第1話 25歳、寮を追われる
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
「佐藤くん、来月末で寮を出てもらうことになるから」
総務の田辺さんにそう告げられたのは、いつもと変わらない月曜の朝だった。
「……は?」
(待て待て待て。今、なんて言った?)
「うちの独身寮、二十五歳までって規則なのよ。佐藤くん、先月お誕生日だったでしょ」
言われて、俺は自分の年齢を思い出す。佐藤和馬、二十五歳。たしかに先月、二十五になったばかりだ。
「そんな規則、あったんですか」
「入寮のときの書類に、ちゃーんと書いてあったわよ」
田辺さんは気の毒そうに、けれど事務的にそう言って去っていった。
残された俺は、社員食堂の隅で頭を抱える。
(家賃……家賃が、上がる……)
寮の家賃は月二万円。都内でこの額は破格だ。ここを追い出されれば、普通のワンルームでも最低七、八万はかかるだろう。
だが、本当の問題はそこじゃない。
俺には、絶対に、何があっても削れない出費があるのだ。
推し活である。
十五歳のあの日。深夜の音楽番組で、俺はテレビの向こうで歌う、一人のアイドルに出会った。
「華」。
デビューしたばかりの、まだ誰も名前を知らない女の子。
中学の教室で、俺はいつも隅っこにいた。目立つのが苦手で、友達も少なくて、自分には何もないと思っていた。そんな俺の胸に、彼女のまっすぐな笑顔と歌声は、雷みたいに突き刺さったのだ。
(この子を、応援したい。この子のためなら、俺、頑張れる気がする)
その瞬間、俺の人生は決まった。
あれから十年。俺はただひたすら、彼女だけを推し続けてきた。
CDは通常盤も初回盤も全種類そろえる。握手会は毎回参戦。ライブは全国どこへでも遠征する。ペンライトも、アクリルスタンドも、缶バッジも、公式が世に出したものは一つ残らず手に入れてきた。
(今月も、地方公演の遠征費で三万。新譜の特典会参加券に二万。ランダム缶バッジをコンプするのにたぶん一万五千……)
給料の三分の一は、余裕で華に消えていく。
それでも、後悔なんて一度もしたことがない。むしろ誇りだ。俺はこの十年、担降りなど一度もしていない。よそ見もしていない。彼女ひとすじ。なんなら――
(……この歳まで、童貞も守り抜いている)
我ながら重い。重すぎる。だが、これが俺の生き方だ。推す者として清く正しく、湧いてくる煩悩はそのつど退散させる。華に恥じない自分でいたい。ただ、それだけなのだ。
俺の寮の部屋は、六畳一間なのに、半分が華で埋まっている。壁一面のポスター。棚にずらりと並んだ缶バッジ。ライブごとに増えていくペンライトの束。どれも、俺が汗水たらして働いた金で、一つずつ買い集めてきた宝物だ。
この部屋にいるだけで、俺は幸せだった。たとえ狭くても、貯金がなくても、彼女に囲まれていられるなら、それでよかった。
「うわ、また華ちゃんの動画見てんの? 佐藤、ほんっと好きだよなあ」
トレイを持って隣に座ってきたのは、同期の隆だった。俺のスマホを無遠慮に覗き込んで、にやにやしている。
「当たり前だろ。見ろ、今日の華ちゃんも尊い」
「その金と情熱、彼女作るのに使えばいいのに」
「馬鹿を言うな。俺の女神は……いや、女神っていうか、とにかく華ちゃん以外にはあり得ないんだよ」
隆は「重症だな」と肩をすくめて笑った。うるさい。ほっといてくれ。
「でもさ、佐藤。お前もう二十五だろ。いつまでもそんな生活してていいのかよ」
ぐさりときた。だが、俺は胸を張る。
「いいんだよ。俺は華ちゃんを推すために生まれてきたんだから」
「言い切ったよこいつ……」
隆が呆れたように味噌汁をすする。この揺るぎなさこそが、十年培ってきた俺の誇りなのだ。
とはいえ、現実は笑い事ではなかった。
寮を出れば、家賃は跳ね上がる。近年の都内だと安くても10万円以上は確定だ。
そうなれば、真っ先に削られるのは推し活費に決まっている。
遠征を減らす? グッズを我慢する? 次のライブを、あきらめる?
(……無理だ。そんなの、俺が生きてる意味がない)
その日、俺は固く決意した。何が何でも、住居費を極限まで切り詰める。推し活を一円たりとも削らないために、家賃だけは絶対に、絶対に安く抑えてやる、と。
そう心に誓った、その日の夜のことだった。
寮の管理人室の前を通りかかると、横に立っていた大家の老人が、俺を呼び止めた。
「佐藤くん。来月、寮を出るんだってねえ。住むところ、困ってるんじゃないのかい」
「……はい。正直、家賃が心配で」
すると大家は、しわだらけの顔で、なぜかにやりと笑った。
「実はな。わしの古い知り合いが持ってる、おんぼろアパートがあるんだ。都内で、駅から歩いて三分。それでいて家賃が……いくらだと思う?」
俺はごくりと生唇を飲み込んだ。
「一万五千円ぽっきりだ」
(一万……五千円……? 都内で? 駅から三分で?)
そんな物件、あっていいはずがない。相場の何分の一だ。何か、とんでもない裏があるに決まっている。事故物件か、あるいは幽霊でも出るのか。
でも――今の俺に、選んでいる余裕なんて、あるはずもなかった。
「そこ、契約させてください」
こうして俺は、人生をひっくり返すことになる、あのボロアパートへ足を踏み入れることになる。
まさか、その隣の部屋に。
十年間ずっと推し続けてきた「彼女」が、息をひそめて暮らしているだなんて。
このときの俺は、まだ、知る由もなかった。
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