第8話 無口な諜報員が、なぜか私の部屋の前にいました
お菓子ばかり食べて倒れてしまった美少年回復術師、ノエルくん。
彼をベッドまで運び(見た目以上に重くて、ルーカスさんに手伝ってもらう羽目になったけれど)、ようやく自分の部屋へと戻る廊下を歩いていた。
窓の外は、すでに濃藍色の帳が降りている。
慣れない異世界での初日。
服を縮ませる団長、台所を燃やす副団長、部屋が爆発する魔導師、そして栄養失調の美少年。
次から次へと現れる「生活能力ゼロ」なエリート騎士たちの世話を焼き、私の精神はすでに限界に近かった。
「はあ……。とにかく、一度横になりたい……」
マチルダさんが用意してくれた、一階の奥にある私室。
そのドアの前に辿り着いた時。
私は、息が止まるかと思った。
「……っ!?」
自分の部屋のドアのすぐ脇。
廊下の暗がりに、ひっそりと「影」が張り付いていたのだ。
音もなく。気配もなく。
そこには、一人の男の人が膝を抱えて座り込んでいた。
月明かりすら届かない場所で、彼は彫刻のように動かず、じっと床を見つめていた。
黒い髪に、灰色の瞳。
体格はルーカスさんと同じくらい大柄だが、存在感が希薄すぎて、すぐそばに寄るまで気づかなかった。
「……あ、あの。どなたですか?」
震える声で尋ねると、その影がゆっくりと、機械のような予断のない動きで顔を上げた。
光を反射しない、深い灰色の瞳。
整っているけれど、感情が一切抜け落ちたような無機質な美形。
彼は私をじっと見つめた。
まるで見えない何かを計測しているような、冷徹で鋭い視線。
「…………いた」
低く、掠れた声がこぼれた。
「え?」
「……香澄。……寮母」
「はい、そうですが……。あの、ここで何をされているんですか? もう夜も遅いですし、お部屋に戻られた方が……」
私が一歩近づくと、彼はわずかに肩を震わせた。
そして、すがるように私のエプロンの裾を掴もうとして――その手が空中で止まる。
彼は自分の大きな手を、汚い物でも見るように見つめ、力なく床へ戻した。
「……ジン。……ジン・クロウフィールドだ」
「ジン、さん……」
彼が、第七分隊の五人目。
潜入や暗殺を司るという、諜報員の男性だった。
「……眠れない」
「え?」
「一人だと、……暗いと、……眠れない」
ジンの瞳の奥には、凄まじいまでの疲労が溜まっていた。
目の下の隈は、先ほどのノエルくんよりもずっと深刻に見える。
「任務で、……ずっと、一人だった。……気配を消して、……音を消して。……そうしていたら、……戻り方が、分からなくなった」
彼の言葉は断片的で、けれど胸を締め付けるような切実さを帯びていた。
私は、彼がなぜ私の部屋の前にいたのかを察した。
この寮の中で、今日一番忙しく立ち回り、一番「生きた生活の音」を立てていたのは私だ。
料理をし、掃除をし、誰かを叱り、笑う。
そんな私の気配が残るこの場所が、死の淵を歩き続けてきた彼にとって、唯一の「生流」を感じられる場所だったのかもしれない。
『おい、うるさいんだよ! 寝てる時にバタバタ家事してんじゃねえ!』
ふいに、前世の記憶が疼いた。
元夫の健一は、私の立てる生活音を極端に嫌った。
私が翌日の彼のお弁当のためにキッチンで作業をしていると、寝室から出てきて怒鳴り散らした。
『お前のせいで眠れない。明日の仕事に響いたらどう責任取るんだよ。専業主婦は気楽でいいよな』
私はそれ以来、夜は息を潜めるようにして過ごすようになった。
自分の存在が、誰かの眠りを妨げる悪でしかないのだと思い込まされていた。
――けれど、この人は。
「……あんたが、……そこにいると。……音が、聞こえる」
ジンさんは、弱々しく独白を続けた。
「……生きてる、音がする。……だから、……ここにいたい。……迷惑か」
彼は、私を便利に使おうとしているわけではなかった。
ただ、消えてしまいそうな自分を繋ぎ止めるために、私の立てる「日常の音」に縋っているのだ。
「……迷惑なわけ、ないじゃないですか」
私は、ドアの前にしゃがみ込み、彼と視線を合わせた。
健一に「うるさい」と言われた私の家事が。
この異世界では、一人の男を救うための「音楽」になるというのか。
「ジンさん。今日はもう遅いですから、私の部屋のドアを開けておきます。私は中で休みますけど、廊下で寝るなんて風邪を引いちゃいますから、そこのソファを持ってきましょうか?」
「……いや。……ここでいい」
ジンさんは首を振った。
「……ドアが、……少し開いていれば。……あんたの寝息が、……聞こえれば、……眠れる」
「……はいはい。もう、しょうがないですね」
いつもの口癖が出てしまったけれど、今回は少しだけ、誇らしい気持ちがあった。
私は自室に入り、指示通りにドアをわずかに開けておいた。
そして、押し入れから予備の毛布を引っ張り出すと、廊下の彼にそっと掛けた。
「……あったかい」
ジンさんは毛布にくるまり、少しだけ、本当に少しだけ、表情を緩めた。
「……ありがとう、香澄」
「おやすみなさい、ジンさん」
私がベッドに入り、静かに目を閉じると、廊下から微かに、重い荷物を下ろしたような安らかな吐息が聞こえてきた。
隊長に、副隊長。魔導師に、回復術師。そして、諜報員。
五人、揃いも揃って、生活能力なんて微塵も持っていないダメ男たち。
けれど。
『家事しかできない』と言われた私の力が、この世界では彼らの命を、心を、明日を繋ぐために必要とされている。
明日からは、もっと本格的に動かなくちゃ。
まずは、あの無茶苦茶な食生活をどうにかしないと。
「……この寮、まずは朝ごはんからですね」
私は暗闇の中で小さく微笑み、深い眠りへと落ちていった。
(続く)




