第31話 着信相手は「H」
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
101号室の、ドアの前。
俺は、深呼吸を、ひとつした。……ただの、お礼だ。落ち着け、俺。
インターホンを押すと、すぐに、ドアが開いた。
「……いらっしゃい。どうぞ、上がって」
部屋着姿の、麻衣さん。……会社での、きっちりしたスーツ姿とは、まるで違う。やわらかい素材の、ゆったりした服。下ろした髪。……なんだか、直視できなくて、俺は目をそらした。
そして――部屋に一歩、足を踏み入れて。俺は、思わず、固まった。
(……え?)
きちんと、片付いている。それは、予想どおりだった。……問題は、その、センスだ。
淡いピンクの、ファブリック。小さな、ぬいぐるみが、ちょこんと並んだ棚。かわいらしい、花柄のクッション。……仕事の鬼みたいな、あの頼れる先輩の部屋とは、とても、思えない。驚くほど、乙女な、趣味の部屋だった。
「……あの、麻衣さん。……意外と、その」
「……言わないで」
麻衣さんが、ほんのり、頬を赤くして、俺を、じろっと、にらんだ。
「……これでも、気にしてるの。……仕事のイメージと、違うって」
「い、いえ! ……その、いい、と思います。……すごく」
(……かわいい。……いや、部屋が。部屋が、かわいい)
自分でも、何を言ってるのか、わからなくなる。
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ローテーブルを挟んで、向かい合って座る。麻衣さんが淹れてくれた、あたたかいお茶。……なんだか、いつもの、頼れる先輩じゃない。少し、緊張した空気が、二人のあいだに、漂っていた。
「……あのね、佐藤くん」
麻衣さんが、湯呑みを、そっと置いた。
「今日、来てもらったの。……ちゃんと、お礼が、言いたくて」
「お礼、って……」
「……とぼけないで」
麻衣さんは、まっすぐ、俺を見た。
「私、ばかじゃないよ。……あの部長の件。海外の話が、消えたこと。……あなたが、裏で、動いてくれたんでしょう」
どきり、とした。
「……全部は、わからない。あなたも、教えてくれないし。……でも、なんとなく、わかるの。……あなたが、私のために、走り回ってくれたこと」
「……」
「ありがとう。……ほんとに」
その声は、いつもの、姉御肌の麻衣さんじゃなかった。……少しだけ、かすれて、震えていた。
「……いつも、私、頼られてばっかりで。……誰かに、こんなふうに、守ってもらったの。……初めて、かも」
(……麻衣さん)
なんて、返せばいいか、わからなくて。俺は、ただ、お茶を、見つめていた。
――と。
麻衣さんが、少しだけ、身を乗り出した。距離が、近づく。上目づかいで、俺を、のぞきこむ。
「ねえ、佐藤くん……」
「は、はい」
「……佐藤くんって。……お付き合いしてる人とか、いるの?」
――ぶっ。
俺は、危うく、お茶を吹き出しかけた。
「い、いませんっ。……そ、そんな人、いませんっ」
(……推し、一筋、なので……!)
俺が、必死に、そう答えると。麻衣さんの表情が、わかりやすく、ぱあっと、明るくなった。
「……そっか。……いないんだ」
ほっ、と。……その、安心しきった顔。
「……じゃあ、さ」
麻衣さんが、そっと、手を伸ばしてくる。……その指が、俺の手に、ふれそうに――。
《……ねえ、佐藤くん。……私、あなたのこと、……》
――聞こえた。手の甲に、浮かぶ、数字。
【麻衣:68%】
あと、少しで。……はっきりと、聞こえて、しまう。麻衣さんの、本当の、気持ちが。
(――ま、まずい。まずいまずいまずい……!)
その、瞬間だった。
ヴ――ッ、ヴ――ッ。
ポケットの中で、俺のスマホが、けたたましく、震えた。
「――ひゃっ」
麻衣さんが、びくっと、手を引っ込める。……助かった、と思うべきか、どうか。俺は、反射的に、スマホを取り出した。
着信の、画面表示。……そこには、たった一文字。
『H』
(……H? ……誰だ、これ)
こんな連絡先、登録した覚えは、ない。……けど、いまは、この気まずい空気を、ごまかせるなら、なんでもいい。俺は、通話ボタンを、押した。
「……もしもし」
『――君っ! 電話とるの、遅いよっ!』
――その声に。俺の、心臓が、跳ねた。
聞き間違える、はずが、ない。十年、聞いてきた、声。……華ちゃん、だ。
「……え? は、華ちゃん!?」
しまった、と思った時には、遅かった。……その名前を、口にして、しまった。
(……なんで!? なんで、俺の携帯に、“H”で、華ちゃんの番号が――!?)
混乱する俺の、目の前で。
――麻衣さんの、空気が、変わった。
「……はな、ちゃん?」
麻衣さんが、そっと、俺の腕に、手を添えた。……電話を、させまいと、するみたいに。その顔が、ゆっくりと、近づいてくる。
「ねえ、佐藤くん。……その電話、切って?」
(――え。え、えぇぇぇ!?)
なんだ。なんなんだ、この、詰められ方は。……いつもの、頼れる麻衣さんじゃ、ない。
「ねぇ……さとうくーん」
――と。
その、声が。とろん、と、甘く、ほどけた。
(……この、絡み方は)
いやな、予感がした。俺は、そっと、ローテーブルの上を、見た。
――あった。
小さな、空き箱。……“お酒入り、ボンボンショコラ”。
(……まさか)
極度の、下戸。……この人は、チョコに入った、ほんの少しの、お酒だけで。……あの、甘えん坊の、「まい」モードに、突入していたのだ。
「さとうくーん……。ねえ、これ、おいしいよ。……たべさせて?」
とろけた目で、麻衣さんが、チョコの箱を差し出しながら、にじり、にじり、と、にじり寄ってくる。
「い、いや、麻衣さん、それ、お酒! お酒入ってますからっ! もう飲んじゃ、じゃなくて、食べちゃ、だめですっ!」
『――ちょっとぉ! 君ぃ! なに、その女の人の声はっ!』
スマホの向こうで、華ちゃんが、なにやら、ぎゃあぎゃあ、言っている。
『……もう! なんか、やばそうだから、いま、手ぇ、打ったからねっ!』
「え? ……て、手を、打った、って――」
その時、だった。
どんっ、どんっ、どんっ!
玄関の扉が、けたたましく、叩かれた。
「――はぁい、失礼しまーす!」
返事も待たずに、ドアが開いて。……ずかずかと、部屋に入ってきたのは。
「……唯!?」
妹の、唯だった。
「では、夜も遅いので。……お兄ちゃんは、わたしが、連れて帰りますからねー!」
唯は、にっこり笑うと。ぽかんとする俺の腕を、がしっと掴んで。……ずるずると、玄関のほうへ、引きずっていく。
「な、ちょ、唯、待て、なんで――」
「はい、麻衣さーん、今日は、失礼しまーす。お兄ちゃんが、ご迷惑を、おかけしましたー!」
「……ぶー。……せっかく、いいとこ、だったのに……」
とろん、とした麻衣さんの、名残惜しそうな声を、背中に聞きながら。……俺は、唯に、部屋の外へ、放り出された。
---
101号室の、ドアが、ぱたん、と閉まる。
しん、とした、夜のアパートの、廊下。俺は、唯に、こんこん、と、頭を小突かれた。
「……もう、お兄ちゃん。しっかり、してよね」
「い、いや、あれは、その……。……つ、唯こそ、なんで、ここに」
息を、整えながら。俺は、いちばんの、疑問を、ぶつけた。
――そうだ。おかしい。……なんで、唯が、このタイミングで。
「……実はね。……はなちゃんから、連絡が、あったの」
「……は?」
「『お兄ちゃんが、あぶない』って。……だから、飛んできたんだよ」
……華ちゃんから。……唯に。
「……ちょっと、待て」
俺の頭が、混乱する。
「……なんで、お前が。……華ちゃんの、電話番号を、知ってるんだ」
すると、唯は。……にやっと、いたずらっぽく、笑った。
「……知らないの?」
「なにを」
「実はねー。……わたしと、はなちゃん。……もう、けっこう、仲良しなんだよ?」
――ぱちん、と。唯が、ウインクを、ひとつ。
(……な……)
(……仲良し……? ……いつのまに……。……というか、俺の携帯の“H”登録も、まさか――)
夜風が、廊下を、吹き抜けていく。
……俺の知らない、ところで。……華ちゃんが、ずっと、動いていた。
その事実に、俺は、ただ、立ち尽くすことしか、できなかった。
――壁の、向こう。103号室で。
電話の切れたスマホを、抱きしめて。ひとり、ふうっと、安堵の息をつく、彼女がいたことを。……この時の俺は、まだ、知らない。
こちらで麻衣編が完結となります!
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