番外編・アパート住民の日常① 早朝のロイヤルパンケーキ
ドンシャラガッシャーン!
休日の、まだ夜も明けきらない早朝。けたたましい音が、壁を突き抜けて、俺の眠りを叩き起こした。
音の出どころは、隣。103号室だ。
(……華ちゃん?)
嫌な予感しかしない。俺は寝ぼけ眼のまま部屋を飛び出し、隣のドアを、ノックもそこそこに開けた。
「華ちゃん、大丈夫ですか!?」
そして、絶句した。
狭いキッチンに、白い霧が、もうもうと立ちこめている。床も、シンクも、壁も、うっすらと白い粉まみれ。その中心で、彼女は、頭のてっぺんから小麦粉を、ざんぶりと被って、呆然と、立ち尽くしていた。
いつもの、素顔。眼鏡に、ぼさぼさ髪。よれよれのスウェット。……そのすべてが、真っ白に、なっていた。
「……えーっと」
華ちゃんが、ゆっくりと、こっちを向く。まつげの上にまで積もった粉を、ぱちぱち、と払いながら。
「……美白?」
「ボケてる場合ですか!?」
思わず、突っ込んでしまった。
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事情を聞けば、こういうことだった。
昨夜、ベッドの中で写真SNS──『ピクグラム』とかいうやつを眺めていたら、それはもう、とんでもなく美味しそうな、パンケーキの写真が流れてきたらしい。
「見て、これ。“ロイヤルパンケーキ”だって。ふわっふわで、三段重ねで、上に生クリームとベリーが、こんもり乗ってて……」
華ちゃんが、粉まみれのスマホを、俺に突きつけてくる。なるほど、確かに、絵に描いたような、完璧なパンケーキだ。
「これがどうしても食べたくなっちゃって。夜中に、コンビニじゃ足りないから、二十四時間のスーパーまで、材料、全部買いに行ったの」
「……わざわざ、夜中に」
「そう。で、満を持して。今朝、朝いちばんで、この“ロイヤルパンケーキ”を、優雅にいただこうと思って……」
華ちゃんは、そこで、すっと目をそらした。
「……小麦粉の袋の口が、思ったより、勢いよく開いた」
「大惨事じゃないですか」
トップアイドルの、天使の笑顔。その裏で、この人は、休日の早朝から、こんなことをやらかしている。……誰が信じるだろう。
「だったら、俺に任せてくれれば、よかったのに」
俺が、ため息まじりに言うと、華ちゃんは、つん、と唇を尖らせた。
「……だって。朝から、隣に押しかけるの、迷惑でしょ」
「今、じゅうぶん迷惑かけてますよ」
「うぐ」
「だいたい、これ。片付けるの、誰だと思ってるんですか」
「……君、じゃない?」
「なんで、ちょっと嬉しそうなんですか」
あんまりな言い草に、俺は、肩を落とした。……まったく。この人は、いつもこうだ。素顔の華ちゃんは、天使とは程遠い、傍若無人な、けれど、どこか放っておけない、困った隣人だった。
「……とりあえず。華ちゃんは、シャワーでも浴びてきてください。全身、真っ白ですよ」
「え、でも、片付け」
「その間に、俺が、やっときますから。……頭に小麦粉のせたまま、うろうろされる方が、迷惑です」
「……ふーん」
華ちゃんは、ちょっとだけ、意外そうな顔をして。それから、ぼそっと、言った。
「……言っとくけど。私、シャワーじゃ、ないから」
「え?」
「お風呂。ちゃんと、湯船に、お湯ためる派なの。……ちょっと、時間、かかるけど。いい?」
「……どうぞ、ごゆっくり」
まったく、こんな時まで、マイペースだ。俺が呆れていると、華ちゃんは、粉を落とさないよう、そろそろと、浴室の方へ消えていった。
やがて、壁の向こうから、しゅわしゅわと、湯を張る音が、聞こえてくる。
あとで本人が、しみじみ語ったところによると。この人は、勢いよく出るシャワーより、ゆっくりと、少しずつ、湯船にお湯が溜まっていって。その水位が上がるのを、ぼんやり眺めながら、じわじわと、体があったまっていくのが、たまらなく好き、なのだそうだ。
(……せっかちなくせに、そういうところは、のんびりなんだな)
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俺は、腕まくりをして、白一色のキッチンと、格闘を始めた。
まずは、床に積もった小麦粉を、濡らした雑巾で、丁寧に拭き取っていく。粉ってやつは厄介で、乾いたまま掃くと、余計に舞い上がる。少し湿らせて、固めて、すくい取るのがコツだ。シンクを磨き、壁を拭き、換気扇を回して、白い霧を、外へ逃がす。
三十分ほどで、キッチンは、ようやく元の姿を取り戻した。
――で。
ふと、調理台の上を見ると。無事だった卵と、牛乳と、まだ半分残っている小麦粉と、それから、ちゃんと未開封のベーキングパウダーが、行儀よく、並んでいた。
(……材料、まだ、あるじゃないか)
俺は、少し、考えた。
浴室からは、まだ、のんびりと湯を溜める音がしている。時間は、たっぷりある。……そして、正直に言えば。あの、写真の“ロイヤルパンケーキ”を、心底うらやましそうに見ていた、華ちゃんの顔が、ちらついて仕方なかった。
(……どうせなら。推しの喜ぶ顔、見たいしな)
我ながら、単純だ。俺は、袖をまくり直すと、ボウルを手に取った。
卵を割り、砂糖を加えて、白っぽくなるまで、しっかり泡立てる。牛乳を少しずつ。粉は、ふるいながら、さっくりと。生地を寝かせて、弱火で、じっくり。焦らず、ひっくり返す。
……こう見えて、俺は、一人暮らしが長い。この手の家事は、そこそこ、得意なのだ。
やがて、フライパンの上で、生地が、ぷつぷつと、小さな穴を開け始める。ふわり、と、甘くて香ばしい匂いが、部屋いっぱいに、広がっていった。
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「……ん。くんくん。……なんか、いい匂い」
ちょうど、三段目を焼き上げた頃。
浴室のドアが開いて、湯気とともに、華ちゃんが、ひょっこりと顔を出した。
濡れた髪を、ドライヤーで乾かしたばかりなのだろう。さらり、と下ろした黒髪から、ふんわりと、石鹸の匂いがする。眼鏡を外した、湯上がりの素顔は、ほんのり上気して、いつもより、ずっと無防備で。
しかも──風呂上がりで暑いのか、薄手のキャミソール一枚に、ゆるいショートパンツ、という、ずいぶんと、あぶない格好だった。
(……む。目のやり場に、困る)
俺が、慌てて視線を、フライパンの方へ戻すと。華ちゃんは、皿の上に、こんもりと重なった、湯気を立てるパンケーキを見つけて、目を、まん丸にした。
「……え。これ、もしかして」
そして。とてとて、と、はだしのまま、こちらへ近づいてくると。
上目遣いで、俺の顔を、下から覗き込んだ。
「……もしかして、これ。私の、ために、作ってくれたの……?」
「……っ」
その、あまりの破壊力に、俺の心臓が、一回、大きく跳ねた。
いつもの、毒舌も、ツンも、どこかへ消えて。ただ、期待に、きらきらと、瞳を輝かせた、素の女の子が、そこにいた。
(か……可愛すぎるだろ、これは)
「……ま、まあ。材料が、余ってたので。ついでに」
俺は、必死に、平静を装った。
「……ふーん。ついで、ね」
華ちゃんは、にんまり、と口の端を上げた。……嘘だと、完全に、見抜かれている。
「じゃあ、その、なんだ。……せっかくだし。一緒に、食べますか」
「……うん! 食べる!」
その瞬間、華ちゃんの顔が、ぱあっと、花みたいに、ほころんだ。
――と。
「お皿、お皿。あと、フォーク!」
テンションの上がった華ちゃんが、勢いよく、キッチンの方へ、駆け出した、次の瞬間。
「わっ」
その足が、まだ片付けきっていなかった、床の、電気ケトルのコードに、見事に、引っかかった。
「うわっ、危ない!」
俺は、とっさに、手を伸ばす。倒れかけた、その細い体を、なんとか、腕で抱きとめた。
――その、触れた、腕から。
《……えへへ。……やっぱり、君の作るごはん、いちばん好き》
例の、推し聞きだ。天使みたいに無防備な、その本音が、抱きとめた腕を通して、俺の頭に、ぽろりと、流れ込んでくる。
(……っ)
不覚にも、また、心臓が、跳ねた。
だが、そんな俺の動揺をよそに。抱きとめられた華ちゃんの、その、勢いあまった手が、調理台のふちを、ばしっと叩いて。
ばさっ。がしゃん。
せっかく脇にどけておいた、小麦粉の袋と、卵のパックが、再び、床へと、盛大に、散らばった。
「…………」
白く舞う粉の中。俺は、腕の中の華ちゃんと、床の惨状を、交互に、見つめる。
(……また、片付けか)
思わず、遠い目になる。
だが。
俺の腕の中で。悪びれもせず、けらけらと、心底楽しそうに笑っている、華ちゃんの顔を見ていたら。
なぜだろう。……なんだか、むしろ、嬉しいような、あったかい気持ちに、なってしまうから、不思議だった。
(……まったく。世話の焼ける、推しだよ)
白い粉が、朝日にきらきらと舞う、賑やかな、休日の朝。
こういう日常も、悪くないな、なんて。
俺は、腕の中で笑う彼女を見ながら、こっそり、そう思ったのだった。




