たしかな重みと、弾力。……ふだんの、きっちりしたスーツ姿からは、想像もつかない、女性らしい、豊かな感触。
(ぼ、煩悩退散……! 煩悩退散っ……! い、今は、それどころじゃ、ないだろ、俺!)
俺は、天井を仰いで、必死に、念仏を唱える。
「さ、佐藤くん、たすけてぇ……。あれ、やっつけて、やっつけてぇ……」
涙目で、ぐりぐりと、俺の胸に、顔を押しつけてくる麻衣さん。……もう、いつもの、頼れる先輩は、どこにもいない。ただの、涙目の、怖がりな女の子だった。
「わ、わかりました。……わかりましたから。とりあえず、ちょっと、離れて――」
「やだっ!」
……離れて、くれなかった。
---
――と。その、時だった。
麻衣さんの、動きが。……ぴたり、と、止まった。
「……ひっ」
「ど、どうしました?」
「……い、今。……なんか。……ひらり、って。……足に、なにか、当たった、ような……」
みるみる、麻衣さんの、顔から、血の気が、引いていく。
「……ま、まさか。……ま、待って。……ふ、服の、中に……っ!?」
「え、ええっ!?」
「や、やだやだやだっ……! ど、どこっ、どこにいるのっ……!?」
半ば、パニックで。麻衣さんが。……あろうことか、自分の、ワンピースの裾を、両手で、ぎゅっと掴んで。……たくし上げ、はじめた。
――ふわり、と。
白い、裾が、まくれ上がって。……すべやかな、太ももと。……その奥の、淡い色の下着まで。……あられもなく、俺の、目の前に、さらけ出される。
「さ、佐藤くんっ、探してっ……! 私の、服の中に、来てるかもっ……! ……お願い、見てぇっ……!」
「み、見てって……!? い、いやいやいやっ、無理です、無理ですっ……! め、目のやり場がっ……!」
俺は、慌てて、両手で、顔を、覆う。……だが、指の、隙間から。……うっかり、見えてしまいそうになる、その光景に。……俺の、心臓は、もう、破裂寸前だった。
(ぼ、煩悩退散っ……! ……って、さっきから、それしか、言ってないな、俺っ!)
「もーっ、なんで、見てくれないのっ……! ……ゴキブリより、佐藤くんが、たよりないっ……!」
「り、理不尽っ……!」
---
どうにか、麻衣さんを、少しだけ、落ち着かせて。俺は、ゴキブリ掃討――名付けて、【G掃討大作戦】を、開始することにした。
まずは、第一作戦。
「麻衣さん、殺虫剤、ありますか」
「……つ、机の、下の、棚に……」
スプレー缶を、手に取る。……よし。あとは、奴が、出てくるのを、待って、一撃で仕留めるだけだ。
「麻衣さん、じっとしててください。……もし、出てきたら、すぐに、噴きつけるんで」
「……う、うん」
麻衣さんは、俺の、シャツの袖を、きゅっと掴んだまま。俺の背中に、ぴったりと、隠れている。
――待つこと、一分。
……出てこない。
「……出て、こないですね」
「や、やだぁ……。どこ行ったのぉ……。……見えないほうが、こわいよぉ……」
(……たしかに。姿が見えないのは、それはそれで、こわいな)
---
そこで、第二作戦。
「……出てこないっぽいんで。俺、ゴキブリホイホイ、買ってきますよ」
「やだっ!」
麻衣さんが、袖を、ぎゅっと引っ張る。
「……あれ、だめ。……もし、いっぱい、かかってたら。……いっぱい、死んじゃうじゃない……。そんなの、見たくないもん……」
(……いや、退治したいのか、したくないのか、どっちなんだ)
怖いくせに、殺生は、いや。……なんとも、麻衣さんらしい、優しさだった。……や、優しさ、なのか?
---
仕方なく、第三作戦。
「じゃあ……毒エサタイプは、どうです。……これだと、どこにいるか、わからないですけど。巣ごと、全滅、させられますよ」
「……むむむ」
麻衣さんが、眉を、寄せる。……“見えないところで、いつのまにか片付く”という点が、お気に召したらしい。
「……じゃあ、それ」
「了解です。……じゃあ、買ってきますね」
俺が、玄関へ向かおうとした、その時。
「――ちょっと待って!」
麻衣さんが、俺の腕に、がしっと、しがみついた。
「……私を、置いて、いくの……!?」
「え、いや、でも。買うには、行かないと」
「だめっ!」
「えー……。じゃあ、どうすれば」
「……いっしょ、じゃなきゃ、やだ……」
(……子どもか)
「……ほんの、少しの時間ですから」
「やだやだ、やだぁ……!」
――結局。麻衣さんは、俺の腕に、しがみついたまま、離れなかった。
俺は、ため息をつきながら。しがみつく麻衣さんを、ずるずると、引きずるようにして、玄関へと、向かう。
(……この距離感、いろいろ、心臓に、悪いんだが……!)
――と。
その、まさに、玄関に、たどり着こうとした、絶妙なタイミングで。
かさ、と。
視界の、隅。……靴箱の、脇から。ソレが、ひょっこりと、姿を、現した。
「――で、出たあああっ!!」
麻衣さんの、悲鳴が、爆発する。
「きゃーっ、きゃーっ、いやーっ! あっち行って、あっち行ってぇっ!」
パニックに、なった麻衣さんが、俺の腕の中で、めちゃくちゃに、暴れ回る。
「ま、麻衣さん、落ち着い――ぐあっ!?」
振り回された手が、思い切り、俺の頬を、ビンタした。ぱぁん、といい音がする。
(な、なんで、俺が、殴られ――)
だが、次の瞬間だった。
パニックの、極限で。麻衣さんが、手にしていた、スリッパを。……渾身の力で、振り下ろした。
――パチン!
見事な、一撃。……つややかな黒い大先輩は、あっけなく、昇天した。
「…………はぁっ、はぁっ」
肩で息をする、麻衣さん。……追い詰められた、火事場の馬鹿力、というやつだろうか。結局、奴を仕留めたのは、殺虫剤でも、毒エサでもなく。麻衣さん自身の、スリッパの、一振りだった。
「……や、やった……。……やった、よ、佐藤くん……」
「……お、おめでとう、ございます」
俺は、ひりひりする頬を、押さえながら。ぱちぱちと、力なく、拍手を送った。
――結局、俺は。豊かな感触に、煩悩を試され、袖を引っ張り回され、しまいには、とばっちりの、ビンタまで、食らって。
なにひとつ、活躍、できなかった。
(……まあ、いいか)
涙目のまま、へなへなと座り込んで、それでも、どこか、誇らしげな麻衣さんの顔を見ていたら。……なんだか、それも、悪くない気が、してくる。
今日も、俺のアパートは。……平和、なのだった。
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