第2話 家賃1万5千円、駅近3分
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
翌週の日曜。俺は大家に連れられて、その「おんぼろアパート」を見に来ていた。
「まあ、契約は見てから決めればいいさ」
大家はそう言って、俺を現地まで案内してくれた。前の晩に「契約します」と勢いで口走った俺だが、さすがに一度は自分の目で確かめないと、という常識くらいは残っていたらしい。
最寄り駅の改札を出て、商店街を抜け、細い路地をひとつ曲がる。スマホのストップウォッチが、ちょうど三分を指したところで、大家が足を止めた。
「ここだよ」
(……本当に、駅から三分だ)
俺は駅からの道のりを、頭の中でしっかり記憶した。ライブ帰りの疲れた体でも、これなら苦にならない距離だ。
だが、顔を上げて目の前の建物を見た瞬間、俺は思わず息を呑んだ。そこに建っていたのは、想像を絶するボロ具合のアパートだったのだ。
木造二階建て。外壁は年季で灰色にくすみ、鉄骨の外階段には赤茶けた錆が浮いている。一階に三部屋、二階に三部屋の、こぢんまりとした造り。表札のいくつかは、名前が消えかけていた。
(うわ……たしかに、おんぼろだ)
だが、俺の意識は、そんなことよりも別の一点に釘付けになっていた。
家賃、一万五千円。都内。駅から徒歩三分。
この三つが揃っている時点で、多少のボロさなんて些細な問題だ。いや、むしろご褒美である。
「空いてるのは、一階の真ん中。102号室だ」
大家が鍵を開けてくれる。中は、外から見たほどひどくはなかった。六畳一間に、小さなキッチン。風呂とトイレもちゃんとある。日当たりも悪くない。掃除さえすれば、じゅうぶん住める。
(決まりだ。ここなら、推し活費を一円も削らずに済む……!)
俺は心の中で、思いきりガッツポーズをした。これで遠征も、グッズも、今まで通り続けられる。神様は、俺を見捨てていなかった。
(この壁一面に、新しいポスターを貼って……こっちの棚に、缶バッジのケースを並べて……)
まだ何もない部屋を見回しながら、俺の頭の中では、すでに理想の「推し部屋」が完成しつつあった。家賃が浮いた分、いっそ大きめのアクリルスタンドを追加してもいい。妄想は止まらない。我ながら、末期だと思う。
――そのときだった。
壁の向こう、隣の部屋のほうから、かすかに物音が聞こえた。
こと、こと、と何かを動かす音。それから、くぐもった鼻歌のような、小さな歌声。
(……隣、人が住んでるのか)
「隣は103号室。若い女性が入ってるよ。まあ、静かなもんさ」
大家が、なんでもないように言った。
若い女性。ふうん、と俺は思う。まあ、隣人が誰だろうと、俺には関係ない。俺の心は華ちゃん一筋だ。ご近所付き合いなんて、会釈さえしておけばじゅうぶんだろう。
……そのはずなのに。
なぜか、その鼻歌が、妙に気になった。
ほんの一節。メロディの、途切れ途切れの断片。どこかで聞いたような、いや、たしかに聞き覚えのあるような――
(……いや、気のせいだよな)
俺は小さく頭を振った。きっと、最近ヒットしている曲か何かだろう。世の中には、似たようなメロディなんていくらでもある。深く考えるだけ無駄だ。
「おじさん。ここ、契約します。今度こそ、本気で」
大家は「はは、そうかい」と、しわを深くして笑った。
こうして俺の新生活は、拍子抜けするほどすんなりと決まった。
節約できた家賃の分、来月の遠征はグリーン車にしようか。いや、その金もグッズに回すべきか。頭の中は、もう推し活の算段でいっぱいだった。
このアパートに、どんな秘密が眠っているかも知らずに。
――そして、引っ越し当日。
朝から何往復もして荷物を運び込み、残るは最後の一箱。中身はもちろん、いちばん大切なペンライトのコレクションだ。段ボールを両手に抱えた俺は、汗だくで百二号室の前に立っていた。鍵を取り出そうと、ポケットをまさぐる。
(引っ越しって、こんなに疲れるのか……。でも、これで念願の一人暮らしだ)
その、ときだった。
がちゃ、と。
すぐ隣、103号室のドアが、内側から開いた。
出てきたのは、ぼさぼさの髪に、野暮ったい黒縁の眼鏡。よれよれのスウェットを着た、一人の女性だった。寝起きなのか、気だるげに目をこすっている。ん、と小さく伸びをした拍子に、ゆるんだ襟が、ずり、と片方の肩から滑り落ちかけ、白い首筋が、ちらりとのぞいた。本人は気にも留めず、またあくびをかみ殺している。
俺と目が合うと、彼女は「あ、どうも……」と、ぼそりと小さく会釈した。
なんてことのない、隣人同士の、ありふれた挨拶。
俺も反射的に「あ、今日から隣に越してきた佐藤です」と頭を下げる。彼女は「はあ」と気のない返事をして、コンビニの袋を提げたまま、面倒くさそうに背を向けようとした。
それだけの、はずだった。
だが――俺の心臓は、ありえない速さで打ち始めていた。
(……この人)
(どこかで、見たことが……ある?)
ぼさぼさ頭。分厚い眼鏡。すっぴんの顔。だらしないスウェット姿。どこからどう見ても、冴えない、ごくふつうの女性だ。
なのに、どうしてだろう。
この、胸の奥を鷲づかみにされるような高鳴り。
俺には、覚えがあった。
十年間、ステージの上の彼女を見るたびに感じ続けてきた、あの感覚と――まったく、同じだったのだ。
(まさか。まさか、な……)
俺の新生活は、初日にして、とんでもない予感とともに幕を開けた。
お読みいただきありがとうございます!
おとなりさんは誰なんでしょうね。次回もお楽しみください。
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