第19話 水曜日の、居残り勉強
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
水曜の夜。
約束通り、俺は原付の問題集と付箋の束を抱えて、夜十時に隣の103号室の前に立っていた。
華ちゃんは「仕事の後、こっちに帰ってくる」と言っていた。今日から、二人三脚の“居残り勉強”が始まるはずだ。
(よし。……気合い入れていくか)
こんこん、とドアを叩く。
……返事がない。
もう一度叩いても、部屋の中はしんと静まり返ったままだった。
(あれ……まだ帰ってないのか? いや、でも、明かりはついてる)
いやな予感がして、俺はそっとドアノブに手をかけた。
――かちゃ。鍵は、かかっていなかった。
(不用心だな、まったく。……ちょっと、失礼します)
小声で断りながら、そっとドアを開ける。
そして俺は、その場で固まった。
部屋の真ん中、敷きっぱなしの布団の上で、華ちゃんが無防備に眠っていた。
よほど疲れていたのだろう。仕事から帰ってきて、着替えの途中で力尽きたらしい。
ブラウスのボタンは、上からいくつも外れたまま。はだけた胸元からは、汗ばんでうっすら上気した白い肌と、淡い色のレースの縁が、呼吸に合わせて、危うく上下している。エアコンもつけずに寝入ってしまったのだろう。しっとりと汗ばんだ首すじには、細い後れ毛が幾筋も、肌に貼りついていた。
下はスカートを、脱ぎかけたところで力尽きたらしい。ホックの外れたスカートは、腰のあたりで、くしゃりとよじれている。そこから伸びた白い太ももが、際どいところまで、惜しげもなく投げ出されていた。
と、華ちゃんが、ん、と小さく身じろぎして、こちら側へ、ころん、と寝返りを打つ。その拍子に、よじれたスカートの裾が、さらに、ずり上がって――。
淡い色の、下着が、目に飛び込んできた。腰から、なめらかな曲線を描いて続く、まるいお尻のライン。むっちりと張りのある太ももが、寝返りの弾みで、しっとりと汗ばんだ内ももを、きわどくのぞかせている。片膝が、ゆるく立てられて、その奥のほうまで、あと一歩で見えてしまいそうな、危うい格好で。薄い布地は、まるい丸みに、頼りなく食い込んでいて、俺の理性を、正面から、殴りにかかってきた。
あどけなく開いた唇から、すう、すう、と規則正しい寝息がこぼれ、そのたびに、はだけた胸元が、小さく上下する。ふだんの、あの辛口で隙のない華ちゃんは、どこにもいない。ただ油断しきった、無防備な、女の子の寝顔だった。
(――ちょ、ちょっ……! な、なんて格好で寝てるんですか、あなたは……!)
心臓が、口から飛び出しそうだった。目のやり場が、この世のどこにもない。どこを見ても、白い肌が、視界に飛び込んでくる。
このまま扉を閉めて帰るべきなのは、わかっている。でも、こんな無防備な恰好で放っておいて、もし風邪でもひかせたら、世話係の名がすたる。
(ぼ、煩悩退散っ! 煩悩退散っ……! み、見ちゃだめだ、断じて見ちゃだめだ……!)
俺はあらぬ方向に顔をそむけたまま、手探りで足元のタオルケットをたぐり寄せ、彼女の体に、そっとかけていく。
――そのとき、だった。
また小さく身じろぎした華ちゃんの手が。半分眠ったまま、俺のシャツの袖を、きゅっと掴んだ。
(――なっ……!?)
そのまま、たぐり寄せるみたいに、ぐい、と引かれて。俺は、たまらず、彼女の顔のすぐ上に、覆いかぶさるような体勢で、固まった。
吐息が、かかる。汗と、石けんの、甘い匂い。あと少しでも腕の力を抜けば、鼻先が触れてしまいそうな距離に、その寝顔があった。
そして――掴まれた、その袖ごしに。
《……ん……行っちゃ、やだ……》
――聞こえた。寝言みたいに、途切れた、その断片。手の甲には、うっすらと、あの数字が浮かんでいる。
【華:57%】
(ね、寝ぼけてる……! だ、だめだ、これは、事故だ、不可抗力だ……! でも、無理に振りほどいたら、起こしちゃう……!)
俺は、雷に打たれたみたいに硬直したまま、必死に、切れかけた理性の糸を、手繰り寄せる。
(ぜ、絶対に、こっちからは、触れない……! 肌には、指一本、触れない……! それが、俺の、最後の良心だ……!)
どれくらい、そうしていただろう。
やがて華ちゃんは、満足げに「ん……」と息をつくと、ころん、と寝返りを打って、あっさり袖を放した。
……解放された俺は、その場に、へなへなと崩れ落ちた。
(……し、死ぬかと思った……)
どうにか呼吸を整えて、細心の注意を払って、肩までタオルケットをかけ終える。
(……よし、これでいい。俺は、清く正しいファンだ)
ほっと息をついて、ふとデスクに目がいった。
そこには、付箋が几帳面に、何枚も貼られていた。
『六月〇日、原付試験!』
『ここ、絶対おぼえる!』
『標識、にがて。ぜったい復習』
あの辛口で面倒くさがりな華ちゃんが、ひとりでこつこつと、勉強を始めていたらしい。
(……なんだ、これ)
なぜだか、胸の奥がじんとあたたかくなる。
この人は、「テストを受けてみたい」なんて気まぐれみたいに言い出したくせに、ちゃんと本気で、“ふつうの学生”になろうとしていたんだ。問題集のページの端は、何度もめくった跡で少しよれていた。きっと、仕事の合間に、誰にも見せず、ひとりで。
(……そういうとこなんだよな。ほんと、ずるい)
起こすのは忍びなかった。だから俺は、せめてできることをしておくことにした。
冷蔵庫のありあわせで消化のいいおじやを作り、ラップをかけて、すぐ食べられるように置いておく。ついでに、温め直しの時間を書いたメモも添えた。それから問題集を開いて、よく出るポイントに片っ端から付箋を貼っていき、最後に空いた一枚へ、ひとことだけ書き添えた。
『無理は、しないでくださいね。試験、俺も、応援してます』
我ながら、柄にもない。少し迷ったけれど、そのまま机に置いた。
最後にもう一度だけ、眠る華ちゃんの寝顔を見る。
(……おやすみなさい、華ちゃん)
俺は足音を忍ばせて、そっと部屋を後にした。
◇
――翌日の、昼休み。
スマホがぴこん、と鳴った。華ちゃんからのメッセージだ。いつもなら、用件だけのそっけない一言。今日も、たしかにそうだった。
『夜食、食べた。ふつうに、おいしかった』
『付箋のあれ。……ちょっとだけ、たすかった』
そして、続けて。
『標識、やっぱり苦手。でも、今日もちゃんとやる』
『……ぜったい、一回で受かってやるから』
用件みたいな、そっけない短文。絵文字のひとつもない。
でも、その素っ気なさの向こうに、誰にも見せず、ひとりで机に向かって、苦手な標識をこつこつ覚えている――華ちゃんの後ろ姿が、はっきりと見えた気がした。
(……そっか。ちゃんと、やってるんだな、華ちゃん)
気づいたら俺は、その画面に向かって、心の中でしっかりと、声をかけていた。
(がんばれ。……がんばれ、華ちゃん)
あんなに無防備に眠っていたのに、目を覚ませば、また一人で前を向いている。……そういう人だから、俺は十年も追いかけてこられたんだ。
その日は一日じゅう、ふとした瞬間にあの短い文章を思い出しては、俺まで、なんだか力が湧いてくるのだった。
お読みいただきありがとうございました!
煩悩退散!




