第5話 夜食と、隣人の正体
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
華ちゃんに弱みを握られてから、数日が過ぎた。
その日、俺は会社に、遅くまで残っていた。
部署をあげての、大きなプロジェクトの真っ最中。締め切りは、もう目前に迫っている。とっくに定時は過ぎ、広いフロアに残っているのは、俺と――もう一人だけだった。
「……佐藤くん。まだ帰らなくて、平気なの?」
パソコンから顔を上げて、そう声をかけてきたのは、俺の直属の上司、麻衣さんだ。
水無月麻衣、二十七歳。二つ年上で、うちの部署で最年少ながらリーダーを任されている才媛である。仕事は正確で、しかも人の倍速い。誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残る。飲み会の類にはほとんど顔を出さず、ただひたすら、真面目に働き続けている人だった。
(この人、いつ休んでるんだろう……)
正直、少し近寄りがたい。だけどその背中には、いつも尊敬の念を抱いていた。
「俺のほうこそ。麻衣さん、根を詰めすぎですよ。よかったら、夜食でも買ってきましょうか」
「……いいの? じゃあ、お願いしようかな。飲み物も、何か。冷たいのがいい」
めずらしく、ほんの少しだけ表情をゆるめて、彼女は言った。俺は「了解です」とうなずき、近くのコンビニへ向かう。
夜食のおにぎりと、飲み物を、かごに放り込んでいく。麻衣さんには冷たいのを……と、俺は飲料棚の前で足を止めた。
レモン色の、爽やかなパッケージ。「レモン」「果汁」「すっきり」の文字。いかにも、疲れた体に効きそうだ。俺は深く考えず、同じ色のそれを二本、手に取った。
――このとき、俺は、まったく気づいていなかった。
その二本のうちの一本が、ジュースそっくりの見た目をした、レモンサワー――れっきとした、アルコール飲料だったことに。
オフィスに戻り、それぞれの飲み物を、机に置く。
「ありがとう。……ん、レモンジュース? ちょうど、のど渇いてたんだ」
麻衣さんは、俺が渡したそれを、こくこくと、おいしそうに飲み干していく。
(あ。……あれ? 待てよ、この味……)
自分の一本を開けて、俺は青ざめた。手元にあるのは、正真正銘のジュース。ということは――麻衣さんが、今飲んだのは。
「ま、麻衣さん! それ、お酒――」
「ふぇ?」
振り向いた麻衣さんの顔は、すでに、ゆでダコみたいに真っ赤だった。
「おさけ……? やだぁ、佐藤くぅん、なにわらってるのぉ」
「わ、笑ってません! だ、大丈夫ですか、麻衣さん!」
「へーきへーき。まい、こんなの、ぜんっぜん、へーき……」
言うが早いか、麻衣さんは、ぐらりと椅子から崩れ落ち、俺の腕の中へ、すっぽりと倒れ込んできた。
とすん、と。細い体が、俺の胸に、まっすぐ預けられる。ふわりと、シャンプーの甘い匂いが立ちのぼった。いつもは隙なく着こなしているブラウスの、そのボタンが、苦しいのか、上のほうがひとつ外れていて――胸元が、無防備に、ゆるんでいる。俺の腕には、彼女の体の、思いのほか、やわらかくてあたたかい感触が、じかに伝わってくる。鉄仮面の上司の、こんな重みを知ってしまうなんて。
――と、そのとき。また、あの、変な感覚。触れた腕の先から、声にならない声が、ふっと、よぎった気がした。
《……つかれた……》
(……って、何を考えてるんだ、俺は。空耳だ、空耳。しっかりしろ)
(う、うそだろ!? たった一本で、これ!?)
どうやら麻衣さんは、絵に描いたような下戸だったらしい。ふだんお酒を飲まないから、自分でも、どれだけ弱いか自覚がなかったのだろう。たった一本のチューハイで、あの鉄壁の上司は、ものの数分で、完全に別人になってしまった。
俺の、たった一本の買い間違い。それが、こんな事態を引き起こすなんて。
「ねぇ、佐藤くぅん……。まい、ずーっと、がんばってるんだよぉ……。えらい? ねぇ、えらい?」
とろんと潤んだ目で、上目づかいに俺を見上げ、胸元を、ぽすぽすと叩いてくる。頬は上気して、ほんのり桜色。ふだんきりりと結ばれている唇は、今は、しどけなく半開きで、そこから甘い吐息がこぼれている。すり寄るたびに、やわらかな体が、俺の腕にぴったりと押しつけられて、そのたび、外れかけたボタンの奥が、ちらりと――。
(う、うわあ……! あの麻衣さんが……こんな、甘えん坊に……!)
職場での、あの隙のない鉄仮面は、どこへやら。「まい」なんて幼い呼び方で自分を指す姿は、正直に言うと――めちゃくちゃ、可愛かった。
(い、いや、待て! 落ち着け、俺! 俺の心は、華ちゃん一筋だろうが! 酔った上司に、ドキドキするなんて……煩悩退散、煩悩退散!)
必死に自分へ言い聞かせる。だが、腕の中の麻衣さんは、猫みたいに、俺へすり寄ってくるばかりだ。
……これは、放っておけない。
「麻衣さん、家、どこですか。送りますから」
「んー……ないしょ」
(ないしょって……!)
結局、住所も聞き出せないまま、俺は前後不覚の上司を支えて、会社を出た。こうなったら、いったん俺の家に運ぶしかない。介抱して、酔いが覚めるのを待とう。
――そう、俺の住む、あのボロアパートへ。
◇
なんとか部屋まで運び込み、麻衣さんを、そっとベッドに寝かせる。俺は床で休めばいい。
「ん……ここ……」
麻衣さんが、うっすらと目を開けた。そして寝ぼけまなこで、きょろきょろと部屋を見回す。
「あれぇ……ここ、まいの、おうちじゃ、ない……」
「あ、すみません。俺の部屋です。麻衣さん、酔っちゃったから、とりあえず」
「……でも、へんなの」
麻衣さんは、とろんとした声で、とんでもないことを、つぶやいた。
「まいのおうち……すぐ、となりなのに……なんで、こっち、なのぉ……?」
「…………は?」
俺の思考が、停止した。
となり。今、麻衣さんは、たしかに「となり」と言った。
俺の部屋は、102号室。その、となり。手前側の部屋といえば――。
(101号室……!? 嘘だろ、麻衣さん、あの部屋の……!)
まさか。まさか、そんな。
推しに続いて、今度は、直属の上司まで。
俺の住むこのボロアパートは、どうやら、とんでもない「役満」物件だったらしい。
――そしてこの夜が、後日のとんでもない事件の、幕開けになるとは。
このときの俺は、まだ知る由もなかった。
お読みいただきありがとうございます。
少しずつアパートの住民が明らかになっていきます。




