第2話 7月6日 平和な日常。
「ふぃ~~アッツ!!」
家から学校まではチャリで十五分ほどの距離しかないが、七月の日差しが容赦なく照りつける昼間に出れば、その程度の距離でも全身から汗が噴き出してくる。校門をくぐる頃には制服の下の肌着が肌へ張り付き、背中にまとわりつく不快感に思わず顔をしかめた。
「あいつは‥‥まだ来てないのか。なら、先に始めておくか。」
誰もいない静かな図書室へ足を踏み入れると、俺は窓際の席へ荷物を置き、参考書とノートを机へ広げる。
普段の俺なら休日にわざわざ学校まで来て勉強しようとは思わない。家の方が静かで集中出来るし、誰にも邪魔されないからだ。それでも今日ここへ来た理由は単純だった。中学から付き合いのある友達に、「一緒に受験勉強をしよう」と誘われたからである。
静まり返った図書室には、ページをめくる音とシャープペンシルが紙を擦る音だけが静かに響いていた。窓から差し込む夏の日差しが机を照らし、時間だけがゆっくりと流れていく。
そんな中、一人で問題集を解き進めていると――ガラガラッ!!と静寂を破るように勢いよく図書室の扉が開け放たれた。
「わりぃ!!!寝坊した!!」
肩で大きく息をしながら飛び込んできたのは、中学時代からの友達である高橋将人だった。ここまで全力で走ってきたのだろう。制服は汗で濡れ、額からは汗がぽたぽたと床へ落ちている。
「遅いぞ、将人!!こっちだ。」
「いや~~わりぃ!!早起きして家で勉強してたら、いつの間にか机で寝ちまってさ!!」
頭を掻きながら苦笑する将人に、俺は呆れたように肩を竦めた。
「別にいいぞ。俺は俺で先に始めてるから、なら、やろうぜ。確か数学だったよな?」
「あぁ‥‥そうだ。悪いな、教えてもらって。」
「いや、いい。人に教えることで、自分の理解も深まるからな。」
将人とは親友と呼べる仲だが、不思議なくらい性格も趣味も正反対だった。
俺は家でのんびり過ごす方が好きなインドア派だが、将人は休日になれば外へ飛び出していくアウトドア派。俺は理系科目が得意で、将人は国語や社会といった文系科目が得意。大人数で騒ぐのが苦手な俺とは違い、将人は誰とでもすぐ打ち解けることが出来る。
それほど正反対の二人だからこそ、お互いに無い部分を補い合えたし、相手が何を嫌い、何を好むのかを誰よりも理解しているで、その積み重ねが、長年変わらず仲良くやって来られた理由なのだろう。
そうして俺達は再び机へ向かい、受験勉強に没頭していった。
問題を解き、分からないところを教え、また次の問題へ進む。その繰り返しを続けているうちに、気付けば四時間もの時間が過ぎ去っていた。
窓の外はすっかり西日に染まり始め、教室へ差し込む光も夕暮れ特有の赤みを帯びている。
その時だった。
「ぐううう~~」
静かな図書室へ場違いなほど大きな腹の虫が響き渡った。その音はまるで怪物が低く唸ったかのようで、思わず俺は顔を上げる。
「あぁ‥‥もうだめだ。腹が減って死にそうだ。一旦、ここらで休憩にしないか?」
腹を押さえながら情けない顔をする将人に、俺は苦笑を浮かべた。
「そうだな。もう四時間ぐらいやってるしな。少し休憩にするか。飯は持ってきたのか?」
「おうよ。母ちゃんに頼んで作ってもらった。そっちは、凪ちゃんの手料理か?」
「まぁ‥‥な。」
俺達は机の上の参考書やノートを端へ寄せ、それぞれ弁当箱を取り出した。
蓋を開けた瞬間、卵焼きや唐揚げの香りがふわりと鼻をくすぐる。
「うわ~~相変わらず美味そうな弁当だな!!本当に羨ましいわ!!」
「そうか?将人の弁当だって十分美味そうだけどな。」
「チッチッ‥‥お前は何も分かってない。」
将人は人差し指を左右に振りながら、大袈裟に肩をすくめる。
「確かに弁当だけ見れば、どっちも美味そうだ。だけどな、お前の弁当を作ってるのが学校一の美少女、凪ちゃんっていう補正がデカいんだよ!!」
そう、将人の言う通り妹の凪は勉強もスポーツも何でもこなし、その容姿も飛び抜けて整っている。高校テニスの記事では「コートの女神」と紹介されるほどで、学校でも知らない者はいない有名人だった。
「そんなに凪の弁当が食べたいなら、今度作ってもらうか?」
あまりにも羨ましそうな顔をしているので何気なくそう言うと、将人は額へ手を当て、大きく天井を仰いだ。
そして今まで聞いたこともないほど深いため息を吐く。
「お前って‥‥本当に鈍感というか、バカというか‥‥凪ちゃんが可哀想だ。」
「何がだよ?」
「はぁ‥‥。」
俺が首を傾げると、将人はもう一度深いため息を吐き、弁当箱を閉じながら真面目な口調で話し始めた。
「あのな、世の中にいる妹ってのは、凪ちゃんみたいな対応は普通してくれないんだよ。料理を作ってくれたり、朝起こしてくれたり、洗濯や家事までしてくれたり、そんな嫁みたいな存在じゃない。」
そこで一度言葉を区切ると、俺を真っ直ぐ見つめながら問い掛けてきた。
「じゃあ、何で凪ちゃんはそれをしてくれると思う?」
「そりゃ~~家族だからだろ?」
俺は迷うことなく答えた。
だが、その返事を聞いた将人は額へ手を当て、今度はさっき以上に大きなため息を吐いて肩を落とす。
「はぁ‥‥もういいわ。その内、気付けるといいな。」
「??」
何を言われているのかまるで分からない俺は頭の上に疑問符を浮かべたまま将人を見つめることしか出来なかった。
その時――ガラガラッと再び図書室の扉が開いた。
俺達が同時に視線を向けると、そこには先程まで話題にしていた張本人である凪が立っていた。
肩まで伸びた綺麗な髪を揺らしながら図書室へ入って来た凪は、俺達の姿を見つけると小さく息を吐き、そのままこちらへ歩いて来る。
「あれ、凪‥‥部活は?」
「今日は終わりました。」
短く答えた凪は俺の机へ視線を向ける。
「だから、まだ勉強してるかと思って来たんですが‥‥。」
そこまで言ったところで、机の上に広げられた弁当箱を見つけた。
その瞬間、僅かに柔らかかった表情が見る見るうちに曇っていく。
「‥‥何で、勉強もしないで喋ってるんですか?」
少し低くなった声に、俺は苦笑しながら肩を竦める。
「いや、さっきまでちゃんと勉強してたんだ。弁当を食べるから少し話していただけだ。」
その言葉を聞いた凪は弁当箱へもう一度目を向け、小さく眉をひそめた。
「‥‥今、食べたんですか?」
「そうだけど。」
俺が何気なく答えた次の瞬間だった。凪は呆れたように額へ手を当て、大きくため息を吐く。
「本当にバカですか?」
「え?」
「今食べたら夜ご飯が食べられないでしょ?何で、ちゃんとお昼に食べないんですか。」
その口調こそ厳しいものの、怒っているというより心配しているようにも見える。俺は言い返そうとして隣の将人へ助けを求めた。
「いや、それは‥‥集中していたからだよな?将人。」
急に話を振られた将人は目を丸くし、箸を持ったまま固まる。
「え!!」
「そうなんですか?」
凪が静かに将人へ視線を向ける。
その視線を受けた将人は一瞬だけ笑顔を引きつらせると、乾いた笑みを浮かべた。
「いや、それは‥‥まぁ、そういうこともあるかな?いや~~ちょっと俺、用事を思い出したわ!! 今日は数学を教えてくれてありがとな!! じゃあ、またな!!」
言い終えるや否や、将人は弁当箱を慌ただしく片付けると、逃げるような勢いで図書室を飛び出して行った。
「あ、おい!!」
慌てて呼び止めようと立ち上がる。
しかし、その直後に横から感じた冷たい視線に思わず動きを止めてしまった。
恐る恐る振り向くと、腕を組んだ凪がジッと俺を見つめている。
その視線だけで、「追い掛けないでください」と言われている気がして、結局俺は将人を見送ることしか出来なかった。
「はぁ‥‥まぁ、お弁当のことは今さら言っても仕方ないね。」
もう一度小さくため息を吐いた凪は、先程のような敬語はやめていつも通りの喋り方に戻して、少しだけ表情を和らげて俺を見る。
「それより、もう勉強は終わりでいいの?」
「あぁ、そうだな。」
「だったら、夜ご飯の買い出しに付き合って、今日のご飯が何もないから。」
「分かったよ。」
俺は机の上を片付け、参考書やノートを鞄へしまい込む。
図書室を出る頃には、窓の外はすっかり夕焼け色に染まり、校舎の廊下も柔らかな朱色の光に包まれていた。
俺と凪は肩を並べて学校を後にして、そのまま近くのスーパーへ立ち寄り、夕食の材料が入った買い物袋を手に帰路へ着くのであった。




