第10話 二階の監視者
※本作はフィクションです。挿絵はすべて自作(AIで生成)です。
肉じゃが事件から、数日。
俺は、いやな予感を、拭えずにいた。
あの夜、去り際に見せた、唯の、あの鋭い目。あれは、絶対に、忘れていない目だ。
そして――その予感は、またしても、的中する。
その日、俺が仕事から帰ってくると。二階の廊下で、うちの妹が、こそこそと、妙な動きをしていた。
手には、なにやらメモ帳。そして、じっと見つめる先は――華ちゃんの部屋の、真上。二階の、203号室の、あたりだった。
(な、なにやってるんだ、あいつ……!)
俺は、あわてて、階段を駆け上がろうとした。
だが、その前に。
「――何を、しているのですか」
凛と、冷たく響く、女の声。
203号室の、ドアが開き。そこから、一人の女性が、姿を現していた。
思わず、息をのむ。それほどまでに、美しい人だった。すらりと背が高く、艶やかな、長い黒髪が、夜風に、さらりとゆれる。細身のパンツスーツを、これ以上ないほど品よく着こなしているのに、それでも隠しきれない、女らしい体の曲線が、いやでも目を引いた。まるで、モデルか、女優のような。だが、その切れ長の瞳は、氷のように、冷ややかだった。
「こんな時間に、他人の部屋の前で、こそこそとメモを取って。あなた、いったい、何のつもりですか」
「え、えっと、その、私はっ……ちょっと、ご近所の、調査を……」
「調査。ほう。ずいぶんと、物騒な、ご趣味ですね」
ぴしゃりと切り返され、さすがの唯も、その圧に、たじたじだ。いつも、俺を問い詰めるときの、あの勢いは、みじんもない。
「……あなた。202号室に、越してきた方ですね。お兄さんの妹だと言いながら、その実、このアパートの住人のことを、あれこれと、嗅ぎ回っている。そういうことも、こちらは、把握しています」
(う、うわ……なんて、人だ……)
俺が、階段の途中で、固まっていると。その女性の視線が、ふと、こちらを、とらえた。
「――ああ。あなたは」
彼女は、俺を見るなり、ほんの少しだけ、目を細めた。
「佐藤和馬さん。ですね」
「な……っ!? な、なんで、俺の、フルネームを……!」
会ったことも、ないはずだ。なのに、この人は。俺の名前を、まるで、調べ上げたかのように、正確に、口にした。
「あなたのことも、私は、よく存じ上げていますよ。……いろいろと、ね」
背筋が、ぞくり、とした。含みのある、その言い方。……もしかして、この人は。俺と、華ちゃんの「秘密」を、何か、知っているのかもしれない。
(な、なんだ……? この、意味深な感じは……)
できることなら、それは、どういう意味ですか、と聞いてみたい。だが、唯の前で、へたに口を開けば、こちらの秘密が、どこから、ほころびるか、わからない。俺は、ただ、冷や汗を流して、突っ立っていることしか、できなかった。
彼女は、そんな俺の内心など、見透かしたように、ふっ、と息をつく。そして、唯へと、視線を戻した。
「妹さんも、いいですか。このアパートのことに、これ以上、首を突っ込まないこと。あなたの、お兄さんのためにも、ね」
「お、お兄ちゃんの、ため……?」
「ええ。――二度と、このアパートのことを、嗅ぎ回らないでください。次は、ありませんよ」
最後に、ぴしゃりと釘を刺して。彼女は、静かに、203号室へと、消えていった。
あとには、しん、と静まり返った廊下と。青い顔をした、俺と、唯だけが、残された。
◇
その夜。俺の部屋に、唯が、しおしおとやってきた。いつもの、勝ち気な様子は、どこにもない。
「……お兄ちゃん。あのね、私、相談があって」
「お、おう。どうした」
「上の階の、あの、綺麗な人。……なんか、ものすごく、怖かったの。ずっと、この辺りを、見張ってる感じもするし。それに、私のことも、お兄ちゃんのことも、なんでか、ぜんぶ知ってるみたいで。……あの人、いったい、何者なんだろう、って」
「まあ、確かに、ちょっと、普通じゃない感じは、したよな……」
「でしょ? しかも、『お兄ちゃんのため』とか、言うんだよ? どういう意味なんだろう。……ねえ、お兄ちゃん。もしかして、なんか、私の知らないところで、危ないことに、巻き込まれてたり、しない……?」
上目づかいに、心配そうに、そう問うてくる。しゅん、とうなだれた妹は、いつもより、ずっと、幼く見えた。
(……巻き込まれてる、っていうか。むしろ、渦中の、ど真ん中なんだけど……)
もちろん、そんなことは、口が裂けても、言えない。
(……唯のやつも、さすがに、怖かったんだな)
俺は、内心、ほっとしていた。これで、あいつも、余計な詮索を、やめてくれるだろう、と。
だが、それ以上に。俺の頭を、占めていたのは。
あの女性の、言葉だった。
『あなたのことも、私は、よく存じ上げていますよ』
あの人は、何者なのか。なぜ、俺のことを、あんなに知っていたのか。ひょっとして――俺と華ちゃんのことも、何か、感づいているのだろうか。そして、何のために、この安アパートで、俺たちを、見張っているのか。
(……これは、もう。華ちゃん本人に、直接、聞いてみるしか、ないか)
あの人が、いったい、誰なのか。その答えを持っているとしたら、きっと、隣の部屋の、彼女だけだ。
右隣に推し、左隣に上司、頭上に妹。そして――そのさらに向こうに、正体不明の、美しい監視者。
役満だと思っていた、俺のボロアパート。どうやら、その上を行く、もう一人の役者が、静かに、舞台に上がってきたらしい。
俺の、騒がしすぎる新生活は。まだ、始まったばかり、なのだった。
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