第9話 はじめての朝食で、王国最強の騎士たちが静かになりました
翌朝。
私は、窓から差し込む小鳥のさえずりと薄明かりで目を覚ました。
「ん……よく寝た……」
マチルダさんが用意してくれた一階の私室のベッドは、思いのほかふかふかだった。
前世の家では、夫の健一が少しでも寝返りを打つと舌打ちをされるため、いつもベッドの端で体を縮めて寝ていた。だから、大の字になって朝までぐっすりと眠れたのは、本当に久しぶりのことだった。
身支度を整え、そっと部屋のドアを開ける。
昨夜、廊下に座り込んでいたジンさんの姿はもうなかったけれど、私が貸した予備の毛布が、綺麗に畳まれてドアの横に置かれていた。
「ふふっ。ちゃんと寝られたのかな」
私は毛布を抱え上げ、厨房へと向かった。
昨日の惨状を見て、この寮の最大の問題は「食生活」にあると痛感したからだ。
熱湯で服を縮ませる団長、お湯を沸かすだけで台所を燃やす副団長、ゴミ屋敷で魔法を暴発させる魔導師、お菓子しか食べずに倒れる回復術師、そして不眠症の諜報員。
彼らの生活の基盤は、完全に崩壊している。
栄養状態の悪化は、体力や魔力の低下に直結する。
まずは、温かくてまともな朝ご飯を食べさせることから始めなければ。
昨日のうちに少しだけ整理しておいた戸棚を開け、食材を確認する。
ここにあるのは、見慣れた日本の食材ではない。けれど、マチルダさんから渡された資料と主婦の勘を頼りにすれば、なんとかなりそうだった。
主食になりそうなのは、お米と麦の中間のような丸い穀物『月麦』。
少し硬そうだけれど、たっぷりのお湯で時間をかけて炊き上げれば、ふっくらとしたお米のように食べられるはずだ。
「あとは、お味噌汁の代わりになるようなものは……」
保存庫の奥で、小さな樽を見つけた。
蓋を開けると、ふわりと芳醇な発酵の香りが漂ってくる。
『ルグ豆味噌』と呼ばれるその調味料は、日本の赤味噌にとてもよく似た匂いとコクを持っていた。
「よし、これでお汁を作ろう」
私は腕まくりをして、エプロンの紐をきゅっと結び直した。
魔力炉の火を適切に調整し(セオドアさんのように最大火力にはしない)、鍋でお湯を沸かす。
じゃがいものような『土芋』と、玉ねぎに似た甘みの強い『甘珠葱』を一口大に切り、鍋に投入する。
トントン、トントンという小気味良い包丁の音が、静かな厨房に響き渡る。
野菜が柔らかく煮えたところで、ルグ豆味噌を溶かし入れる。
じゅわぁっ、と香ばしくてホッとするような香りが、白い湯気と共に厨房いっぱいに広がった。
「いい匂い……」
次に、濃厚な黄身が特徴の『火鶏卵』をボウルに割り入れる。
醤油の代わりになりそうな『黒穀だれ』を少しと、昨日ノエルくんのパン粥で使った甘いシロップを隠し味に加え、よく混ぜ合わせる。
熱したフライパンに油を敷き、卵液を流し込む。
ジューッという軽快な音と共に、卵の端がふつふつと膨らむ。それを菜箸で手早く巻き込み、美しい黄金色の厚焼き卵を完成させた。
炊き立ての月麦から上がる甘い湯気。
出汁と味噌の香りがふわりと立つ温かいお汁。
彩り豊かな卵焼き。
「うん。上出来ですね」
私がそう言って額の汗を拭った、その時だった。
「……かすみさん。それ、なんですか……っ!?」
バンッ!と勢いよく食堂の扉が開いた。
そこに立っていたのは、寝癖で金髪を爆発させたルーカスさんだった。
彼は目を真ん丸に見開き、犬がご馳走を前にした時のように鼻をひくひくとさせている。
「おはようございます、ルーカスさん。朝ご飯ですよ」
「あ、朝ご飯……? 俺たちの寮で、朝からこんなに良い匂いがするなんて……」
ルーカスさんがフラフラとテーブルに近づいてきたのを皮切りに、二階からぞろぞろと足音が聞こえてきた。
「おい、下の階からなんか変な匂いがすんぞ……」
不機嫌そうに目を擦りながら降りてきたのはカイルくん。
「……良い匂い。お腹すいたぁ……」
昨日の貧血が嘘のように、ふらりと現れたノエルくん。
「……驚いたな。この時間に起きてくるなど、我が分隊の歴史において異例中の異例だ」
銀縁眼鏡の位置を直しつつ、冷静を装いながらも視線はテーブルに釘付けになっているセオドアさん。
そして、いつの間にか食堂の隅の影からスッと姿を現したジンさん。
全員、寝巻きのままで、信じられないものを見るような顔をして食堂に集まってきた。
「皆さん、おはようございます。さあ、冷めないうちに座ってください」
私が五人分の配膳を終えると、彼らは恐る恐るテーブルを囲んだ。
「かすみさん。この、茶色い液体は一体……?」
ルーカスさんが、ルグ豆味噌のお汁を指差して尋ねる。
「ルグ豆味噌を使ったスープです。お野菜もたっぷり入っていますから、体が温まりますよ」
「……味噌、だと? あれは保存用の調味料だ。そのまま食すには塩分濃度が高すぎるし、お湯に溶かすなどという発想は、戦術的にも常識外れだ」
セオドアさんが眉間を寄せて分析を始める。
彼らは普段、カチカチの硬いパンと乾燥肉、あるいは甘いだけのお菓子しか食べていないらしい。
温かくて、複数の食材が組み合わさった『料理』というものに、明らかな警戒心を抱いていた。
『なんだよこれ、味が薄いな。お前の飯はいつも一味足りないんだよ』
ふいに、健一が私の作った味噌汁を一口飲んで吐き捨てた記憶が蘇る。
あの時は、悲しくて言い返せなかった。
でも、今は違う。
「いいから、騙されたと思って一口飲んでみてください。ほら、冷めちゃいますよ」
私がふわりと微笑んで促すと、五人は顔を見合わせ、やがて覚悟を決めたように木のスプーンを手に取った。
ごくり。
誰かが喉を鳴らす音がした。
そして、彼らは一斉に、ルグ豆味噌のお汁を一口、口に含んだ。
「…………っ!?」
ピタリと、全員の動きが止まった。
食堂の中に、痛いほどの静寂が落ちる。
「……あ、あの。お口に合いませんでしたか?」
私が不安になって尋ねた次の瞬間。
「うっっま……!!!」
最初に叫んだのは、カイルくんだった。
彼は目を見開き、スプーンを放り出して、両手でお椀を掴むと、ゴクゴクと音を立ててスープを飲み始めた。
「な、なんだこれ!? しょっぱいだけじゃない、すっげぇ深い味がする! 芋もとろとろで美味ぇ!!」
「えっ? ほんとだ……! かすみさん、これ凄いです! 喉を通った瞬間、体の中がカーッて熱くなって、力が湧いてくるみたいです!」
ルーカスさんも目を輝かせ、犬の尻尾が見えそうなくらい喜んでいる。
「甘くて、ふわふわ……。お姉ちゃん、この黄色いの、お菓子みたいに美味しい……」
ノエルくんは、甘めに味付けした厚焼き卵を口いっぱいに頬張り、幸せそうに目を細めている。
「……信じられない」
セオドアさんは、お椀を持ったまま固まっていた。
「複数の食材の風味が、互いを殺すことなく、見事な調和を見せている。塩分と糖分の比率も完璧だ。……食事とは、ただ栄養を摂取するだけの単純な作業ではなかったのか……?」
彼は理屈っぽく呟きながらも、その手は止まることなく次々と料理を口に運んでいる。
そして、ジンさんは。
一言も発することなく、ただ黙々と、信じられないほどの猛スピードで月麦のどんぶりを平らげていた。
その灰色の瞳の奥に、確かな熱と安堵の光が宿っているのが分かった。
「ふふっ。おかわり、たくさんありますからね」
私がそう言うと、五人は無言のまま、ものすごい勢いで食事にがっつき始めた。
カチャカチャと食器の触れ合う音。
「おかわり!」「俺の肉を取るな!」「うるせぇ、早い者勝ちだ!」という騒がしい声。
その光景を見つめながら、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
私が十二年間、毎日当たり前のようにやってきたこと。
『誰でもできる』と見下され、価値がないと否定されてきたこと。
それが今、この異世界で、王国最強の騎士たちを笑顔にし、彼らの体を満たしている。
彼らは、私が作った料理を無視しない。
ため息をつかない。
美味しいと、全身で伝えてくれる。
「……作ってよかった」
小さく呟いた私の声は、賑やかな食卓の音にかき消された。
あっという間に、五人分の食事は鍋の底まで綺麗に空っぽになった。
「はぁ~……食った。もう動けねぇ……」
カイルくんが満腹のお腹をさすりながら、椅子に深く寄りかかる。
「素晴らしい成果だ。これだけの栄養と熱量を朝から摂取できれば、午前の演習のパフォーマンスは劇的に向上するだろう」
セオドアさんが、満足そうに眼鏡を押し上げる。
「お姉ちゃんのご飯、毎日食べたい……」
ノエルくんがとろんとした目で私を見つめる。
「……美味かった。……ありがとう」
ジンさんが、小さく、けれどはっきりと感謝を口にする。
そして、ルーカスさんが、ふうっと深く息を吐き出し、私の方へと向き直った。
いつもの人懐っこい笑顔ではなく、ひどく真剣で、どこか切羽詰まったような表情だった。
「かすみさん」
「はい。どうしました?」
ルーカスさんは、私の目を見据えて、真っすぐで重い言葉を放った。
「かすみさんがいないと、俺たち……もう前の朝に戻れません」
その言葉は、私にとって何よりも強い、初めての『評価』だった。
(続く)




