第27話 手ぐせの悪い、部長
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
その日の夜。俺は、なんとか、その飲みの席に、もぐりこんでいた。
「大事な顔合わせなら、部下の僕が、幹事として、お店の手配をします」——そう申し出て、半ば強引に、席を取りつけたのだ。麻衣さんは、最初、遠慮しようとした。だが、俺が「勉強させてください」と食い下がると、どこか、ほっとしたような顔で、うなずいてくれた。
……たぶん、この人も、内心では、この飲みを、警戒していたんだと思う。
個室の座敷。案内された部長は、恰幅のいい、五十がらみの男だった。よく日に焼けた顔に、人のよさそうな笑みを浮かべている。……ぱっと見は、たしかに、できる管理職、という感じだ。
「いやあ、麻衣くん。今日は、無理を言って、悪いね」
「いえ。お誘い、ありがとうございます」
麻衣さんは、いつもの、隙のない笑顔で応じる。……だが、その背筋が、いつもより少しだけ、こわばっているのを、俺は見逃さなかった。
乾杯のあと。部長は、さっそく、麻衣さんのグラスに、ビールを注ぎ始めた。
「まあまあ、飲んで飲んで。今日は無礼講だから」
「あ……。私、お酒、あまり強くなくて。ほんの少しで、いいです」
「またまた。若いんだから、いけるでしょ。ほら」
断ろうとする麻衣さんの言葉を、部長は、笑顔で、するりと押し流していく。手酌を許さない。グラスが空く前に、また、注ぐ。……“無礼講”という言葉が、こんなに圧になるものだとは、思わなかった。
麻衣さんは、困ったように、それでも、口をつける。極度の下戸の、この人が。ひと口で記憶をなくす、この人が。
(……だめだ。飲ませすぎだ)
それだけでも、じゅうぶん、まずかったのに。
部長は、話が盛り上がるにつれて、じり、じり、と、麻衣さんとの距離を詰めていった。
「麻衣くんは、ほんと、優秀だよねえ。うちの部に来てくれたら、心強いよ」
そう言いながら、ぽん、と、麻衣さんの肩に、手を置く。
麻衣さんの肩が、びくっ、と跳ねた。
「……あ、ありがとう、ございます」
「肩、こってない? いつも、頑張ってるもんなあ」
その手が、肩を、とん、とん、と叩く。そして、そのまま——ゆっくりと、背中のほうへ、すべっていく。麻衣さんの背筋が、びくっ、とこわばった。
だが、その手は、そこで止まらなかった。背中を、つう、と下へ。あろうことか、腰のあたりから、さらに下——お尻のほうへと、すべり落ちていこうとする。
麻衣さんは、笑顔のまま、とっさに身を引いて、距離を取ろうとする。だが、上司の手を、無下に振り払うことも、できない。ただ、こわばった愛想笑いを浮かべたまま、必死に耐えている。
――その光景を見て。
俺の腹の底で、ぐらり、と、熱いものが煮えた。
(……なんだ、これは。……こんなの、ただの、セクハラじゃないか)
仕事ができる、なんて関係ない。政治力がある、なんて関係ない。この男は、いま、目の前で、俺の上司を——一人の人を、いいように、もてあそんでいる。
(……やめさせたい。今すぐ、この手を、払いのけたい)
だが。ただの部下の俺が、部長の手を、いきなり払いのけたら、どうなる。……麻衣さんの立場が、悪くなる。この理不尽な引き抜きが、へたをすれば、余計に、こじれる。
拳を、握りしめる。爪が、手のひらに、食い込む。
(……くそっ。……何も、できないのかよ、俺は)
いや。……いや、待て。
何も、できないわけじゃ、ない。
俺は、テーブルの下で、そっと、スマホを握った。カメラを、起動する。震える指で、なるべく音を立てないように——部長の手が、麻衣さんに伸びる、その一部始終を、動画に収めていく。
(……せめて。せめて、これだけは。証拠だけは、残してやる)
画面を直視できないから、勘だけで、角度を合わせる。心臓が、うるさい。もし気づかれたら。……いや、気づかれても、かまうもんか。
「ぶ、部長っ。あの、僕にも、注がせてください! 部長の、グラス!」
俺は、わざと大きな声を出して、部長の注意を、無理やり、こちらへ引きつける。
「お、おう。気が利くねえ、きみ」
その隙に、麻衣さんが、ほっと、肩の力を抜くのが、わかった。……こんな、その場しのぎしか、できない自分が、情けなかった。
だが、そんな、俺のささやかな抵抗も。長くは、もたなかった。
注がれ、勧められ、断りきれず。……麻衣さんの顔が、だんだん、赤く、とろんと、なっていく。呂律が、あやしくなる。
「あれ……。わたし、なんか、あたま、ふわふわ……」
「おっと。大丈夫かい、麻衣くん」
部長が、ここぞとばかりに、麻衣さんの体に、手を回そうとする。
――その手が、触れるより、一瞬、早く。
俺は、麻衣さんと部長の間に、体を割り込ませていた。
「——部長。彼女、もう限界みたいです。僕が、責任を持って、介抱して、送り届けます」
「……なんだね、君は! せっかく、いいところだったのに」
部長が、あからさまに、不機嫌そうな顔をした。……“いいところ”。その一言が、何を指すのか。俺は、はらわたが煮えくり返るのを、必死にこらえた。
崩れかけた麻衣さんの体を、とっさに、支える。
その、腕に触れた、瞬間。
《……もう、むり……》
《……たすけて……》
――聞こえた。愛想笑いの、その下で。この人が、ずっと、必死に飲み込んでいた、悲鳴が。
手の甲には、【麻衣:55%】。
(……ああ。……やっぱり、そうだよな。……我慢してたんだよな、ずっと)
その切れ切れの本音を聞いた瞬間。俺の中で、なにかが、静かに、決まった。
もう、その場しのぎで、へらへら笑うのは、やめだ。
「し、失礼します!」
俺は、部長の返事も待たずに、麻衣さんを支えて、立ち上がった。ほとんど逃げるように、個室を後にする。
店の外。夜風が、火照った頬に、冷たい。
まともに歩けない麻衣さんを、俺は、そっと、背中に負ぶった。……そのまま、まだ、火の気の残る店を、振り返る。
(……もう、大丈夫です。……もう、あんな奴のところには、行かせません)
ポケットの中のスマホが、やけに重く感じた。……あの動画が、きっと、この人を守る武器になる。
俺は、決意をあらたにして、麻衣さんを背負ったまま、夜道を、歩き出した。
――背中の、この人の、“本当の願い”を、守るために。
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