第57話 副隊長は、人生を共に設計したいそうです
昨日の朝、ルーカスさんが寮の裏庭から放った『告白タイム』の宣戦布告により、第七分隊の寮は上を下への大騒ぎとなっていました。
あれから丸一日が経った今日の午後。
私は、寮の廊下を歩きながら、少しだけソワソワと落ち着かない気持ちを抱えていました。
「かすみさん。今、少しだけ時間はありますか」
昼食の片付けを終えた私に、そう声をかけてきたのは、副隊長のセオドアさんでした。
「はい、大丈夫ですよ。どうかされましたか?」
「……少し、私の執務室まで来てください。見ていただきたいものがあります」
いつもと変わらない、理知的で冷静な声。
銀縁眼鏡の奥の瞳も、普段通りに淡々としているように見えましたが、彼の歩くペースがいつもよりほんの少しだけ速いことに、私は気がついていました。
(見ていただきたいもの、って何だろう……)
彼の背中を追いかけて執務室の前に立ち、ガチャリと扉が開かれた瞬間。
私は、目の前に広がった光景に、思わず息を呑んで立ち尽くしてしまいました。
「え……っ?」
セオドアさんの執務室の壁一面に。
本当に、床から天井に至るまで、巨大な羊皮紙が何枚も貼り合わされていました。
そして、そこには恐ろしく緻密なグラフと、びっしりと書き込まれた細かい文字が並んでいたのです。
その巨大な図表の一番上には、ひときわ大きな文字で、こう書かれていました。
『香澄さんとの五十年計画』
「セ、セオドアさん……これはいったい……?」
私が目を丸くして尋ねると、セオドアさんはコホンと一つ咳払いをし、長い指示棒を手に取って、その壁の前に立ちました。
「論理的に考えて、ルーカスのような勢いだけの感情論で君の生涯を預かることは、リスク管理の観点から推奨できません。……私は、君を最も確実に、かつ持続的に幸せにするための、完璧な人生設計を構築しました」
セオドアさんは、真剣そのものの顔で、指示棒をグラフの『一年目』の地点に当てました。
「まず、一年目。……結婚と、新居の設計です」
「け、結婚っ!?」
「はい。君の家事動線、日照角度、さらには君が最もリラックスできる色彩心理学を取り入れた、完璧な家を設計します。……五年目には、私は前線に立つこの副隊長の職を辞し、より安全で勤務時間の安定した王国の補佐官へと転職します。これで、君と一緒に夕食をとる時間を百パーセント確保できます」
セオドアさんの指示棒が、滑らかに十年目の地点へと移動します。
「十年目。第一子を授かる想定ですが、これはあくまで君の身体的・精神的負担を考慮し、『任意』の項目としています。君が望まなければ、無理にとは言いません。君自身の意思を最優先するよう、私の人生プログラムを修正します」
「セオドア、さん……」
「そして三十年目。私たちは完全に第一線を退き、王都郊外の空気の良い田舎で、小さな農園を始めます。君の好きなハーブや野菜の栽培計画も、すでに土壌分析から済ませてあります。……そして」
セオドアさんは、グラフの一番最後。
緩やかに右肩上がりを描いて、穏やかに終わっている『五十年目』の地点を、愛おしそうに指示棒でなぞりました。
「五十年目。私たちは縁側で、二人で温かいお茶を飲みながら、これまでの人生の誤差がいかに少なかったかを語り合い……穏やかに、その日を終えます」
静かな執務室に、セオドアさんの落ち着いた声だけが響いていました。
私は、壁一面にびっしりと書き込まれた、その膨大な文字の海を見つめていました。
そこには、私が怪我をしないための安全対策、私が病気になった時の医療費の計算、私が笑ってくれるための休日の過ごし方まで、気が遠くなるほどの思考の跡が残されていました。
前世で、私をただの便利な道具としか見ていなかったあの人は、私の五年後すら考えてはくれませんでした。
それなのに、目の前にいるこの不器用な人は。
私が彼と一緒に生きていく五十年間という途方もない時間を、ただ私を幸せにするためだけに、こんなにも真剣に考え抜いてくれたのです。
「……セオドアさん」
「私は……感情を言葉で伝えるのが、誰よりも下手な人間です」
セオドアさんが、指示棒を下ろし、私に向き直りました。
その銀縁眼鏡の奥の瞳が、少しだけ不安そうに、けれど誰よりも真摯に私を見つめていました。
「甘い言葉も、気の利いた台詞も言えません。……だから、どうかこの計画書で、私の君への思いを代弁させてください」
彼は、私に向かって深く、深く頭を下げました。
「論理的に考えて……私の人生の計算式には、もう君という絶対的な変数が不可欠なんです。どうか、私の計画の隣で、ずっと笑っていてくれませんか」
その理屈っぽくて、真面目で、どこまでも不器用な愛の告白に。
私は、ポロポロと涙をこぼしながら、同時にクスッと吹き出してしまいました。
「ふふっ……あははっ。ひどいです、セオドアさん。こんなの……泣くしか、ないじゃないですか」
私は、エプロンの裾で涙を拭いながら、彼に向かって最高の笑顔を向けました。
「こんなに完璧な計画を立てていただいて、本当にありがとうございます。……すごく、すごく嬉しいです。私なんかのために、五十年間も考えてくれたなんて」
私がそう言うと、セオドアさんの顔が、パァッと明るく輝きました。
「ですが」
私は、昨日のルーカスさんに伝えた時と同じように、誠実に、真っ直ぐに彼の目を見つめ返しました。
「私はまだ、答えを出すことはできません。……皆さんの気持ちを、ちゃんと全部受け止めてから、私自身の答えを出したいんです」
私がそう告げると、セオドアさんは一瞬だけ目を伏せましたが、すぐに眼鏡を押し上げて、フッと優しく微笑みました。
「……計算通りです。君ならそう言うと、論理的に導き出されていました」
彼は、壁のグラフの一部を指差しました。
そこには、『香澄さんの回答保留期間』という小さな枠が、きちんと設けられていたのです。
「私は、君を待つための計画も、すでに完璧に立てています。……どれだけ時間がかかっても構いません。私の計画の最後には、必ず君がいてくれると信じていますから」
「ふふっ、本当にセオドアさんには敵いませんね」
私たちが穏やかに笑い合った後、私は彼の執務室を後にしようと扉に向かいました。
「……香澄さん」
背後から、いつもより少しだけ低く、熱を帯びた声が私を呼び止めました。
振り返ると、セオドアさんが、まるで大切な宝物を見つめるような瞳で、私を見つめていました。
「……五十年、丸ごと。あなたに使いたいんです」
その短く、真っ直ぐな言葉が。
どんなに緻密な計算式よりも強く、私の胸の奥を激しく打ち鳴らしたのでした。




