第4話 目をつぶって
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
「……気づいたの、あなたが初めて」
そう認めた華ちゃんは、しばらくのあいだ、黙って俺を見つめていた。
――と、思ったら。
「ちょっと、入って」
「え」
彼女は俺の腕をつかむと、有無を言わさず、103号室の中へ引きずり込んだ。玄関先で騒がれて、ほかの住人に聞かれたらたまらない、ということらしい。
バタン、と背後でドアが閉まる。
華ちゃんの部屋は、外から想像した通り……いや、想像以上に、生活感であふれていた。積み上がった台本らしき冊子。壁に貼られた手書きのスケジュール表。飲みかけのハーブティー。そのどれもが、俺の知っている「アイドルの華」とは、まるで結びつかない。
(ここに、あの華ちゃんが住んでる……夢みたいだ)
いや、夢どころじゃない。俺は今、推しの部屋に、招き入れられているのだ。ファンにとって、これ以上の栄誉があるだろうか。緊張で心臓が破裂しそうになりながら、俺は姿勢を正した。
感激に打ち震える俺。だが次の瞬間、彼女の口から出た言葉が、俺の脳を揺さぶった。
「で。あなた、私の正体に気づいちゃった。これ、けっこう困るんだよね」
「……え?」
声の温度が、さっきまでと、まるで違った。
とぼけていたときの、あのおどおどした様子は、どこにもない。眼鏡の奥の瞳は、驚くほど冷たく、まっすぐに俺を射抜いていた。
姿勢も、声のトーンも、まとう空気そのものが、さっきと別物だった。まるで、電源を切り替えるみたいに。
俺は、思い知る。さっき廊下で見た、しどろもどろで可愛らしい姿。あれもまた、この人の「顔」のひとつでしかなかったのだと。
「アイドルが、こんなボロアパートで素顔さらして暮らしてるなんて、バレたら一発アウト。あなた次第で、私、ここに住めなくなる。下手したら、活動そのものも続けられなくなる」
「そ、そんな。俺は、絶対に誰にも言いません!」
「口では、なんとでも言えるよね」
ぴしゃり、と切り捨てられた。
(な、なんだ……? この人、さっきまでの華ちゃんと、別人みたいだ……)
テレビの中の、太陽みたいな笑顔。誰にでも優しい、天使のような女の子。俺が十年間、崇めてきた「華」。
その面影は今、目の前から、きれいさっぱり消え失せていた。
「だからね。ちょっと、保険をかけさせてもらう」
彼女は、すっと俺との距離を詰めてきた。
「……ちょっと、目、つぶってくれる?」
「え。め、目、ですか?」
「いいから」
有無を言わさぬ口調に、俺は反射的に目を閉じた。
(な、なんだ? まさか、口止め料でも渡す気か? いや、それとも――)
次の瞬間。
俺の右手が、やわらかく、あたたかい何かに、そっと押し当てられた。
――ふに。
布ごしにも伝わってくる、圧倒的な、やわらかさ。うすい生地の向こうで、てのひらが、ふにり、と沈み込む。それでいて、押し返してくるような、確かな弾力。ひんやりとした部屋の空気の中で、そこだけが、しっとりと、人の体温を帯びていた。指先が、わずかに動くたび、かたちを変えて、吸いついてくる。
(…………は?)
(え。え。これって、まさか)
混乱しながら、そっと目を開けると――俺の右手は、しっかりと、彼女の胸の、そのふくらみの上に、置かれていた。
しかも、彼女自身の細い手で、俺の手首を、ぎゅっと押さえつけられて。逃がさない、とでも言うように。
すぐ目の前に、華ちゃんの顔があった。俺を見上げる、切れ長の瞳。かすかに上下する、白い喉元。スウェットの、ゆるんだ襟ぐりからは、鎖骨のラインが、無防備にのぞいている。近い。息がかかりそうなほど、近い。彼女の体の、甘い匂いまで、鼻先をかすめる。
――と、そのときだった。
どこからともなく、声のようなものが、頭の奥に、ふっと、よぎった。
《……ちょろ》
(え……? 今、なんか、聞こえた……ような。……いや、気のせいか)
華ちゃんの唇は、動いていない。きっと、緊張のしすぎで、変な幻聴でも聞いたんだろう。俺は、そう思うことにした。
「なっ……!?」
カシャッ。
間の抜けた電子音が、部屋に響いた。
華ちゃんが空いた手で構えたスマホの画面には――アイドルの胸を、だらしなく触る俺の間抜けな姿が、しっかりと収められていた。
「はい。これで、あなたも共犯ね」
「きょ、共犯……!?」
「人気アイドルの華に、無理やり胸を触った変質者。そんな写真が世に出たら、困るのは、どっちかな?」
にっこりと、けれど目だけは笑わずに、彼女は言った。
「あなたが私の秘密を握ってるなら、私もあなたの弱みを握る。おあいこ。これでフェアでしょ?」
(フェア……? どこがだ……!)
(は、はめられた……!)
全身から、血の気が引いていく。だが同時に――右手に残る、あの感触。抑えつけていた煩悩が、津波のように押し寄せてくる。
(だ、だめだ! 落ち着け、俺! 相手は推しだぞ! アイドルに、恋愛だの下心だの、そんなものを向けるなんて、絶対にあってはならない……! 煩悩退散、煩悩退散……!)
右手に焼きついた感触が、消えてくれない。あたたかくて、やわらかくて、指のあいだに、まだ、あのふくらみの重みが残っている気がする。この世のものとは思えない、あの――。
(消えろ、消えろ、消えてくれ……! 俺は、清く正しいファンでいなきゃいけないんだ……!)
必死に右手を握りしめ、俺は全力で邪念を振り払う。だが、目の前の彼女は、そんな俺の壮絶な葛藤など、涼しい顔で眺めているだけだった。
「ふうん。……襲いかかってくるかと思ったのに、ヘンなことしてこないんだ」
「し、しませんよ! 俺を、なんだと……」
「まあ、いいや。合格。今のところはね」
彼女は、撮った写真を満足げに眺めると、くるりとこちらへ振り返った。
そして――ほんの少しだけ、口の端を持ち上げて、笑った。
それは、ステージの上で振りまく、あの太陽みたいな笑顔とは、まるで違う。
獲物を手に入れた、獣のような笑みだった。
「じゃ、これからよろしくね、君」
その「君」の響きは、甘くも、優しくもなかった。
完全に、握られていた。
推しに。十年間、女神と崇めてきた、その人に。
俺の平穏な推し活人生が、音を立てて崩れ去った――そんな、予感がした。
お読みいただきありがとうございます!
表のアイドルでは見られない一面の華が君臨しました!
次回は別ヒロインが登場予定です。




