第30話 カラオケの、決定打(後編)
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
その動画は、咲が、三年前に会社を辞めた元社員から、預かってきたものだった。
「……本人、ずっと、消せずに、持ってたんだって。……いつか、誰かの役に立つかもしれないって」
「……勝手に、使って、いいのか。……その人の、つらい記憶、だろ」
「本人が、“使ってほしい”って、言ってきたの。……やっと、誰かが動いてくれるって。……電話の向こうで、泣いてた」
……そうか。ずっと、たった一人で、抱えてきたんだな。この、一本を。
咲の声が、いつもより硬い。俺たちは、人気のない会議室で、一台のスマホを、二人でのぞきこんだ。
――再生する。
画面に映ったのは、薄暗い、カラオケの個室だった。二次会だろう。マイクを握って、上機嫌で歌う、若い社員たち。その、いちばん端のソファ。
そこに、あの部長が、いた。
女性社員を一人、隅に追い込むように座らせて。……その手が、テーブルの下で。周りに気づかれないと思っているのだろう。彼女の腰から、下へ。……はっきりと、尻のあたりを、何度も、何度も、撫で回していた。
女性は、笑顔のまま、固まっている。……身をよじって逃れようとしても、部長の手は離れない。……あの飲みの夜、俺の目の前で、麻衣さんがされていたことと。……まったく、同じだった。
(……これは)
言葉が、出なかった。怒りで、指先が、冷たくなる。
……三年前も。この人は、こうやって、誰かをいいようにもてあそんでいたんだ。そして、その誰かは、声も上げられずに、会社を去った。
「……ひどい、よね」
咲が、ぽつりと言った。いつもの軽口は、なかった。
「……こんなの、ずっと、なかったことにされてきたんだ。……“飲みの席のこと”って、一言で」
俺は、拳を握った。
「……もう、終わりにしよう。……今度こそ」
俺が撮った、あの夜の動画。三年前の、このカラオケの動画。そして、集まった、何人もの証言。……ばらばらだった点が、いま、一本の線になった。
言い逃れは、できない。「酔って距離が近かっただけ」なんて、通用しない。……これだけの積み重ねが、あれば。
――もちろん、こわくないと言えば、嘘になる。相手は、上とのパイプを持つ、部長だ。……下手を打てば、潰されるのは、こっちのほうかもしれない。
(……それでも)
俺は、あの寝顔を、思い出した。よく頑張ってきたんだな、と、思わず口にしてしまった、あの夜の顔を。
(……ここで、目をつぶったら。俺は、一生、あの寝顔に、顔向けできない)
「……で? これ、どこに持ってくわけ」
咲が、腕を組んで、俺を見た。
「コンプライアンスの窓口。それと、人事。……ちゃんと、正式に、届け出る」
「役員にも、ね。……あの部長、上とのパイプで、揉み消そうとするだろうから。……先に、逃げ道を塞いどかないと」
さすが、人事。……こういう根回しは、こいつのほうが、何枚も上手だ。
咲は、集めた証言を、日付順に、きれいにまとめ直していた。誰が、いつ、どんな被害に遭ったか。……感情じゃなく、事実で殴る。そのための、分厚い束だった。
(……こいつが、味方で、よかった)
「……お前、ほんと、頼りになるな」
「うわ、また、素直。……気持ちわる」
咲が、にっと笑った。……その軽口に。張り詰めていた俺の肩から、少しだけ、力が抜けた。
「……ま、乗りかかった船だしね。最後まで、付き合ってあげる。……“向いてない”名探偵くんの、助手として」
「助手、って……。……まあ、いいや。……ありがとな、咲」
「……にしても」
と、咲が、資料を束ねる手を止めて。にやり、と、いつもの意地の悪い顔に、戻った。
「一人の女の人のために、ここまでするかね、ふつう。……ねえ、和馬。あんた、麻衣さんのこと——」
「ち、ちがう。……上司として、当然のことを、してるだけだ」
「はいはい。“上司として”、ね。……その割に、耳、真っ赤だけど?」
「……っ、う、うるさい!」
あわてて耳を押さえる俺を見て、咲は、けらけらと笑った。……こういうときだけ、こいつは、やたらと鋭い。
告発の日。
俺一人じゃ、なかった。
三年前に辞めた、元社員。ずっと黙ってきた、他部署の女性。……声を上げられずにいた人たちが。今日は、俺の隣に、いてくれた。
「……行きましょう」
誰かが、そう言った。その声は、もう、震えていなかった。
俺たちは、証拠一式を手に、コンプライアンスの窓口の、ドアを叩いた。……長いあいだ、誰も叩けなかった、そのドアを。
その帰り。廊下で、麻衣さんと、すれ違った。
「お疲れさま、佐藤くん」
いつもの、隙のない笑顔。……この人は、まだ、何も知らない。それでいい。全部、片付いてから。……何食わぬ顔で、いつもの日常を、返してやるんだ。
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告発から、二週間ほどが過ぎた。
社内の空気は、日に日に、変わっていった。
あの事業部長が、写った動画。積み上がった、被害の証言。……それらは、コンプライアンス委員会の調査によって、ひとつずつ、事実として、裏づけられていったらしい。
結果は、俺たちが望んだ形で、出た。
新設される予定だった、海外事業部。その部長就任は――白紙になった。当の本人は、責任を問われ、地方の子会社へ、異動。……体のいい、左遷だ。
――そして。
彼が、強引に進めていた、麻衣さんの海外赴任も。……その“根拠”を、失った。
推していた張本人が、いなくなったのだ。もともと、第一営業部が猛反対していた話。後ろ盾を失った内示は、あっけないほど、静かに、立ち消えになった。
(……消えた)
朝、社内の掲示を見て。俺は、こっそり、拳を握った。
麻衣さんは、第一営業部に、残る。……あの、頼れる先輩の居場所は、守られたんだ。
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当の麻衣さんは。……少し、戸惑っているようだった。
「……なんか、へんなの」
給湯室で、コーヒーを淹れながら、麻衣さんが、ぽつりと言った。
「あんなに、話が進んでたのに。……急に、ぜんぶ、なかったことになって。……上の人たちも、なんだか、口が重くて」
……そうだろうな。表向き、部長の“不祥事”の詳細は、伏せられている。麻衣さんには、自分がどんな渦の中にいたのか、その全体像は、知らされていない。
「でも……」
麻衣さんが、湯気の立つカップを、両手で包んだ。……その横顔が、ふっと、ゆるむ。
「……ちょっと、ほっとしてる。……行かなくて、いいんだ、って」
肩の力が、抜けたみたいだった。ずっと張り詰めていた糸が、やっと、ゆるんだ、みたいに。
(……よかった)
その、安心しきった笑顔を見られただけで。……走り回った甲斐が、あった気がした。
「よかったですね、麻衣さん」
俺が、なにげなく、そう言うと。麻衣さんは、こくん、とうなずいて。それから、ふと、俺の顔を、見た。
「……ねえ、佐藤くん」
「はい?」
「……なんか、知ってる?」
どきり、とした。
「え?」
「ううん……。なんとなく。……最近、あなた、やたら忙しそうだったし。……人事の子と、こそこそ、してたって、噂も」
「い、いや、それは……っ」
しどろもどろになる俺を、麻衣さんは、じっと、見ていた。……見透かすような目じゃない。ただ、静かに、何かを、確かめるような。
「……ま、いっか」
やがて、麻衣さんは、ふっと笑って、目をそらした。
「……余計なこと、聞くの、やめとく。……でも」
カップを片手に、給湯室を出ていきぎわ。麻衣さんは、俺に背を向けたまま、小さく、言った。
「……ありがとね。……なんか、いろいろ」
――その一言で。俺の心臓は、ばくばくと、鳴った。
(……気づいてる。……絶対、気づいてる、この人)
黙って、やり過ごすつもりだった。恩を、着せるつもりなんて、なかった。……なのに。この人は、勘だけで、そこに、たどり着いてしまう。
……さすがだ。……本当に、敵わない。
その、去り際。書類の束を渡そうと、麻衣さんの手に、俺の指が、ふれた。
《……もしかして、佐藤くん……》
――聞こえた。手の甲に、浮かぶ数字。
【麻衣:65%】
(……六十五、パーセント)
その本音は、まだ、途中で、途切れていた。……“もしかして”の、その先を。麻衣さん自身も、まだ、うまく、言葉にできずにいるみたいに。
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昼休み。廊下で、すれ違いざま、咲が、俺の脇腹を、つついてきた。
「……ねえ。麻衣さん、なんか、勘づいてない?」
「……たぶん、な」
「あんたが黙ってても、ああいう人は、わかっちゃうのよ。……ま、いいんじゃない。恩着せがましくないの、あんたらしくて」
「……お前が言うと、褒められてる気が、しないな」
「あはは。……ちゃんと、褒めてるっての」
咲は、にっと笑って、去っていった。……相変わらず、こいつには、頭が上がらない。
だが。……“漏れている”のは、咲からじゃない気がした。麻衣さんの、あの勘の良さは。……もっと、別のところから、来ている気が。
(……まさか、な)
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その日の、夜だった。
部屋で、ぼんやりしていると。スマホが、ぴこん、と鳴った。
麻衣さんから、LINE。……珍しい。仕事以外で、麻衣さんが、連絡してくるなんて。
『佐藤くん。今夜、うちに来られる?』
『……お礼が、したいの』
俺は、その二行を、何度も、読み返した。
(……お、お礼? ……うちって、101号室、だよな……)
心臓が、うるさい。……ただの、お礼だ。きっと、そうだ。深い意味なんて、ない。……ないはず、なんだけど。
どうしよう、と、スマホを握りしめた、その時だった。
――こんこん、と。壁が、鳴った。
隣の、103号室から。……いつもの、華ちゃんの、合図みたいに。
(……麻衣、さん?)
なぜか、その音は。……いつもより、少しだけ、強く、聞こえた気がした。
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