第55話 おかえりなさい、と言ってくれる人がいます
王宮の地下にある異界観測鏡の部屋を後にして、私たちは第七分隊の寮へと続く夜道を歩いていました。
ひんやりとした夜風が、火照った頬を撫でていきます。
私は、俯いたまま何も話しませんでした。
私の横や後ろを歩く五人の騎士たちも、私に何を問いただすこともなく、ただ静かに、私の遅い歩幅に合わせて寄り添ってくれていました。
過去の呪縛を、自分の言葉で完全に断ち切った。
その達成感と同時に、十二年間張り詰めていた心の糸がぷつりと切れてしまったような、不思議な脱力感が全身を包んでいました。
やがて、見慣れた寮の重厚な扉の前に到着しました。
ルーカスさんが前に出て、カチャリと鍵を開け、扉を押し開きます。
ふわりと。
寮の中に染み付いた、石鹸と、木の匂いと、微かなスパイスの香りが鼻をくすぐりました。
私が毎日掃除をして、ご飯を作って、彼らの帰りを待っていた、私たちの『家』の匂い。
「……香澄さん」
ルーカスさんが、玄関の灯りをつけ、私の方を振り返りました。
その青い瞳は、どこまでも優しく、私という存在のすべてを肯定し、包み込んでくれるような温かさに満ちていました。
「おかえりなさい」
ドクン、と。
胸の奥で、何かが弾けました。
『おかえりなさい』
それは、私がこの十二年間、どれだけ家事を頑張っても、どれだけ尽くしても、あの人から一度も言ってもらえなかった言葉。
私がずっと、ずっと、誰かに言ってほしかった言葉。
「あ……ぅ、ぁ……っ」
視界がぐにゃりと歪み、ポロポロと大粒の涙が溢れ出しました。
両手で顔を覆っても、涙は指の隙間から次々とこぼれ落ちて、止めることができません。
「うわぁぁぁん……っ、ひぐっ、あぁぁ……っ」
私は、玄関の床にへたり込み、子どものように声を上げて泣き崩れました。
これまで押し殺してきた悲しみも、寂しさも、そして今の計り知れない喜びも、すべてが涙となって溢れ出していきます。
「……よく頑張りましたね。もう、大丈夫ですよ」
ルーカスさんが、私の前に膝をつき、震える背中を大きな手で優しく抱きしめてくれました。
セオドアさんがそっと私の頭を撫で、カイルくんが不器用な手つきで私の肩をさすり、ノエルくんが私の腰に抱き着いて一緒に泣き、ジンさんが背後から私の体をすっぽりと温かく包み込んでくれました。
五人の不器用で真っ直ぐな愛情に囲まれながら、私は声が枯れるまで、思い切り泣き続けました。
* * *
それからしばらくして。
すっかり泣き腫らした目で、私は居間のソファにちょこんと座っていました。
「……はい、かすみさん。特製のホットミルクです。少し甘くしておきましたよ」
ルーカスさんが、満面の笑みで湯気を立てるマグカップを私の前にコトンと置きました。
「いや、泣いた後の脱水状態には、こちらの完璧な温度計算に基づいたハーブティーの方が論理的だ」
セオドアさんが、銀縁眼鏡を光らせながら、美しい琥珀色のお茶を隣に置きます。
「はぁ? 疲れた時は甘いもんに限るだろ。ほら、俺の特製ホットチョコだ。……さっさと飲め」
カイルくんが、少しそっぽを向きながら、濃厚な香りのするカップを押し付けてきました。
「お姉ちゃん、僕のも飲んで! 心がポカポカする魔法をかけた、特製のお茶だよ!」
ノエルくんが、ニコニコと可愛い笑顔で花びらの浮かんだお茶を差し出します。
そして。
「……」
ジンさんが、無言で私の前に置いたのは、ただの『白湯』でした。
料理が全くできない彼なりに、一生懸命お湯を沸かしてくれた不器用な優しさが、カップからじんわりと伝わってきます。
私の目の前には、五つの温かい飲み物がズラリと並んでいました。
「ふふっ……」
私は、その光景がおかしくて、たまらなく愛おしくて、吹き出してしまいました。
「皆さん、ありがとうございます。……でも、こんなに飲んだら、お腹がたぷたぷになっちゃいますよ」
私は笑いながら、それでも一つずつ、順番にカップに口をつけていきました。
甘いミルク、香り高いお茶、濃厚なチョコ、優しいハーブ、そして温かいお湯。
どれも、私のために彼らが一生懸命用意してくれた、世界で一番美味しい飲み物でした。
「んふふ……本当に、お腹がいっぱいです」
全部を少しずつ飲み終えた私は、たぷたぷになったお腹をさすりながら、心からの笑顔を浮かべていました。
もう、私の心に暗い影はどこにもありません。
ふと、私の隣に座っていたジンさんが、静かに私の髪に触れました。
「……かすみ」
「はい、ジンさん」
「……これからは、毎日、『おかえり』と言わせろ」
ジンさんの、掠れた、けれど力強い声。
それは、私がもう二度と、あの孤独な部屋に帰ることはないという、彼らからの絶対的な誓いでした。
「……はいっ!」
私は、大きく、力強く頷きました。
私を縛っていた冷たい過去は完全に終わりを告げ、愛する家族たちとの、温かくて甘い日常が、再び幕を開けたのでした。




