第3話 隣の部屋の、見覚えのある顔
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
引っ越し初日。荷ほどきもまだの、廊下の真ん中で。
俺は、十年間の推し活人生で最大の衝撃と向き合っていた。
「あの、待ってください……!」
気づいたときには、俺は声を上げていた。背を向けかけた彼女が、びくりと肩を震わせて振り返る。
(何を言ってるんだ、俺は。相手はただの隣人だぞ)
頭の冷静な部分が、そう自分に突っ込む。だが、口は止まらなかった。
「その……つかぬことを、お聞きしますが」
「……はい?」
彼女は、コンビニ袋を提げたまま、けげんそうに眉をひそめた。ぼさぼさの髪。分厚い黒縁の眼鏡。すっぴん。よれよれのスウェット。――一見すれば、どこにでもいる、冴えない女性だ。だが、無造作に着たスウェットの、伸びきった襟ぐりからは、白いうなじと、ほっそりとした鎖骨のラインが、本人も気づかぬまま、無防備にのぞいていた。
だが、よく見ろ。
小づくりで、輪郭のととのった小さな顔。すっぴんでもわかる、抜けるような肌のツヤ。眼鏡の奥で、大きくぱっちりと開いた瞳。そして、右目の下にちょこんとのった、小さなほくろ――彼女の、最大のチャームポイント。
ふつうの人間には、きっとわからない。ただの冴えない女性にしか、見えないだろう。
だが、俺にはわかる。この野暮ったい見た目の下に隠された「本物」の輝きが、はっきりと見えていた。
十年だ。十年間、俺はこの人の顔を、誰よりも見つめてきた。ライブで。テレビで。雑誌で。何百、何千という彼女の姿を、この両目に焼きつけてきた。
だから、わかってしまう。むしろ、わからないほうがどうかしている。
全部、全部――知っている。
「あなた……華ちゃん、ですよね?」
その瞬間だった。
彼女の表情が、ぴしり、と固まった。
「……は?」
「アイドルの、華ちゃん。俺、十年前からずっと応援してるんです」
「な、なにを……おっしゃってるんですか」
声が、あきらかに裏返っていた。
(……当たった)
「人違い、ですよ。私、そんな有名人じゃ、ないですし……」
彼女は、ぎこちない笑みを浮かべて、顔の前でぶんぶんと手を振る。だが、その手が、あからさまに震えていた。
「え、えっと、その……か、華? だれですか、それ。私、山田です。山田花子。どこにでもいる、ふつうの、OLで……」
(山田花子て……。今どき、逆に嘘くさすぎるだろ)
こんな緊張の場面だというのに、俺は危うく吹き出しそうになった。目は泳ぎ、こめかみには汗まで浮いている。これではかえって、「私が華です」と自白しているようなものだ。
「そ、そもそも! こんなボロアパートに、アイドルなんて住むわけ、ないじゃないですか。ねっ?」
「いや、住みますよ」
「え」
「むしろ、住みます。だって――世間で思われてるほど、アイドルって稼げないんですから。テレビに出ずっぱりのトップの一握りは別として、ほとんどの子は、バイトと掛け持ちでもギリギリの生活で……。人目を避けて、家賃の安い部屋に隠れるように住んでる子だって、たくさんいるんです」
「な……」
「しかも、ここは駅から徒歩三分。深夜のレッスン帰りでも、安心のアクセス。それでいて家賃は、月たったの一万五千円。……売れかけのアイドルが、正体を隠しながら暮らすには、これ以上ない好条件じゃないですか」
「うっ……」
思わず力説してしまった俺に、彼女は気圧されたように、一歩あとずさった。
(しまった。つい、早口になってしまった……)
「い、いまのは……聞かなかったことに……」
ぶんぶんと首を横に振る様子は、まるで叱られるのを恐れる小動物のようだった。
(……あの華ちゃんが、こんな顔をするのか)
テレビの中では、いつも完璧な笑顔だった。ステージの上では、何万人もの視線を一身に浴びて、堂々と輝いていた。
その彼女が、今、俺ひとりを相手に、しどろもどろになっている。
だが――どうしてだろう。
必死にとぼけようとする、その姿が。
どうしようもなく、可愛かった。
(いや、待て。落ち着け、俺。……だが、ここで引くわけにはいかない)
俺には、確信を突きつける方法が、あった。十年分の、知識がある。
「……信じてもらえないなら、証拠を、挙げましょうか」
「しょ、証拠……?」
「右目の下のこのほくろと、同じくらいの大きさのやつが――実は、おへその横にも、ひとつありますよね」
「……っ」
彼女の肩が、跳ねた。
「ライブで激しく踊ると、衣装の裾から、ほんの一瞬だけ見えるんです。もう、ファンの間じゃ、当たり前になってる話ですよ」
本人が公言したわけじゃない。清純派の華ちゃんが、そんなことを自分から話すはずもない。ただ、何百回とステージを見つめ続けたファンが、自然と気づいてしまっただけだ。
「そ、それは……」
彼女は、恥ずかしそうに、そっとお腹のあたりを手で隠した。
「でも、問題はここからです。もっとマニアックな話をすると……三年前の、ライブDVD。アンコール前の、楽屋裏カメラのほんの数秒。衣装替えのときに、鏡ごしに一瞬だけ映り込んでたんですが……お尻の右下、というか、太ももの付け根というか。もう、お尻なのか脚なのか、見る者を大いに悩ませる、あの絶妙な境目のあたりに――もうひとつ、小さなほくろが」
「あー! もう、やめてっ……!!」
彼女が、俺の言葉を、悲鳴のように遮った。
顔は、耳の先まで真っ赤。今にも湯気を噴いて、その場で蒸発してしまいそうだった。
「なんで……なんでそんな、一瞬しか映ってないところまで知ってるんですかっ!? 私、グラビアも、水着も、一度だってやったことないのに……!」
(……そうか。だからこそ、貴重なんだよな)
水着すら解禁してこなかった、清純派の彼女。その素肌のわずかな情報は、ファンにとって、砂漠でひとしずくの水を見つけるような価値がある。俺はその断片を、十年かけて拾い集めてきたのだ。
「十年分の、愛です」
「うわぁ……こわい……」
彼女は両腕で自分の身体をかばうようにして、じりじりと後ずさる。だが、その顔はもう、言い逃れをすっかりあきらめていた。
やがて――観念したように、大きなため息を、ひとつ。
そして、ずり落ちた眼鏡を指で押し上げながら、上目づかいに、俺を見た。
「……気づいたの、あなたが初めて」
小さな、けれど、はっきりとした声だった。
さっきまでの、必死なとぼけ顔が、嘘のように。
そこには――俺がずっと、画面越しに見つめ続けてきた、あの華の面影が。
たしかに、あった。
(……本物だ)
(本物の、華ちゃんが……俺の、隣に……)
頭の中が、真っ白になる。心臓が、痛いくらいに鳴っている。
推しが。十年間、命がけで応援してきた推しが。
こともあろうに、俺の隣の部屋に住んでいた。
夢か。これは夢なのか。だとしたら、一生覚めないでほしい。
――だが、このときの俺は、まだ何もわかっていなかった。
眼鏡の奥のその瞳が、次の瞬間どんな色に変わるのか。
彼女が、どれほど「したたか」な女の子なのか。
俺の平穏な推し活人生が、今日この日を境に、とんでもない方向へ暴走を始めることを――まだ、知る由もなかったのだ。
お読みいただきありがとうございます!
おとなりさんは憧れの推しのアイドル。羨ましいですねぇ。
次回もお楽しみください。
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