第24話 頼れる先輩の、弱音
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
俺の上司は、隙がない。
麻衣さん——二つ上の、二十七歳。第一営業部で、俺の直属の上司だ。
朝はいちばんに来て、夜はいちばん最後まで残る。難しい取引先も、こじれた案件も、気づけば涼しい顔でさばいている。後輩がミスをすれば、怒るより先に一緒に頭を下げてくれて、それでいて、次はどうすればいいかを、ちゃんと教えてくれる。うちの部署が回っているのは、半分くらい、この人のおかげだ。……いや、七割くらいかもしれない。
誰からも頼られて、誰にでも手を差し伸べる。そういう人だった。
(……なのに)
ここ数日、その麻衣さんの様子が、どうも、おかしい。
ちなみに、俺には、会社の人間には言えない“裏の顔”がある。
トップアイドル・華ちゃんの、十年来のファン。しかも今は、ひょんなことから、その華ちゃん本人の隣——ボロアパートの102号室に住み、彼女の“世話係”までやらされている。我ながら、どうかしていると思う。
昼休み、スマホがぴこんと鳴った。華ちゃんからのLINEだ。
『今日、帰り遅い? 冷蔵庫のプリン、食べていいから』
相変わらず、素っ気ないくせに、妙に世話焼きだ。俺は小さく笑って、スマホを伏せた。
……まあ、そっちの話は、ひとまず横に置いておくとして。問題は、目の前の、麻衣さんだ。
◇
その日の夕方。フロアに残っているのは、俺と麻衣さんだけになっていた。
麻衣さんは、さっきから同じ書類を、ぼんやりと眺めている。いつものてきぱきした手つきじゃない。ペン先が、さっきから一文字も進んでいない。
(……珍しいな。あの人が、手を止めるなんて)
声をかけようか迷っていると、給湯室のほうから、ほかの部署の先輩たちの話し声が、切れ切れに聞こえてきた。
「——だからさ、麻衣さんの、海外の話」
「え、まじで? あの人、引き抜かれるの?」
「新しくできる海外事業部だってさ。……栄転だよなあ、普通に考えたら」
海外。引き抜き。栄転。
その単語が、俺の頭の中で、うまく像を結ばない。
(……麻衣さんが、海外に?)
気づいたら、俺は、麻衣さんのデスクの前に立っていた。
「あの、麻衣さん。……その、海外の話って」
麻衣さんの肩が、ぴくり、と揺れた。それから、いつもの余裕のある笑みで、こちらを見上げる。
「……耳が早いね、佐藤くん。もう出回ってるのか」
「本当、なんですか」
「まあね。内示、っていうやつ。正式に決まったわけじゃ、ないけど」
栄転ですよね、と言いかけて、俺は口をつぐんだ。麻衣さんの目が、ちっとも、嬉しそうじゃなかったからだ。
「……あんまり、嬉しそうじゃない、ですね」
言ってしまってから、しまった、と思う。だが麻衣さんは怒らなかった。ただ、手元の書類に目を落として、ぽつりと言った。
「……いま下についてくれてる子たち、まだ育ててる途中でしょ。あの案件も、途中まで来てて。ここで放り出すの、無責任だなって」
いかにも、麻衣さんらしい理由だった。
「それに、ね」
少し、声を落として。
「今回の話……なんていうか。私を“買ってくれてる”っていうより、こう、都合よく“連れていかれる”感じが、するんだよね。……うまく、言えないけど」
私物化。俺の頭に、その言葉が浮かんだ。
◇
「これ、さっきの経費の。判子、もらえますか」
俺が差し出した書類を、麻衣さんが受け取る。そのとき、紙の端で、指先が、ほんの少しだけ触れた。
《……行きたく、ない……》
――聞こえた。
いつか能力で聞いた、あの感覚。触れているあいだだけ、相手の心の声が流れ込んでくる。切れ切れの、短い断片。それでも、はっきりと。
同時に、俺の視界のすみに、見慣れた数字が浮かんだ。
【麻衣:50%】
(……ごまかしてるけど。この人、本気で、行きたくないんだ)
そして、続けて。
【新ミッション:麻衣の“本当の願い”を守れ】
(……また、お前か)
例の、推しの神様のお告げだ。華ちゃんのとき以来の、新しいミッション。……華ちゃん以外にも、出るのかよ。
もう一度、本音を聞こうと、俺は判子を受け取るふりをして、そっと指を近づける。だが。
《…………》
今度は、何も、聞こえなかった。手の甲の数字は、たしかに五十パーセント。なのに、いちばん奥の理由だけは——まるで、彼女自身が、蓋をしているみたいに、届いてこなかった。
(……いちばん大事なところだけ、聞かせてくれないのかよ)
と、そこで。麻衣さんが、思い出したように、顔をしかめた。
「……あ。そういえば来週、歓迎会あるんだった。はぁ。行きたくないなあ、あれ」
「え、めずらしい。麻衣さん、飲み会、嫌いでしたっけ」
「嫌いっていうか……私、お酒、ほんとにだめなの。ひと口で、記憶なくすレベル。だから、ああいうの、なるべく避けてて」
(……ひと口で、記憶をなくす)
なぜだろう。その情報が、やけに不吉に、頭の隅へ引っかかった。
話を、戻す。
「……麻衣さん」
「ん?」
「なんで、そんなに、行きたくなさそうなんですか」
単純で、まっすぐすぎる質問だった。
麻衣さんは、一瞬、言葉に詰まって。それから、ふっと、寂しそうに笑った。
「……さあ。なんでだろうね」
それきり、答えは返ってこなかった。
いつも、俺たちの“なんで”に、ぜんぶ答えをくれる人が。自分の“なんで”にだけは、答えられずにいる。
(……この人の、本当の願いを守れ、か)
視界のすみで、あのミッションの文字が、静かに点滅している。
(……柄にもないけど。今度は、俺が、この人の力になる番なのかもな)
いつも支えてもらってばかりの、頼れる先輩の、初めて見た弱気。
それを俺は、どうしても、放っておけそうになかった。
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