番外編・アパート住民の日常② 妹の研究論文
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
「お兄ちゃーーん……!」
その日の夜、俺の部屋のドアを、ノックもなしに開けて。妹の唯が、半泣きで、飛び込んできた。
「うわっ、な、なんだ、どうした」
「もう、むりぃ……。お兄ちゃん、助けてよぉ……」
ノートパソコンを抱えたまま、俺の膝に、ぐでーっと突っ伏す。……大学生にもなって、まったく、甘えん坊なのは、昔から変わらない。
聞けば、こういうことだった。
この春から、名の知れた私立大学に通い始めた唯。そのゼミで、初めての「研究論文」の課題が出たのだが。……これに、盛大に、つまずいているらしい。
「だってさ。……今までは、ちゃんと“答え”がある問題ばっかり、解いてきたんだよ? なのに、いきなり、『あなたの意見を、論じなさい』って……。そんなの、どうすればいいのか、わかんないよぉ」
なるほど。……高校までのテストは、正解が、決まっている。だが、大学の論文は、決まった正解がない。自分で問いを立てて、自分の考えを、筋道立てて語る。……その、頭の使い方の違いに、面食らっているわけだ。
「ああ、それな。……最初は、難しく感じるかもしれないけど。慣れると、案外、簡単だぞ」
「ほんと……?」
「ほんとほんと。……順番に、やればいいんだ」
俺は、突っ伏したままの唯の頭を、ぽんぽん、と叩いてやりながら、続けた。
「まずは……なんで、その研究を“したい”と思ったのか。その“背景”から、書き始めるんだ」
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「……ちなみに、なんの研究なんだ?」
なにげなく、そう聞いた俺に。唯は、ぱっと顔を上げると。……妙に、きらきらした目で、言い放った。
「異性を、メロメロにさせる研究!」
「…………ん?」
俺は、一瞬、聞き間違えたかと思った。
「異性を、メロメロに?」
「そう!」
「……いや、大学のゼミで、そんなテーマ、通るのか……?」
「い、いいの! ……とにかく、そういう研究なの!」
(……なんだ、そのテーマは。……まあ、心理学とかで、恋愛の研究って、あるにはあるけど)
俺は、首をかしげつつも、話を、進めることにした。
「まあ、いいとして。……で、なんで、その研究を、しようと思ったんだ? その“動機”が、大事なんだぞ」
「それはー……」
唯は、もじもじ、と指を絡ませて。それから、いたずらっぽく、笑った。
「……ひみつ、だよ!」
「なんでだよ」
(……秘密って。……論文の動機を、秘密にして、どうするんだ)
唯は、そっぽを向いて、なにやら、小さく、つぶやいていた。……その横顔が、ちょっとだけ、赤かった気がしたが。俺は、深く、考えなかった。
「……ま、動機は、あとで、ちゃんと言葉にしろよ。じゃあ、次だ」
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「次は――“先行研究”を、調べるんだ」
「せんこう、けんきゅう?」
「そう。今まで、似たようなテーマで、どんな研究が、されてきたか。そして、その研究には、どんな“問題点”が、残っていたか。……それを、ちゃんと調べる」
「……なんで、そんなこと、するの?」
「そりゃあ、お前」
俺は、人差し指を、立てた。
「他の人が、もうやったことを、また一からやっても、意味ないだろ。……先人が、どこまで明らかにして、どこで行き詰まったか。それを知れば――“じゃあ、自分は、どこを、やるべきか”が、見えてくる。……研究ってのは、そういう、積み重ねなんだ」
「……お、おおー。お兄ちゃん、なんか、頭よさそう」
「なんか、は余計だ」
俺が、じとっと睨むと、唯は、へへっ、と笑った。……まあ、ちょっとでも、やる気が出たなら、いいか。
「……ちなみに、その“メロメロ研究”で、似たような研究事例とか、あるのか?」
「えーっとね……媚薬とか?」
「いや、それは、研究じゃなくて、薬物だろ」
思わず、突っ込んでしまった。
「じょ、冗談だってば。……でも、ほんとに、どんなのがあるのか、わかんなくて」
「……ま、こういうのは、心理学に、いくつか有名な理論が、あるぞ」
俺は、腕を組んで、記憶を、たどった。……これでも学生時代、心理学の講義は、そこそこ真面目に、聞いていたのだ。
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「まず……“返報性の原理”ってのがある。相手から、好意を示されると、自分も、その相手を、好きになりやすい、って心理だ」
「へえ……。じゃあ、好き好きアピールを、たくさんすれば、いいんだ?」
「まあ、理屈の上では、な」
俺が、うなずくと。唯は、なぜか、ぷく、と頬を膨らませて。俺の顔を、じーっと、見た。
「……私は。お兄ちゃんに、けっこう、アピールしてるのに。……全然、振り向いて、くれてないよね」
「ん? なんか言ったか」
「……べつにー」
(……なんだ?)
「……で、次だ。“自己開示”ってのもある。自分のことを、たくさん打ち明けると、相手と、親密になれる、ってやつだ」
「……なのに」
唯の声が、だんだん、小さくなっていく。
「……私、お兄ちゃんに、いっぱい、話してるのに。……こんなに、話してるのに。……全然、だめだ……」
「おーい、唯? ちゃんと、メモ、取ってるか?」
「……っ、と、取ってるもん!」
唯は、慌てて、パソコンに、向き直る。
「……で、最後だ。“類似性”ってのがある。共通点が、多い相手ほど、好きに、なりやすい。趣味とか、価値観とかが、似てると、距離が、縮まりやすいんだ」
「……」
唯は、俺の顔と、自分の顔を、なぜか、交互に見比べて。……それから、がっくりと、肩を落とした。
「……私、お兄ちゃんと。……全然、似てない……!」
「え? いや、まあ、兄妹でも、性格は違うもんだろ」
俺は、なんの気なしに、そう返した。
---
――と。
しばらく、黙り込んでいた唯が。ふと、顔を上げた。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
俺が、視線を上げると。
唯は、なぜか、にっこりと、晴れやかな笑顔を、浮かべていた。……さっきまで、あんなに、落ち込んでいたのに。
「私、やっぱり、この研究。……辞めるね」
「え?」
「うん。……なんか、いろいろ、わかっちゃったから」
「な、なにを――」
「じゃ! 邪魔したね、お兄ちゃん! ……おやすみっ!」
言うが早いか。唯は、ノートパソコンを、ぱたんと閉じて。俺が、止める間もなく、風のように、部屋を、飛び出していった。
「……え、おい、唯?」
ぱたん、と閉まった、ドア。
俺は、しばらく、その場に、ぽかんと、取り残される。
(……なんだったんだ、いったい)
結局、研究の相談に乗ったのか、乗っていないのか。……よく、わからないまま。
ただ、ひとつだけ。……最後の唯の、あの、妙にすっきりした笑顔だけが。俺の頭の隅に、なぜか、ずっと、引っかかっていた。
(……あいつ。“共通点が多いほど好きになる”って理論で、なんで、あんなに、落ち込んでたんだ……?)
考えても、答えの出ない、その問い。
――大学の論文には、正解がない、なんて。偉そうに、教えたばかりだったが。
俺は、いちばん身近な妹の、心の中すら。……まるで、正解が、わかっていなかったのだった。
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