第11話 マネージャーの怜子
※本作はフィクションです
あの、美しい監視者に、警告を受けた、翌日。
俺は、一晩、悩んだ末に。意を決して、隣の103号室の、ドアを叩いていた。
華ちゃんに、恋人でもないのに、自分から会いに行く。それだけで、俺の心臓は、はちきれそうだった。だが、あの人の正体を知る手がかりは、彼女しか、持っていない。
(お、落ち着け、俺。これは、やましい訪問じゃない。純然たる、事情聴取だ……!)
「ねー、君。急に、どうしたの」
顔を出した華ちゃんは、もちろん、素顔だ。眼鏡の奥から、けげんそうに、俺を見上げてくる。風呂上がりなのか、ゆったりしたスウェットの襟元からは、ほんのり上気した首筋がのぞき、まだ湿った洗い髪から、石けんの甘い匂いが、ふわりと漂ってきた。
「あ、あの、華ちゃん。ちょっと、聞きたいことが……」
「立ち話も、なんでしょ。入りなよ」
招き入れられ、俺は、思いきって、切り出した。
「昨日、二階の、203号室の人に……唯が、怒られたんです。すごく、綺麗で、でも、ものすごく、怖い人で。しかも、俺のフルネームも、知ってて……」
その瞬間だった。
華ちゃんの、あの、けだるげな空気が。ぴしり、と、こわばった。
「……背の高い、黒髪の人? 目つきが、鋭くて」
「そ、そうです。まさに、そんな感じで……」
華ちゃんは、はあ、と大きなため息をつくと、がしがし、と頭をかいた。
「あーあ。とうとう、君にも、接触したか。……あのね、君。あの人はね。怜子さん。私の、マネージャー」
「え……。マ、マネージャー、さん……!?」
「そう。私が、こんなボロアパートで、素顔で暮らしてること。事務所で、唯一、知ってる人。……で、私が、変なファンに、つけ狙われてないか。あと、私が、羽目を外して、下手なこと、しでかさないか。それを、見張るために。わざわざ、真上の部屋に、住んでるってわけ」
「そ、そんな。芸能事務所の人が、こんな、おんぼろアパートに……」
「本人は、『経費で、もっといいところに住めるのに』って、毎回、ぼやいてるけどね。それでも、絶対に、私のそばを、離れないの」
(な、なるほど……。だから、この安アパートに……)
合点がいった。あの人が、この場所を、見張っていた理由。そして、華ちゃんの隣人である、俺のことを、調べ上げていた理由も。
「じゃ、じゃあ。俺のことも、その……華ちゃんの、危ない隣人じゃないか、って」
「まあ、そういうこと。……たぶん、今ごろ、君の身辺も、洗いざらい、調べてると思うよ。就職先から、学生時代の成績まで」
「そ、そこまで!?」
背筋が、寒くなる。あの人が、意味深に「いろいろ、存じ上げている」と言った、その意味が、ようやく、腑に落ちた。俺と華ちゃんの秘密を、握っている、というよりは。マネージャーとして、俺という人間を、ただ、警戒して、調べ上げていた。それだけ、だったのだ。
「でも、まあ。心配、しなくていいよ」
華ちゃんは、けろっと、そう言った。
「怜子さんは、ああ見えて、仕事は完璧だし。私のことを、いちばん、考えてくれてる人だから。……ちょっと、私に、過保護すぎるのが、玉に瑕だけど」
「そんなに、なんですか」
「うん。『あなたには、絶対に、私みたいには、ならせない』ってのが、口癖でね」
「……私みたいに?」
「さあ。どういう意味なんだろうね」
華ちゃんは、そこだけ、少しだけ、言葉を濁した。まるで、その先には、触れてほしくない、とでも言うように。俺も、それ以上は、聞かなかった。
そう語る華ちゃんの、その横顔は。いつもの、辛口な素顔とも、テレビの、作り笑顔とも、違っていた。信頼している人のことを話す、やわらかな、素の表情。
(……華ちゃんにも、こういう顔が、あるんだな)
十年、追いかけてきた。何百枚もの写真を、見てきた。なのに、この表情だけは、一度も、見たことがなかった。俺だけが知る、素顔の、そのまた奥の顔。
なぜだか、俺の胸が、とくん、と、大きく鳴った。
(い、いかん。これは、ファンとしての、感動だ。断じて、それ以上じゃ、ないんだ……! 煩悩退散……!)
「あ。でも、君」
華ちゃんが、ふと、思い出したように、俺を、じっと見る。
「怜子さん、たぶん、君のこと、これから、めちゃくちゃ、目の敵にするから。覚悟しといてね」
「な、なんで、ですか!?」
「だって。私の、いちばん近くに住んでる、男の人だもん、君。……あの人にとっては、君は、いちばんの、警戒対象。そういうこと」
にやり、と。華ちゃんは、意地悪く、口の端を上げた。
(う、うわあ……問題が、解決するどころか、むしろ、増えてる……!)
結局、怜子さんの正体は、わかった。だが、その代わりに。俺は、これから、あの氷のような美人マネージャーに、四六時中、監視される、という、新たな地獄を、手に入れてしまったらしい。
右隣に推し。左隣に上司。頭上に妹。そして、その真上に――俺を目の敵にする、超・過保護な、マネージャー。
なんて、賑やかで。なんて、気の抜けない、ボロアパートだろう。
それでも。素顔の華ちゃんの、あの、やわらかな表情を思い出すと。俺は、この生活も、まんざらでは、ないのかもしれない、と――ほんの少しだけ、そう思ってしまうのだった。
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