幕間・華side ひとりの夜
華視点のエピソードです
夜の、十一時。
仕事から帰って、シャワーを浴びて。あとは、明日の台本を読むだけ――のはずだった。
なのに私は、さっきから、同じページを三回も読み返している。
……集中できない。理由は、わかってる。わかってるけど、認めたくない。
ぱたん、と台本を閉じて、私は畳の上に、ごろんと寝転がった。ゆるいTシャツの裾がはだけて、おなかに夜風が触れる。……こんな恰好、あいつが見たら、また顔を真っ赤にして「む、無防備です!」とか言うんだろうな。
――って。
なんで今、あいつのこと、考えてんの。
私は、ぱっと起き上がった。
……壁の、あの穴。可愛い紙で塞いだ、小さな穴。その向こうから、かすかに、物音が聞こえる。
かちゃ、かちゃ。……食器を洗う音。それから、下手くそな鼻歌。
……ばか。こんな夜中に、洗い物なんて。ほんと、まめっていうか、貧乏性っていうか。
なのに。そのなんでもない音を聞いてるだけで、私の心臓は、なんで、こんなにうるさいわけ。
(……はあ。……重症だ、これ)
私は、机の引き出しを、そっと開けた。
中には、几帳面に折られた、小さな紙のお守り。……原付試験の朝、あいつがくれた、あれだ。中の覚え書きは、もう暗記するほど読んだ。それでも、捨てられない。
『だいじょうぶ。ぜんぶ、やってきた』
……なにこれ。字、下手だし。文章も、ダサいし。
なのに、どうして私は、これをこんなに大事に、しまってるんだろう。
こっそり、鼻先に近づけてみる。……別に。匂いなんて、しないけど。
(――って、私、なにやってんの!!)
あわてて引き出しを閉めて、私は、窓辺の金魚鉢に、目をやった。
祭りで、あいつが「がんばったから」って私に持たせてくれた、小さな赤い金魚が、ぷく、ぷく、と泳いでいる。
「……ねえ。あんたの名前、どうしよっか」
金魚に話しかける。……我ながら、末期だ。
ふと、頭に浮かんだ名前を、慌てて打ち消す。……や、やだ。なんで、あいつの名前が、出てくるの。金魚に、あいつの名前つけて、どうすんの、私。
机には、問題集に貼られたままの、あいつの付箋。『無理は、しないでくださいね。試験、俺も、応援してます』。
……ほんと、お節介。頼んでないのに。
でも、あいつは、いつもそうだ。私が辛口に突き放しても。無茶な“やり直し”に付き合わされても。文句を言いながら、結局、全部、本気でやってくれる。
……それに。
時々あいつ、私に触れると、変な顔をするんだよね。手が触れた瞬間、雷に打たれたみたいに、びくっとして。顔を、真っ赤にして。
(……なんなの、あれ。……もしかして、私に触るの、いや、とか?)
――ちがう。そんなわけ、ない。だって、あいつの目は、いつもまっすぐ、私を見てる。……アイドルの“華”じゃなくて。ただの、私を。
……はあ。だめだ。考えれば考えるほど、ドツボにはまる。
私は、洗面所の鏡の前に立った。
風呂上がりの、上気した肌。ゆるんだ襟から覗く、鎖骨。……この間の浴衣を、思い出す。麻衣さんの、浴衣。胸のところが、余ってた、あれ。
鏡の中の、自分の胸を見下ろして。
「……むむむ」
……別に。負けてないし。……でも、なんか、あの麻衣さんの、余裕そうな笑顔を思い出すと。……むむむ、って、なる。
なんで私が、こんなこと気にしなきゃ、いけないの。……ぜんぶ、あいつのせいだ。あいつが、あんな浴衣、借りてくるから。
――って。また、あいつ。
私は、ぺたん、と壁に背中を預けた。
すぐ向こう側に、あいつがいる。壁一枚、隔てて。手を伸ばせば、届きそうで。……届かない。
そっと、あの穴のあたりに、手のひらを当ててみる。
……ねえ。
私、たぶん、あんたのこと――。
その先の言葉が、喉まで出かかって。
……だめ。
私は、ぎゅっと口をつぐんだ。
言っちゃ、だめだ。その言葉だけは。……私は、恋愛禁止の、トップアイドル。それを言った瞬間、私は、私の“花火”を――たくさんの人を照らす、あの光を、失うかもしれない。あいつだって、巻き込む。
だから。……この気持ちには、名前をつけない。つけたら、きっと、もう、戻れなくなる。
私は、そう決めて。手を、そっと、壁から離した。
と、その時。壁の向こうから、あいつの、素っ頓狂な声が響いてきた。
「――っ、うそだろ!? 来月、華ちゃんの、単独ライブ! ま、まじか……! チケット、絶対、取らなきゃ……! 最速先行、いつからだ!? う、うわ、ペンライトの電池、買っとかないと……!」
……ばか。
こっちが、こんなに真剣に悩んでるっていうのに。あいつは、壁の向こうで、ひとりで大騒ぎしてる。
しかも。……その、あんたが夢中になってる“華ちゃん”は。今、壁一枚こっち側で、あんたのことばっかり考えて、百面相してる、私なんですけど。
私は、思わず、ふ、と笑ってしまった。
……うん。それでいい。あんたは、ずっと、そうやって。なんにも気づかないで。私の隣に、いて。
「……おやすみ、和馬」
小さく、名前を呼んでみる。――本人に、聞こえないところで、だけ。
金魚鉢の赤い金魚が、ぷく、と、ひとつ、泡を吐いた。
まるで、私の、言えない気持ちの、かわりみたいに。
お読みいただきありがとうございました。
次から麻衣編突入します!




