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推し活のために退寮したら、隣の部屋(103号室)に「推し(本人)」が住んでいた。 ~推しすぎたせいか、心の声まで聞こえます~  作者: しまじろう
第5章|能力編 ――一途がすぎると、女の子になるらしい――

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番外編・アパート住民の日常① 早朝のロイヤルパンケーキ

 ドンシャラガッシャーン!


 休日の、まだ夜も明けきらない早朝。けたたましい音が、壁を突き抜けて、俺の眠りを叩き起こした。


 音の出どころは、隣。103号室だ。


(……華ちゃん?)


 嫌な予感しかしない。俺は寝ぼけ眼のまま部屋を飛び出し、隣のドアを、ノックもそこそこに開けた。


「華ちゃん、大丈夫ですか!?」


 そして、絶句した。


 狭いキッチンに、白い霧が、もうもうと立ちこめている。床も、シンクも、壁も、うっすらと白い粉まみれ。その中心で、彼女は、頭のてっぺんから小麦粉を、ざんぶりと被って、呆然と、立ち尽くしていた。


 いつもの、素顔。眼鏡に、ぼさぼさ髪。よれよれのスウェット。……そのすべてが、真っ白に、なっていた。


「……えーっと」


 華ちゃんが、ゆっくりと、こっちを向く。まつげの上にまで積もった粉を、ぱちぱち、と払いながら。


「……美白?」


「ボケてる場合ですか!?」


 思わず、突っ込んでしまった。


 ---


 事情を聞けば、こういうことだった。


 昨夜、ベッドの中で写真SNS──『ピクグラム』とかいうやつを眺めていたら、それはもう、とんでもなく美味しそうな、パンケーキの写真が流れてきたらしい。


「見て、これ。“ロイヤルパンケーキ”だって。ふわっふわで、三段重ねで、上に生クリームとベリーが、こんもり乗ってて……」


 華ちゃんが、粉まみれのスマホを、俺に突きつけてくる。なるほど、確かに、絵に描いたような、完璧なパンケーキだ。


「これがどうしても食べたくなっちゃって。夜中に、コンビニじゃ足りないから、二十四時間のスーパーまで、材料、全部買いに行ったの」


「……わざわざ、夜中に」


「そう。で、満を持して。今朝、朝いちばんで、この“ロイヤルパンケーキ”を、優雅にいただこうと思って……」


 華ちゃんは、そこで、すっと目をそらした。


「……小麦粉の袋の口が、思ったより、勢いよく開いた」


「大惨事じゃないですか」


 トップアイドルの、天使の笑顔。その裏で、この人は、休日の早朝から、こんなことをやらかしている。……誰が信じるだろう。


「だったら、俺に任せてくれれば、よかったのに」


 俺が、ため息まじりに言うと、華ちゃんは、つん、と唇を尖らせた。


「……だって。朝から、隣に押しかけるの、迷惑でしょ」


「今、じゅうぶん迷惑かけてますよ」


「うぐ」


「だいたい、これ。片付けるの、誰だと思ってるんですか」


「……君、じゃない?」


「なんで、ちょっと嬉しそうなんですか」


 あんまりな言い草に、俺は、肩を落とした。……まったく。この人は、いつもこうだ。素顔の華ちゃんは、天使とは程遠い、傍若無人な、けれど、どこか放っておけない、困った隣人だった。


「……とりあえず。華ちゃんは、シャワーでも浴びてきてください。全身、真っ白ですよ」


「え、でも、片付け」


「その間に、俺が、やっときますから。……頭に小麦粉のせたまま、うろうろされる方が、迷惑です」


「……ふーん」


 華ちゃんは、ちょっとだけ、意外そうな顔をして。それから、ぼそっと、言った。


「……言っとくけど。私、シャワーじゃ、ないから」


「え?」


「お風呂。ちゃんと、湯船に、お湯ためる派なの。……ちょっと、時間、かかるけど。いい?」


「……どうぞ、ごゆっくり」


 まったく、こんな時まで、マイペースだ。俺が呆れていると、華ちゃんは、粉を落とさないよう、そろそろと、浴室の方へ消えていった。


 やがて、壁の向こうから、しゅわしゅわと、湯を張る音が、聞こえてくる。


 あとで本人が、しみじみ語ったところによると。この人は、勢いよく出るシャワーより、ゆっくりと、少しずつ、湯船にお湯が溜まっていって。その水位が上がるのを、ぼんやり眺めながら、じわじわと、体があったまっていくのが、たまらなく好き、なのだそうだ。


(……せっかちなくせに、そういうところは、のんびりなんだな)


 ---


 俺は、腕まくりをして、白一色のキッチンと、格闘を始めた。


 まずは、床に積もった小麦粉を、濡らした雑巾で、丁寧に拭き取っていく。粉ってやつは厄介で、乾いたまま掃くと、余計に舞い上がる。少し湿らせて、固めて、すくい取るのがコツだ。シンクを磨き、壁を拭き、換気扇を回して、白い霧を、外へ逃がす。


 三十分ほどで、キッチンは、ようやく元の姿を取り戻した。


 ――で。


 ふと、調理台の上を見ると。無事だった卵と、牛乳と、まだ半分残っている小麦粉と、それから、ちゃんと未開封のベーキングパウダーが、行儀よく、並んでいた。


(……材料、まだ、あるじゃないか)


 俺は、少し、考えた。


 浴室からは、まだ、のんびりと湯を溜める音がしている。時間は、たっぷりある。……そして、正直に言えば。あの、写真の“ロイヤルパンケーキ”を、心底うらやましそうに見ていた、華ちゃんの顔が、ちらついて仕方なかった。


(……どうせなら。推しの喜ぶ顔、見たいしな)


 我ながら、単純だ。俺は、袖をまくり直すと、ボウルを手に取った。


 卵を割り、砂糖を加えて、白っぽくなるまで、しっかり泡立てる。牛乳を少しずつ。粉は、ふるいながら、さっくりと。生地を寝かせて、弱火で、じっくり。焦らず、ひっくり返す。


 ……こう見えて、俺は、一人暮らしが長い。この手の家事は、そこそこ、得意なのだ。


 やがて、フライパンの上で、生地が、ぷつぷつと、小さな穴を開け始める。ふわり、と、甘くて香ばしい匂いが、部屋いっぱいに、広がっていった。


 ---


「……ん。くんくん。……なんか、いい匂い」


 ちょうど、三段目を焼き上げた頃。


 浴室のドアが開いて、湯気とともに、華ちゃんが、ひょっこりと顔を出した。


挿絵(By みてみん)


 濡れた髪を、ドライヤーで乾かしたばかりなのだろう。さらり、と下ろした黒髪から、ふんわりと、石鹸の匂いがする。眼鏡を外した、湯上がりの素顔は、ほんのり上気して、いつもより、ずっと無防備で。


 しかも──風呂上がりで暑いのか、薄手のキャミソール一枚に、ゆるいショートパンツ、という、ずいぶんと、あぶない格好だった。


(……む。目のやり場に、困る)


 俺が、慌てて視線を、フライパンの方へ戻すと。華ちゃんは、皿の上に、こんもりと重なった、湯気を立てるパンケーキを見つけて、目を、まん丸にした。


「……え。これ、もしかして」


 そして。とてとて、と、はだしのまま、こちらへ近づいてくると。


 上目遣いで、俺の顔を、下から覗き込んだ。


「……もしかして、これ。私の、ために、作ってくれたの……?」


「……っ」


 その、あまりの破壊力に、俺の心臓が、一回、大きく跳ねた。


 いつもの、毒舌も、ツンも、どこかへ消えて。ただ、期待に、きらきらと、瞳を輝かせた、素の女の子が、そこにいた。


(か……可愛すぎるだろ、これは)


「……ま、まあ。材料が、余ってたので。ついでに」


 俺は、必死に、平静を装った。


「……ふーん。ついで、ね」


 華ちゃんは、にんまり、と口の端を上げた。……嘘だと、完全に、見抜かれている。


「じゃあ、その、なんだ。……せっかくだし。一緒に、食べますか」


「……うん! 食べる!」


 その瞬間、華ちゃんの顔が、ぱあっと、花みたいに、ほころんだ。


 ――と。


「お皿、お皿。あと、フォーク!」


 テンションの上がった華ちゃんが、勢いよく、キッチンの方へ、駆け出した、次の瞬間。


「わっ」


 その足が、まだ片付けきっていなかった、床の、電気ケトルのコードに、見事に、引っかかった。


「うわっ、危ない!」


 俺は、とっさに、手を伸ばす。倒れかけた、その細い体を、なんとか、腕で抱きとめた。


 ――その、触れた、腕から。


 《……えへへ。……やっぱり、君の作るごはん、いちばん好き》


 例の、推し聞きだ。天使みたいに無防備な、その本音が、抱きとめた腕を通して、俺の頭に、ぽろりと、流れ込んでくる。


(……っ)


 不覚にも、また、心臓が、跳ねた。


 だが、そんな俺の動揺をよそに。抱きとめられた華ちゃんの、その、勢いあまった手が、調理台のふちを、ばしっと叩いて。


 ばさっ。がしゃん。


 せっかく脇にどけておいた、小麦粉の袋と、卵のパックが、再び、床へと、盛大に、散らばった。


「…………」


 白く舞う粉の中。俺は、腕の中の華ちゃんと、床の惨状を、交互に、見つめる。


(……また、片付けか)


 思わず、遠い目になる。


 だが。


 俺の腕の中で。悪びれもせず、けらけらと、心底楽しそうに笑っている、華ちゃんの顔を見ていたら。


 なぜだろう。……なんだか、むしろ、嬉しいような、あったかい気持ちに、なってしまうから、不思議だった。


(……まったく。世話の焼ける、推しだよ)


 白い粉が、朝日にきらきらと舞う、賑やかな、休日の朝。


 こういう日常も、悪くないな、なんて。


 俺は、腕の中で笑う彼女を見ながら、こっそり、そう思ったのだった。

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